夏に溶かす

@mizuhami_zumi

夏に溶かす


 「炭酸が苦手なの」

 白いカーディガンで指先までを覆った彼女が、長い髪を揺らして呟いた。すだれ睫毛が下を向いて、そのままぴくりとも動かないでいる。開け放った窓から熱気が入り込む。薄緑色のカーテンが大きく揺れる。風が、額に滲んだ汗をじっとりと撫でた。人の熱をぎゅっと溜め込んだような、不健康な温度だった。

 「あー、いるよなそういう人。まぁ別に健康にも良くないし、嫌いな方がいいと思うけど」

 「まぁね。でもさ」

 彼女が白い指を袖口からそっと覗かせる。ぴんと一本立ったその指は、俺の左手に握られている瓶を指し示していた。夏、快晴の空を氷水で溶かして、そのまま固めたみたいな色合いの瓶。

 「あんまり葉月くんが美味しそうに飲むから、それ」

 俺は夏色の瓶を軽く振って見せる。瓶の中腹ほどに突っかかっているビー玉が、からん、と冷たげな音を立てた。

 「美味いよ、夏は特に」

 「だよね、見ててわかるもん」

 「羨ましくなっちゃうほど?」

 彼女は黙って頷く。少し不服そうに白い頬を膨らませて。そして、そのままこてんと首を傾げてみせる。黒く艶めいた髪が、清流の小川のようにさらり、と肩から流れ落ちた。

 「っていうか、それどこで売ってんの?」

 「え? 普通にガッコの近くの売店で」

 「珍しいね、ペットボトルとかじゃなくてちゃんと瓶のやつなんて」

 「あー確かに。その売店古くてさ、結構な年のじーちゃんが店番してるから」

 「そんな売店あったんだ」

 「そうそう。あそこの売店、すっげーボロいの。なんか風に吹かれただけで吹き飛びそう」

 それでも、それはその分だけ、いろんなひとの過去や思い入れなんかが詰まってるってことなんだろうけど。俺はあの場所が好きだ。ただの経年劣化があの建物を変えていったのではなく、あの建物は、抱えきれない大事な思い出たちの重さで崩れかかってるように思えるから。

 なーんてことを話したら、彼女はくすり、と肩を揺らした。

 「何が可笑しいんだよ」

 思わず顔が火照る。無理やり唇を尖らせて、右手に持っていたスマホでびしっ、と彼女を指した。そんな俺を見て、彼女はくつくつと口許を抑えて俯く。白い頬は陶器のようで熱を感じさせないけれど、額に張り付いた前髪が、彼女が生きた熱を保持していることを如実に物語っていた。

 「いや? でもなんか、小説家だなぁって」

 「なんだよ、茶化してんの?」

 「茶化してないよ、感心してるの。ロマンチストだし、言葉遣いがとっても綺麗。小説の中みたいで感心した。どう? 光栄でしょ?」

 「どうだかね。何しろ、その弛んだ表情には何の信憑性もないものでして」

 「ほら、また何か気取った言い方してる」

 「褒めてねーじゃねぇか」

 「あ、バレた?」

 彼女がまた笑う。喉の奥に押し込めるような、密やかで、でも心から楽しそうな笑い声。昼顔がそっと綻ぶみたいな笑顔。可笑しげに揺れる華奢な肩が、暑く滞っていた空気を緩く動かした。

 「で、小説家さんは、作品を仕上げられたんですか?」

 夜闇のような瞳をふいと上げて、俺の両目を真っ直ぐに貫く。貫かれた俺は、逃げるように顔をそっと背けた。

 「いーや、まだ」

 「書けないんだ」

 「生憎ね、なかなか難しくって」

 「ネタがないんだ」

 「まぁ、ざっくばらんに言えば、そうなる」

 それは困ったねぇ、と彼女は言葉面とは真逆に、のんびりとした口調で頬に手を添えた。遠くで蝉がじーじー鳴いている。その声が絶えず耳鳴りのように、俺の脳みそを細かく引っ掻き回す。

 「もう大体ネタ書ききっちゃったんだよなぁ」

 あーあ、と大きな溜め息をついて、真っ白なメモ画面で静止したままのスマホを高く掲げる。そんな俺を横目で流し見ると、彼女がふと、逃げ水のように淡く笑った。何笑ってんだよ、と俺が口を開きかけた瞬間、ゆらりと立ち上がってみせる。ひたひたと、どこか覚束ない足取りで俺の正面まで歩いてくる。ゆらゆら。影法師が揺れるみたいに頼りなく。俺は怪訝な表情で息を詰める。錆びた鉄のような匂いが、遠くで香った、気がした。

