巣籠もる鳥

青桐美幸

第1話

「どうしてそんなに自由でいられるの」

 答えが見つけられず、今まで積もっていたつかえを遂に吐き出した。

 しかし、投げかけた言葉は受け取ってはもらえなかった。本当に意味がわからないという風に、相手は純粋に首を傾げてみせたから。

 疑問に思うことも自覚したこともないのだとはっきりした瞬間、消えたと感じた痛みがより強くぶり返した。

「どうして……私は自由になれないの」

 最早それは問いかけではなく届きもしない呟きだった。



 昔から縛られることが大嫌いだった。

 学校ではひたすら無意味な知識を詰め込むだけの授業や強制参加の行事。家に帰れば家事手伝いや弟妹達の世話は当たり前で、長女だからという理由で諦めたことや割りきることも多かった。

 気づけば自分のことはいつも後回しになっていて、自由に使える時間が驚くほど少ないことに愕然とした。

 殊更自分だけが不自由なわけじゃないのかもしれない。そう考えた時もあった。家の手伝いぐらい皆しているだろうし、学校に閉塞感を抱いている人間なんてたくさんいると。

 でも、返ってきた答えは期待していたそれではなかった。

「家の手伝い? 全然してないよー。だって面倒じゃん」

「家帰ったらお菓子食べながら寛いで、ご飯食べてテレビ見て、お風呂入ってメールしてるかな。宿題? 次の日誰かに写させてもらうから平気平気」

 何て贅沢な生活なんだろうと思った。おそらく周りに比べると、自分は要領が悪く生真面目な性格が災いしているのだろう。ただ、それでも何もせず無為に時間を過ごす彼らのようにはなりたくなかった。

 もっと時間がほしい。本を読む時間。習い事をする時間。誰にも干渉されず煩わしさから解放される時間。――一人になれる、自由。


 どこかに自分と同じようなことを考えている人間がいないだろうかと探した。一人の時間はほしかったけれど、価値観を共有できる仲間も求めていた。

 そうして、見つけたのが彼だった。

 特に意識したことのないクラスメートの一人だった。目立つ容姿でも飛び抜けたところもなく、自分と同じように学校に来て授業を受け、友人と他愛ない言葉を交わし一日が終わる生活をしている生徒だった。

 それが、本当はそうじゃないと知ったのは偶然だった。

 放課後、何となく家に帰りたくなくて、けれど教室でだらだらと話をする気にもなれず、逃げ場所を探して屋上に行った時だった。誰もいないと思っていたはずのそこに先客がいた。

 それが彼だった。

 コンクリートに横たわり眠っているように見えた彼が、侵入者の存在に気づき、ゆっくりと身体を起こした。

「放課後ここに来る人は誰もいないと思ってたんだけどな。初めて?」

「えっと……、うん。邪魔だった?」

「いいや。屋上は俺一人のものでもないし、誰かを拒む権利もないから。でも、珍しいね。こんなところに興味ないと思ってた」

「私は……ただ、静かな場所がほしくて」

 自分だけの世界にいたくて。

 飲み込んだ思いを感じ取ったのか、彼は「そう」と言って自分の隣を指差した。

「座ったら? 何も考えずに空を見てるのって結構気持ちいいよ」

 言われるままに腰を下ろし、しばらくは頭を空にしてぼんやりと動いていく雲を眺めていた。何が変わるわけでもないけれど、なぜか心は満たされていた。

 三十分ほど経った頃、そろそろ帰らなければまずいと思い出し、全く会話をしなかったもう一人の主に「お邪魔しました」と声をかけた。

 すると、「またいつでもどうぞ。俺が言うのも変だけど、いつ来てもここは人を歓迎してくれる気がするから」と少しおどけて笑った。

 頷いて屋上を後にすると、毎日憂鬱だった帰り道が嘘のように違って見えて、軽い足取りで帰路につくことができた。開放された空間にいたというだけでなく、彼の言葉や微笑みが、自分の気持ちを和らげてくれたようだった。


 それから、幾度となく屋上に足を運んだ。たとえ何もない時でも、気が済むまでそこで一人の時間を満喫した。主に昼休みか放課後が多かったけれど、彼がいようといまいと気にせず黙って空に思いを馳せた。

 最初に寝転んで空を見上げていた彼は、毎日屋上を訪れているわけではないとわかった。自分以上に気ままで、時には授業をサボってまで向こうで過ごしていることもあり、今まで気づかなかった多くのことにいちいち驚いた。

