ヴィジョンズ・オヴ・フライト

鯵暗示

ヴィジョンズ・オヴ・フライト

 その住宅地は郊外の、周囲よりほんの少し標高があるせいで人が住み着かなかった場所を、70年代になってから切り拓いて開発された。周囲よりほんの少し標高があるがために、それなりに高い建物の上からならば、そこを取り巻く田園や丘だけでなく、その向こうの海まで見通すことができる。

 その街(住宅地と呼び続けるのは不便だ)にある団地にわたしは住んでいる。団地の中で最も高い建物は13階建てになるが、わたしと両親が住んでいるのはそれとは別の、より背の低い建物の5階だ。13階立ての建物の13階の廊下からは、その街のほかのどこからよりも、遠くが見える――少なくとも、当時のわたしはそう考えていた。その街にあって13階がある建物を、わたしはほかに知らなかった。

 わたしは家に帰らずに、その13階に居る。制服のまま、スクール・バッグも傍にある。わたしは棒立ちになって、そこからの風景を一つ一つ丹念に観察する。田園と雑木林、土地の起伏の向こうに隣の住宅地があり、その先には海があり、海峡に掛けられた吊り橋がある。吊り橋は巨大であると知っているし、この距離からでもその構造を見て取れるということからやはりそれは巨大なのだろうとの推論も立てられる。

 もう満足だというところまで景色を眺めつくしたところで、わたしは軍手をした手でスクール・バッグから新品のコピー用紙の袋を取り出す。封を開けると、まっさらな紙が500枚入っている。その一枚を抜き出して、わたしは紙飛行機を作る。定規を使って刃のようにはっきりとした折り目を付け、それら折り目の位置に少しでもずれがあれば、新しい紙で一から作り直す。

 軍手をしたのは、その紙飛行機を飛ばしたのがわたしだとばれてしまわないためで、指紋から身元が割れるのをわたしは恐れたのだった。未使用のコピー用紙を使ったのも同様の理由からだった。今となってはとんでもなく馬鹿げた心配に思えるが、当時のわたしはいたって真面目にそれを心配していた。いたって真面目に臆病で、それにもかかわらずマンションの13階から紙飛行機を飛ばすという子供のいたずらじみた考えにわたしは憑りつかれていた。だから挑戦は一度だけと決めていたのだった。

 そう、挑戦は一度だけ。折り上げた紙飛行機の細部をチェックする。折り方、形状については各種ある中から最良のものを選定した。公園での度重なるテストにより、正しく折ればかなりの航続距離を出せることを確認してある。投射の仕方も、風の読み方も研究した。右手に紙飛行機を構え、風を待つ。

 そして追い風が吹き、わたしは紙飛行機を放った!

 それは順調に飛行した。道路を超え、道路を挟んだ先にある公園を囲む木々を超えた。機体は安定し、このまままっすぐに空気を切り進み続けるかに思えた。しかし突如として、乱れた気流がそれをとらえ、飛行機は不規則な運動を始めた。思わずわたしは目をそむけてしまった。すぐ視線を戻したが、紙飛行機を視界のうちに再び見出すことはついにできなかった。それが飛行を続けているのか、それとも公園の大きなため池へと不時着したのか、知る術はなかった。わたしはその場を後にした。外階段を降りながら軍手を外し、バッグへと突っ込んだ。紙飛行機投げの疑いをかけられるわけにはいかなかった。


 空中に浮く夢は何度も見たことがあるが、鳥になる夢は見たことがない。見るのはどこか高いところから飛び立って、空中を滑る夢ばかりだった。グライダーや紙飛行機と同じく自前の動力を持たず、滑空する能力だけを与えられて、少しずつ高度を下げながら遠くを目指す夢。高校を卒業するまで住んでいた住宅地のどこかから飛び立って、大抵は住宅地から出れずに着陸する。

 一度だけ、明晰夢を見たことがある。今いるのが夢の中であると気付いてしまえば、その夢の世界を自由に操作できるというあれのことだ。わたしがその夢の中でしたことといえば、まっすぐに空へと飛び上がることだった。夢の力を用いて、自ら高度を上げることにわたしは初めて成功した。しかし、それが夢とわかる夢は不安定なものらしく、そのときのわたしもすぐ目覚めてしまった。


 動物全般が好きではないわたしが、鳥類だけには親近感を覚えるのは、彼ら彼女らが飛ぶ生き物だからなのは明白だ。コバルト・ブルーの絵の具だけ減りが早かったのも、わたしがその色を空に結び付けていたからだろう。

 猛禽類と思しき鳥が、旋回しながら、コバルト色が深まる方へと少しずつ登ってゆく。よくよく観察すれば、彼ら彼女らはそれほどはばたきはせず、専ら翼が受ける大気の力によって空を駆け上っているのがわかる。その認識を意識の奥底に深く刻みつけておこうと思った、今夜夢を見たいと思った。


*作者注:本作のタイトルは、Robert Sheldon氏による楽曲「Visions of Flight」より着想を得たものです。

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