 彼女は俺の前で、不敵に笑った。

 ねぇ、

 「ネタがないなら、私が作ってあげようか」

 

 ぐらり、と脳が半回転。揺さぶられた、と気がついて顔を上げる。重たい頭を支えていた腕が、じん、と鈍く痛んでその存在を主張した。窓から差す強い橙色に目を細めて、そのままゆっくりと視線を上げると、目の前には腕をくんで仁王立ちする男が一人。

 男――夏樹は肩を揺すりあげてにやりと笑った。

 「お目覚めはどう? だいぶよく寝てたけど」

 「最悪。お前が寝起き一番に目に入ってくるとか耐えられない」

 挨拶代わりにわざと眉をぎゅっと寄せて、彼の姿を視界の端に追いやる。追いやった先でも、彼は変わらず笑ってみせた。ふはっ、と軽快な笑い声が俺の頭上でスキップする。

 「とんだ責任転嫁。悪い夢でも見てたんでしょ?」

 何気ない様子のその口振りに、一瞬、息を詰める。首裏がどくん、と大きく波打った。わるいゆめ。

 「……どうして分かるんだよ」

 「んー? だってお前、うなされてたじゃん。怖い夢でも見てたんじゃないの?」

 しっかりと首をもたげて、彼を再び、視界の中心に据える。女みたいに細くて、でも節々がくっきりとした指が、ぼりぼりと白い頬を引っ掻いていた。

 「そっか。俺、うなされてたんだ」

 「ウンウン唸ってた。牛みたいに」

 「そっか、……ありがとな」

 俺がお礼を言うと、そいつは首を傾げて唇の端をひょいと持ち上げた。口元は明らかに微笑んでるのに、端正な眉は怪訝そうに曲がって歪んで、何だか不思議な表情だ。

 「ありがとう、って何? まさか牛って言われたのがそんな嬉しかったとは」

 「いやちげーよ。わざわざ起こしてくれたんだろ? ありがとな」

 「へぇ? いやただ俺が待つの怠いなって思っただけだけど。まぁお礼は受け取っとく」

 「何だそれ。お礼返せよ」

 馬鹿馬鹿しいやり取りに思わず頬が緩む。へなりと表情を崩した俺をみて、何故だかそいつは突然噴き出した。え、と目をきょときょとさせると、彼は俺の頬を指差す。

 「はづきぃ、……んふっ、ついてる」

 「は? ついてるって何が」

 「あははっ、跡だよ、跡がついてる」

 ちょっと待ってな、と彼はごそごそとポケットを探る。あった、と言って取り出したのは黒いスマートフォン。ずいと差し出された画面を覗き込むと、そこには右頬に文字をくっつけた間抜けな男が映し出されていた。俺だ。

 「うあ、恥ずかし」

 ぐしぐし、と右手の甲で鉛筆の跡を擦る。彼女は校庭で、だとか、俺は空に、だとか。継ぎ接ぎの文章が俺の頬の上に薄く拡がっていく。

 「お前、原稿用紙の上に頬っぺたつけて寝てたんでしょ」

 「そうみたいだな。どう? 落ちた?」

 「まー、文字は落ちたけどまだ黒いね。水道で洗ってきなよ」

 「いやいいよ、文字が読めないくらい落ちたならそれで」

 そう? と彼は首をかしげる。ならいいけど、と言ってくしゃりと目を細めるそいつを何故か直視できなくて、俺は再び目を背けた。夏樹の笑顔は夕暮れに似ている。もしくは夏休みの最終日。強く心を惹かれると同時に、どこか焦燥感を駆り立てる。心臓の裏が、あるべきところに落ち着かない。

 「ごめんな、待たせて。じゃあ帰ろっか」

 ひょい、と机の脇のリュックサックを拾い上げて、立ち上がる。藍染めの染料の中に誤ってどぼん、と落としたような深い色。お気に入りの色だ。

 「そういえば進んだ? その小説」

 椅子を引いて、歩き出そうと一歩踏み出したその瞬間。ぽん、と脈絡もなく放り込まれた言葉に、俺は喉の奥を強張らせた。足が止まる。右手で掴んだ椅子の背もたれで体重を支える。

