サンタクロースに捧ぐ、
桜々中雪生
サンタクロースに捧ぐ、
クリスマス。聖母マリアが処女受胎し、イエスが誕生した日。信仰のない私には、特筆してめでたいことも、特別なことがあるわけでもない日。だけれども、世界中の子どもたちにプレゼントを届けるというサンタクロース、彼の存在だけは信じて疑わなかった。愛情も何もない家庭に産み落とされた私のもとにも、その日の朝はプレゼントが枕元に置いてあった。
クリスマス・イブには、決まって殴られていた。吐かないように、お腹だけは必死に守っていたけれど、髪の毛を掴まれ、首を絞められ、背中や腕や足に、大小幾つもの痣が滲んでいた。クリスマス・イブでなくとも、虫の居所が悪かったり、悪い酒の酔い方をすれば、暴力は日常茶飯だった。だけど、クリスマス・イブは特別だった。いつもよりもずっと機嫌が悪い。私の父、であるはずの男が、出て行った日。黙っていた私の妊娠を腹の大きさで知り、何も言わずにこの人の前から消えた。両親がもう亡くなって親戚とも疎遠になっていたこの人は、頼れる人もなく、私を中絶する金もなく、ひとりで私を産み落とした。私に対して愛情はなくとも、愛した男の血を引く私を捨てる勇気がなかったのだろう、施設に預けることはしなかったけれど、私が幼い頃から、癇癪を起こして暴力を振るっていた。お前のせいだ、お前なんかを妊娠したから、あの人は私を捨てたんだ。お前なんか要らない。あらんかぎりの罵詈雑言を形のいい唇から吐き出しながら、私をぺしゃんこにしていく。この細い女性の体躯の、どこにこんな力があるのだろうと思う。痛みに慣れてしまった心と身体はどこからも滴を溢さずに、母親からの躾を黙って受け止める。痛みに抵抗したり、ごめんなさいと謝罪を口にしたりしたこともあったけれど、言葉を発すれば余計に助長させてしまうから、黙って、吐息のひとつも漏らさないように殺して、ひたすら時が過ぎるのを待つ。黙っていても、無抵抗な私が気に入らないようだけれど、声を出すよりも我慢する方が早く済むと気づいてからは、何も言わないようになった。痛みと疲れで床に転がったまま死んだみたいに眠って、目を覚ますと、枕元に剥き出しのおもちゃが置いてあった。いい子でよく頑張ったね。そう言ってサンタクロースがプレゼントを置いていく。そんな想像が、私を少しだけ幸せにさせてくれた。
私が高校を卒業しても、就職しても、変わらない毎日。唯一変わったのは、顔に痕の残るような暴力がなくなったことだけ。私を気遣ったわけではなく、単に自分の体裁を気にしているのだ。家を出ても良かったけれど、暴力を振るわないときの弱々しい姿が脳裏を過って、どうしても置いていけなかった。クリスマスにぽつんと置かれていたプレゼントも、家を出ていけなかった理由かもしれない。癇癪に耐えて独りぼっちにさせないことが、私がいい子でいる証明のような気がしていたから。暴力に疲れて死んだように眠るのは、私も変わらない。プレゼントはもうなくても、今までの思い出は消えない。少しだけ期待をして目を覚まして、もう大人になった私は空っぽの枕元に少しだけ絶望する。皺の増えたあの人も、癇癪を起こしたあと、私と同じように眠ることが多くなった。今朝、私が目を覚まして枕元に絶望したあと、大量の空になった酒の缶に囲まれて眠るあの人は目尻に涙の跡を残していた。眉間に深い深い皺を刻んで、固く瞼を閉じている。お前なんて。小さく呟く声が聞こえた。ああ、夢の中でさえこの人は私を憎んでいる。もうプレゼントも私の元へは来ない。私はもう、潮時かもしれない。とんとんとんと感情の抜けた頭が思考する。それに任せたまま、気がつくと私は私を憎むこの人を間近で見下ろしていた。
母さん、ごめんね。それでも私は母さんが好きだったよ。サンタさんには毎年、父さんをください、返してくださいってお願いしてた。一度も叶えてくれたことはなかったけど。でも、代わりにいつも、おもちゃを置いてくれてたよね。高校生になってからは、それがコスメに替わって。私が成長したことを認めてもらえてる、いい子だと思われてるんだって、嬉しかったなあ。私はもうとっくに大人になったけど、プレゼントはもうもらえないけど、母さんの呪縛からは逃げられなかったけど、サンタクロースはいるって知ってるよ。だからクリスマスは好き。今まで、毎年一日だけもらってきた幸せは、もう充分すぎるくらいだから、そろそろ返すね。私が返した幸せを、今度は、母さんがサンタクロースからもらってね。……寒い。母さんが目を覚ますまで、少しだけ傍にいてもいい? もうすぐ、母さんは幸せになれるから。その前に、一度だけ、愛してもらえてたって思いたいの。
サンタクロースに捧ぐ、 桜々中雪生 @small_drum
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