純粋ディギング

cokoly

純粋ディギング

 深く深く地面に潜ろうとした。

 何かを掘り起こそうとか、落とし穴でも作ってみようかと思った訳ではない。何か目的があっての事ではないのだ。

 ただ、ふとした瞬間に足下の地面を見下ろした時、そこに土があって、その下に分厚い土の層があるのだという事を、そのイメージを頭の中に描いた時、ほとんど同時に「本当にそうだろうか?」という疑問が浮かんだ。

 いや、こんな事は考えなくても分かるのだ。

 地面を掘れば穴が開く。

 掘り続ければその穴は深くなる。

 それで何の疑問もない。

 一般常識。

 周知の事実。

 既知の領域。

 当然僕もそう思っていた。

 しかし、だ。

 何故かその時その瞬間の僕の意識には、焼きごてでも当てたみたいに明確な疑問符がこびりついた。

 ほんとにそうだろうか?

 掘ってみなきゃ分からないんじゃないのか?

 そういう疑問。

 元来僕はこういう質なのである。

 それまで当たり前にこなしてきた事、当たり前に理解していた事、当たり前に使っていた物、当たり前に話していた言葉、そういう物が何の脈絡もなく突然のタイミングで不自然に感じられてしまう時がある。

 今回もそういう話なのだろう。

 もし僕の行動が善悪を左右するような事であれば、この行動は「魔が差した」と表現できるだろう。あるいはその前後で周囲の状況が著しい変化を起こして事件や事故に繋がるならば、それは「一線を越えた」という表現が適当かも知れない。

 しかし僕はニュートラルだ。何の価値観もなく決断も要せずに穴掘りを開始する。開始してしまう。この行動に社会性はなく閉じている。誰にも迷惑はかけない。気を遣う事は何もない。何よりここは家の庭だ。自分の家の庭だ。誰に憚ることがあろうか。

 少し離れた地面にスコップが転がっている。園芸用の片手で持てるやつだ。

 まるで僕を誘うように都合よくそこにある。

 何かの作業の途中でほったらかしたのだろうか? 我ながら思い出せないがそれを拾って元の場所に戻って道具の先端を地面に突き刺す。

 ざくり。

 それは懐かしい感触。

 子供の頃よく味わった感触。

 手に伝わる振動。

 耳に響く音。

 地面の手触り。

 いつの間にかアスファルトに慣らされていたんだ。

 ほんの数回で地面に小さく浅い穴が空く。それはまだ穴というよりは窪みというレベルだ。一度手を休めてスコップを持ってない方の手をその窪みにあててみる。それはただの窪みだ。地面が凹んでいること以外に認識できる現象は他にない。

 まだまだだ。

 何がまだなのか、それは考えないことにした。

 ただ、そんな言葉が頭に浮かんだのだ。

 まだまだ。

 掘り足りない。

 ざくざく。ざくざく。ざくざくざくざくざくざくりざくざくざくざくざくざくざくざくざくざっざっざっざっざっくりざくりざっくざっくざっくざっくざくざくざくざくざくざくざくざっくざくざっくざくざっくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざくざっくざっくざくざくざくざっくざくざくざくりざくざくざくざくざくざくざくざっくざくがつり。

 刃先が小石に当たった。

 小さな石だ。大した障害にはならない。

 また掘り続ける。

 ざくざく。ざくざく。

 深さと直径が三〇センチほどのささやかな穴が出来た。

 背中が汗ばんでいる。

 額を流れた汗が眉毛にかかり方向を変えて大外を回ってこめかみの方から目に入る。沁みる。腕で汗を拭う。

 一体僕は何をやっているんだろう?

 純粋な穴掘りさ。

 そんなやりとりが意識の奥で小声で僕に問いかけて返す自問自答。

 作業を続ける。

 もっともっと。

 ざっくざっく。

 行けるところまで行こう。

 掘れなくなるまで掘ろう。

 よくわからない前向き精神。しかし実際の行動的には下向きと言った方がいいのか。くだらない疑問だ。しょうもない発想だ。思考するにも値しない。しかし浮かんでくる。避けられはしない。無意識はコントロールできない。しかし邪魔になる訳でもない。