 「なんで、きゅうに」

 「いや、だって小説書いてたんでしょ? すやすや寝てるってことは進んだのかなって」

 「……残念ながら、あんまり」

 進んでいない。気持ちばかりが先走って、情景ばかりが鮮やかに過って。小さなペン先では、とても掬いきれない。文章なんてそういうものだ、と言われてしまえばそれまでだし、実際その通りなんだろうけど。なんてことを話すと、夏樹は大して興味もなさそうに、ふぅん、大変そうだね、と相槌を打つのだった。確かに、大変だ。書きたいことは定まっているのに、筆が進まない。今までに経験したことのない種類のスランプだった。

 「んー、じゃあさ」

 彼が、とん、と俺の机に片手をつく。背中には黒い無地のリュック。上体が軽く傾けられたのにつられて、薄汚れたくまのマスコットがゆらりと大きく揺れた。

 「やめたら? 小説」

 何気ない調子で。ふと思い付いたような声色で。でも、ちらりと向けた瞳は鷹のように鋭く光っていた。

 わかっていた。ずっとこいつは、この言葉を言う機会を窺っていたのだと。

 「え、何で?」

 俺も、彼と同じように返事をする。何気ない調子で、軽い声色で。でも、底にはじわりじわりと這い上がってくるような情動を秘めて。

 なんで、お前はそんなことを言うんだ。

 俺が固執する理由を知っていながら。やめられない理由を知っていながら。

 溜め息が聞こえる。喉に詰まっていた空気をちょっと吐き出すみたいな、小さな音。

 「ねぇ葉月。一応俺はお前を心配してるんだ」

 「何が言いたいわけ?」

 「鏡、見てる? 酷い隈だよ。頬も痩けてきた。まるで落武者だ」

 「ふーん、本物の落武者なんて見たことないくせに」

 「茶化すなよ。精神的に参ってるんでしょ? もうやめろって。こんなこと誰のためにもならない」

 諭すような彼の言葉に、ぷつんと何かが切れた、音がした。

 「……それなら、」

 「え?」

 それなら。それなら、彼女は。

 腹の奥で渦巻く感情が、逆流して、せり上がってくる。口の中にどす黒い言葉が溜まっていく。あぁ、苦い。舌を刺す、鉄の味。これは記憶か、それとも現実か。

 なぁ、それなら。

 目の前の彼が、息を呑む。しまった、といった風に口を小さく開く。

 「彼女は、どうして、」

 

 ひらり、と大きく胸元のスカーフが揺れる。セーラー服を身に纏った彼女が、ぐーっと大きく上に伸びる。白いシャツからちらりと肌色が覗いて、俺はそっと視線を外した。

 「ってか、うちの屋上って勝手に入れたんだ」

 もぞもぞと指先を動かしながら、何てことないことを呟いて。顔に貼り付いた熱気を振り払う。

 彼女は目をぱちくりさせると、急にふにゃりと目元を緩めた。

 「ふふ、勝手に入ったらダメに決まってるじゃん」

 「え、じゃあ」

 「ただ、まぁ入れはするの。うちの学校、ガバガバだから」

 「にしてもガバガバすぎだろ」

 「まぁ確かに。でも、だからこそ誰もいない放課後の屋上なんて、絶対に見つからないし咎められないってわけですよ」

 そういって自慢げに笑うと、彼女は高いフェンスの手すりによじ登った。そこに腰かけて、空を仰ぐ。濃い橙色の夕日を浴びて、長い髪がそよそよと泳ぐ。

 「ばっか、何やってんだよ!」

 「まぁまぁ、そんなお固いこと言わないで」

 気持ちいいよ、葉月くんものぼる?