 男子といえども教室では何人かで固まって話をするのが普通の休み時間の光景だ。でも、彼は同じぐらい一人でいる時も多かった。ただじっと窓の外に目を向けていたり、意外にも文庫本を読んでいたり、たまに次の授業の予習をしていたり。当たり前のように自分のしたいことをする彼の姿に激しく惹かれる自分を感じた。

 本当は自由になりたいのにそれを覆う殻から抜け出せず、羨んでばかりいる自分とは違う。何の柵もないような、あってもそれを柵と感じていないように振る舞う彼は、自由そのものだと思った。

 だから憧れた。不思議と妬ましいとは思わなかった。

 彼と一緒に居ると、自分も自由でいられる気がした。気休めでも錯覚でも、彼といる時間が一番の安らぎになっていることは事実だった。

 それが思い上がりにすぎないと悟ったのは、いつものように昼休みに二人で屋上にいた時だった。


 その日は、友人達の他人の陰口を言う姿に耐えられず、適当に理由をつけて教室から逃げてきたことがきっかけだった。

 そして、普段はほとんど口をきくことなどなかったのに、なぜだか自分から教室での出来事について話し始めてしまっていた。

「どうして人の悪口を面白がって言えるんだろう。言われた人はもちろんだけど、聞いてる方も嫌な気分になるって思わないのかな」

 思ってたらそもそも言わないよね、と呟きながらため息をつくと、それまで黙っていた彼が不意に口を開いた。

「そのまま言えばいいんじゃない?」

「え?」

「人の悪口なんか話すのやめればって」

「そんなこと……」

「じゃなきゃずっと聞かされることになる。意思表示しないと、自分を押し殺して我慢しなきゃいけないようになると思う」

「でも、そんな簡単に言えたら苦労しない……!」

 考えたこともないのだろう。告げた瞬間から向けられるであろう瞳の冷たさを。浴びせられる視線の強さを。疎外され、孤立させられるかもしれない恐怖を。

 確かに一人になりたい時はある。人といることに疲れて息苦しく思う瞬間はある。けれど、群れから離れて集団生活の中で自分だけ異質だと区別されるのは耐えられない。少しでも自分達と違う一面を持っていたら、すぐさま距離を隔てられ相手にされなくなる。それで平気でいられるほど強くはない。

「……どうして、そんなに強いの?」

「別に強くないよ。何でもかんでも人に合わせて自分の気持ちが死んでいくより、誰とも合わなくても好きに生きたいだけ。ちょっとかっこつけてるかもしれないけど」

「十分強いよ」

「違うって。やりたいことをやって、話が合う人間とつき合って、自分が満足だったらそれでいいっていう、単なる我が儘。我慢したり遠慮したりして疲れるのが嫌だから優しくできないし。強いんじゃなくて冷たいだけ」

「でも、やっぱりそれって縛られない強さだと思う」

 目線、言葉、集団、概念――あらゆるものに対して囚われることを望まず、自分の意志だけで行動できる。

 周りに合わせられないのでも、合わせたくないのでもなく、ただ合わせない。それがどれほど大変なことかわかっていないのではなく、大変だと感じないのだ。

“自由”というものの正体が見えた気がした。同時に、自分は絶対にそうなれないことを思い知った。

 なぜこんなにも違うのだろう。価値観も、意志の明確さも、人との距離の取り方も。知れば知るほど自分との差がはっきりと浮かび上がり、どう足掻いても彼のようにはなれないことを意識させられる。

 自分の優柔不断さが情けなく、意志の弱さに歯噛みする。でも、今までそれ以外の生き方をしてこなかった自分にとって、彼の生き方は未知のものであり恐れの対象でもあった。

 その臆病さが最も大きな障害だとわかった今、乗り越えられない自分に苛立ち、元よりそんなものを持っていない彼に初めて嫉妬した。

 どうしてこんなに違う?

 どうして彼だけが許されて、自分は嘆き羨望することしかできない。彼が持っているものをほしいと、こんなにも願っているのに。

「どうしてそんなに自由でいられるの」

 最初から自由な思想を持っていた彼は、自由であるということすら自覚していないに違いない。

 自分の方がずっと強く焦がれているのに。彼よりも、誰よりも、ずっと強く望んでいるのに。

「どうして……私は自由になれないの」

 思わず零れた一筋の涙だけが、燻っていたものを吐き出す出口となり、ほんの少しだけ“自由”になった気がした。

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