 そう問いかけて、彼女は首をかしげる。白い輪郭が金色の光に縁取られている。そのまま光と一緒に輪郭ごと崩れていって、消えてしまいそうな。

 「いいから降りてこいって!」

 「うふっ、葉月くんって意外に臆病なんだね」

 「うるさいな、常識的なだけだろ!」

 いいから降りろって。危ないだろ。

 ただただその言葉を繰り返す俺を流し見て、彼女はふっと表情を崩す。

 「ねぇねぇ、今の私、綺麗?」

 白い足をぶらぶらさせて、眩しい斜陽に目を細めて。黒く美しい髪を生暖かい風に靡かせて。

 突然投げ掛けられた言葉に、俺はなす術もなく硬直する。

 「なっ、えっ、何だよ急に」

 「あははっ、葉月くん顔赤いよ」

 「う、うるさいなっ、夕日のせいだろ」

 「うーんじゃあそういうことにしておく?」

 それでもいいけど、と軽くいなされて、逆に居心地が悪くなる。ごにょごにょと語尾を口の中でぼかして俯いた。

 「でもこの光景が葉月くんに響かないと意味がないんだけどな」

 「……どういうことだよ」

 「言い方が悪かったかも。ねぇ、私、綺麗? インスピレーション沸いた?」

 その言葉でやっと、あぁ、と俺は頷く。ようやく辻褄が合った。そういうことか。

 「ありがとう、すごく絵になる」

 「小説になる、じゃなくて?」

 「まぁそうだけど」

 「うふ、ごめん。言いたいことはわかるよ」

 そう言って彼女は長い髪をかきあげる。どこか遠くで鳴る夕焼けこやけの音楽に身を委ねるように、ゆったりと体を揺らす。目を伏せる。空が沈んでいく。色の深みを増した光が、彼女の少し痩けた頬を優しく照らす。

 ふと再び、彼女が黒い瞳をこちらに向けた。

 「ねぇ葉月くん。葉月くんは、謎って好き?」

 「謎? 謎解きとか、ってこと?」

 「あーそれもあるけど、そうじゃなくて。何て言うんだろ、わからないこと、かな」

 例えば、好きな人の気持ち、だとか、嫌いな人の考え、だとか。知りようがないもの。理解できないもの。それこそ推理ものだったら、トリック、ではなく動機や心の揺れ動き。

 「そういったものについて考えるのは好き?」

 それこそ、謎みたいなことを彼女は訊く。

 「まぁ、嫌いではない、かな」

 「好きでもないんだ」

 「だって、答えがないことを考えるのってしんどいじゃん」

 「でも嫌いでもないんでしょ?」

 「まぁね。小説を書くためには必要なことだと思ってるし、小説を書くことは好きだから」

 「なるほど。小説ありきなら好き、ってことね」

 ふむふむ、と彼女は顎に手を当ててわざとらしく頷く。ひとしきり頷いたあと、ぼそり、と小さく言葉を落とした。

 「……よかった」

 「え? 今なんて、」

 「ところで葉月くん、私はあなたに謎をのこしていこうと思うんですけど」

 「えっ、……謎を、残す?」

 遮るように放たれた言葉に、俺はまた怪訝な顔をする。彼女といると、振り回されてばかりだ。彼女がジグザグと不規則に飛び回るのを、必死に追う俺。ひらりと身をかわす蝶を必死に追う虫とり少年のよう。この構図が、いつのまにか定着していた。

 「だって、謎が小説の根源なんでしょ?」

 「え? うーん……まぁ、そうとも言えるけどさ」

 「よって、ネタを提供するために私は謎を与えなきゃいけないのですよ」

 そうやって不敵に笑った彼女を見て、俺の胸が、不快にざわついた。体の奥がざらついて、何故だか体を縮こませたくなるような、そんな不安感。口が渇く。厭な汗が、首筋を伝う。

 「お前、何を」

 「私ね、」

 また、俺の言葉が遮られる。ひどく穏やかな表情の彼女が、歌うように言葉を続ける。

 じつは、わたしね。

 「私ね、死のうと思うの」

 その瞬間、呼吸が止まった。心臓の動きが止まった。ときが、とまった。

 遠くで聞こえる笑い声。校庭の砂埃の匂い。遠のくチャイム。熔けていく理性。俺を取り巻く、蝉時雨。ぜんぶがない交ぜになって、俺を取り巻いて、そのまま俺を押し潰そうとする。

 がつん、と頭を、殴られた。そんな痛み。

 衝撃、なんてレベルのものではなかった。これは痛みだ。意識が飛ぶ寸前くらいの痛み。頭がぼうっと霞んで、体の先端からすぅっと熱が退いていく。焦点が合わなくなって、視界の中心に捉えているはずの彼女の像でさえ、ゆらゆらと虚ろで、蜃気楼のよう。

 やめろよ、そんな冗談、と笑い飛ばしたいのに、頬が強張って上手く動かない。それどころか喉までもが固く閉じて、声を心臓の奥に押し込めてしまう。そのまま言葉を融かしてしまう。溶けて全身へ染み込んでいった言葉を、再び形にすることはできない。

 彼女はにっこりと笑う。恐ろしいほど端正な笑顔。真っ赤な唇は綺麗な弧を描いて、黒い瞳が零れそうなほどにくしゃりと歪んで。

 そのまま、滑らかに言葉を紡ぎ出していく。

 「葉月くんに、見て貰いたかったの」

 私の最期を。

 「……なん、で」

 思考が鈍って、痛みは鋭く。心臓は冷たい汗だけを押し出しているようだ。

 「俺の、せいで……?」

 「やだな、違うよ」

 心から可笑しそうに彼女は口許を抑える。くすくすと小さく揺れる肩が、この場に不釣り合いな笑い声を塞き止めていた。

 「ごめんね、死にたいのは私の問題。葉月くんは関係ないよ。でも葉月くんには見届けてほしいの」

 「どうして」

 「それは内緒」

 そういって人差し指を立てた彼女は、悪戯げに笑った。悪巧みをする幼子のような無邪気な表情。なのに、瞳の奥はどこか薄暗く翳っている。彼女を照らす空がどんどん紫色を帯びていく。

 「もしや、これが」

 「そう」

 これが、私の遺す謎。

 「まって、」

 手を伸ばす。足を前に踏み出す。踏み出しているつもりなのに、動かない。これは悪夢か、はたまたここは地獄か。俺はただ黙ってこの情景を脳髄に焼き付けるだけ。砕けそうなほどに心がもがいているのに、指一本すら、動かせない。

 「葉月くんの文章、だいすきだよ」

 何度も何度も彼女から贈られてきた言葉。大事な言葉。その言葉を口にして、彼女がそのまま上体を後ろに倒す。柔らかい笑顔で、なんの躊躇もなく、空中に横たわるように。

 当然、そのまま横たわることなどできない。上体ごとひっくり返った。くるりと白い脚が大きく宙を舞って、引き伸ばされた時間の中、頭がするすると地面に引き付けられていく。

 落ちて、堕ちて、墜ちて、

 見えない。もう見えない。

 なにも、わからない。

 気のせいだ。まやかしだ。白昼夢だ。

 眼球の奥を刺す夕暮れも、鼻を掠めた鉄の匂いも、何かが潰れた歪な音も。

 ぜんぶ、

 

 くらり、と視界が捻れて、足元がふらついた。いたむ。いたんでいる。痛みだけが彼女を悼んでいる。

 「あっぶな!」

 がし、と肩を掴まれる。目を丸くした夏樹が俺の顔を覗きこんで険しい表情をした。

 「しっかりしろよ、立ってるだけでふらつく馬鹿がいるかよ」

 夏樹が唇を噛み締める。大きな瞳はきゅっと細められ、獲物を狙う獣のようだ。俺は目も逸らせずに息を呑んだ。

 「今のでわかったろ。お前はあのことを思い出すだけで凄まじい精神力を使ってる。このまま小説なんて書いてたらお前は本当に、」

 「んなこと俺だってわかってるんだよ!」

 しっかりと目を見据えて、俺は夏樹に噛みついた。感情が俺の心に巻き付いて、鎌首をもたげている。威嚇の声が脳をがんがんと刺激する。

 「でも俺は! 書かなきゃいけないんだ!」

 そうしないと、俺は彼女の行動に意味を見いださない。そうしないと、俺は思考の沼から抜け出せない。そうしないと、俺は彼女から貰ったものを返せない。

 そうしないと、俺は彼女を葬れない。

 残された道は、たったふたつだった。ひとつは、血反吐を吐きながら小説を書く道。そしてもうひとつは、傷痕に触れないように過去を箱の中に閉じ込めておく道。痛みを、文章を紡ぐということを仕舞いこんで、鍵をかける。このことは、忘れることと同義だ。それが圧倒的に楽な方法であることはわかっていた。でも、それだけは絶対に赦せなかった。

 俺は、おれは、

 「おれは、あいつを忘れたくない……」

 俺の荒い息遣いだけが、がらんどうの教室の中で響いている。視界の端、机に置かれた花瓶が心臓を刺す。白い花。憎らしいほどに可憐な花だ。いつの間にか日は暮れて、薄闇が周りの空気を塗り潰していた。夏樹がぐっと眉根を寄せる。ちろりと舌で唇を舐めて、息を深く吸い込む音が聞こえた。吸い込まれた息は、そのまま俺の胸にぶつけられる。

 「忘れなきゃいいだろ! 忘れなくてもいい、でも苦しむ必要はないって言ってるんだよ!」

 「それが出来ないから苦しんでるんだろ!」

 「じゃあせめて書くのをやめろ! 精神磨り潰して小説書いて、そんなの馬鹿みたいじゃないか!」

 「わかってるよ! そんなの知ってる!」

 「じゃあ何で辞めないんだよ?!」

 「だって!!」

 だって、だって。声にならない言い訳が全身を駆け巡って、喉の奥に溶けていく。彼女が遺したもの。謎。だいすきだよ、と告げたその言葉。まるで呪いだ。彼女が投げ棄てていったもの全てが、俺の心臓を突き刺して、身動きをとれなくしていく。

 「じゃあ、……おれは、どうすればよかったんだ」

 彼女の声が、耳を掠める。くるりと回って、長い髪を揺らして、忘れるな、と告げられる。忘れないで、考えて。この意味を、遺した謎を。滴るように朱い空の下、彼女は踊る。そのまま、ぐしゃりと潰れて消える。赤が散る。歪な音。

 幻想だ。それこそ夢でしかない。でもその光景が、脳髄に突き刺さって、離れない。

 「だって、あの光景は、俺だけのものじゃないか」

 俺が忘れたら、彼女の言葉はどうなる。脳髄からその言葉が消滅した瞬間、それは無かったことになるのではないか。彼女の死を証明するものが、ひとつ消えてしまうのではないか。

 それが、恐ろしい。

 「だからね、葉月、もうやめよう」

 夏樹が、俺の両肩を掴んで揺さぶった。細い指が俺の広い肩に突き刺さる。

 「言ったろう、誰のためにもならないって」

 大きな瞳が、揺れる。整った顔立ちが苦しそうにしかめられる。その表情を見て、胸の奥がまた疼く。

 「俺、葉月みたいに語彙力ないから、上手く言えないけど、でも絶対変だ」

 「変って何が、」

 「そんな、葉月が苦しむなんて。葉月がそんな辛い思いをするなんて、違うよ」

 だから、ね、おわりにしよう。

 その囁きは、天使の声か、悪魔の誘惑か。

 俺は目を閉じる。吸い付くような熱気。蝉時雨。校庭の幽かな喧騒。壊れかけのクーラーの音。ラムネ瓶。突き抜けるような、青。二人きりの狭い教室。そこで笑う彼女。

 「……ありがとう、夏樹」

 でも、ごめん。

 そう告げると、彼は呆けたように表情を消していった。すうっと口が閉じていく。肩に食い込んでいた指が離れる。だらん、と力なく両腕を垂らす。

 「俺、やめない。それでも、最後まで書かないと」

 「……そっか、」

 そう言って彼は力なく笑った。申し訳程度に上げた口角が、へなりと曲がる。目が伏せられる。はっ、と乾いた笑いが彼の口から漏れ出した。

 「せっかく忠告してやったのに」

 「ごめん」

 「これ以上止めても聞かないんだろ」

 「うん」

 「……それでも、俺はずっと止め続けるよ。だって、」

 見てるこっちが、辛いから。

 「……うん」

 彼の言葉が俺の全身に染み渡っていく。それはさながら、白い紙に黒々と滲んだ墨汁を、一滴の水が僅かにぼかして薄めてくれるようだった。痛みが淡くぼけていく。体の奥の強張ったところを、緩くほぐしてくれる。

 「じゃあ、今度こそ本当に帰ろっか」

 彼はそう言って苦笑する。相変わらず夕暮れみたいな笑い顔。夕焼け、あの美しいオレンジを見て、純粋に心洗われていた。そんな頃が、俺にもかつて、確かにあったのだ。

 「帰ろう」

 すっかり暗く沈んだ外を見やって、俺はカバンを揺すり上げた。重みがずしん、と肩の上で跳ねる。深い藍のリュック。青藍、ではない。どちらかというと沈みかけの空、今の空の色の方に似ている。この色がお気に入りだ。彼女がひどくお気に召した色だった。

 風が吹く。生きた熱を閉じ込めたような、生暖かい風だった。夏樹がひょろ長い体をひょこひょこさせて歩きだす。俺はそっとその背中を追う。夏は終わらない。まだまだ夏は、秋の裏側でそっと息を潜めている。

 淡い花の匂いが鼻を撫でた。彼女の髪の匂いと似ていた。

 

 

 

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