 行動がシンプルなだけに余分な精神的副産物も産まれてくるのはまあ仕方ないところだ。

 がつり。

 いてて。今の石は手首に響いたぞ。

 がつり。

 まただ。

 ちょっとした衝撃が二度続いて、そこで僕は力の加減を変えることにする。

 ずっと力任せに掘っていただけだったけど、掘り続けると、ただ穴を掘るということにも要領というものがあるのが分かってくる。上手いこと力を使わずにやった方が疲れずに済むし、なにより思っていたよりも地面は堅かった。五〇センチぐらい掘り下げたところで土の中に石が混じり始めた。スコップを差し込む度にがちり、カチッと歯に石が当たる。ちょっとだけ「掘ったな」という気分になる。

 穴は中に入ってみると何とかそこに立てるぐらいのものになっていた。このままこの調子で掘り続けたら、人が一人すっぽりと嵌まって何もできなくなるスペースが出来上がるだろう。

 しかしながらざくざくざくざくと掘りながらもだんだん掘り難くなっていたので穴を少し広げることにする。

 どっちにしろ僕が自分の身体を使って掘る限りでは、今の穴はこれ以上深くはならない。腕の長さが限界だ。穴の直径を広げて、穴の中で作業できるようにしないといけない。

 スコップで穴の縁の部分からじょりじょりと土を削り取る。雑草の根っこが少し引っ掛かったりしてその部分を削る感触が気持ちいい。

 じょりじょり。

 ぞりぞり。

 髭剃りみたいだが似て非なるもの。この時既に僕の頭に疑問はない。純粋に穴を作ることに精魂を傾けている。

 穴を作る?

 穴を掘る。

 言葉の綾だ。

 意味は少し変わるかもしれないが結果は同じだ。気にするほどのことでもない。

 純粋に穴を掘るとは一体どういう行為だろうか?

 純粋に飯を食う。

 純粋に歌をうたう。

 純粋に壁を殴る。

 純粋に人を殺す。

 純粋に銃を撃つ。

 純粋に恋をする。

 純粋にうなじの匂いを嗅ぐ。

 純粋に乳首を吸う。

 純粋に子を育てる。

 純粋に涙する。

 純粋に腹を立てる。

 純粋にナイフを磨く。

 純粋に穴を掘るとは一体どういう行為だろうか?

 そんなことなど考えない。

 僕はただ穴を掘るのだ。

 立派な穴を。

 誰にでも覚えがあるだろう。

 ひとつの作業に没頭すると、そこに洗練の過程が生じることを。

 どんなに単純なことにでも何らかの方向に高めていく余地があることを発見し、そこに向かって邁進する。自分の作業に細かな無駄を発見し、それを削り取っていく。単純化と効率化と速度の向上。いわゆるマシーン。いわゆるゾーン。集中力が高まって雑念余念が取り払われ思考もなく感情もなくただただ目の前の作業を手早くこなす。

 そのような純粋さが今の僕にはある。頭の中をまっしろにして、いつか普通に自然に持ち合わせていた純粋さを取り戻す。

 気が付くと穴の広さは直径にして約一、五メートルくらいの広さまできていた。

 そこでいったん手を休める。

 スコップを地面に投げ出し、穴の縁に腰をかけ、尻のポケットから取り出した煙草に火を点ける。フィルター越しの煙を吸い込む。美味い。久々に煙草を美味いと思えた。

 当然ながら穴の周辺には元々穴の中にあった土がたっぷりと盛られている。僕はそれを眺めて、次に穴の中を見る。

 まだまだだな、と思う。

 何がそう思わせるのか分からないが、この穴は中途半端だ。まだまだ掘る余地が残っている。

 僕は自分の掘った穴に魅入られている。だがそのことに気付いていない。考えているのは、この穴をどのように掘っていくかということだけだ。この穴はまだ不完全だ。未完成だ。まだまだ掘り下げる必要がある。それが穴に対する礼儀であり、あるべき姿勢だと思えた。

 僕は穴の縁から腰をあげると、いったん靴を脱いで、キッチンへ行き冷蔵庫からキリッキリに冷えた麦茶を出してグラスに注ぎ、ぐっと飲み干した。グラスをシンクの中に置き、排水口を眺めていたら、考えが浮かんだ。

 道具を替える必要がある。

 すぐに物置小屋へいって園芸用のスコップを収め、代わりに足を掛けられる両手持ち用のシャベルを取り出した。飛び込むように穴の底に降り、シャベルの刃先を土に突き刺し、足を使ってガツガツと埋め込んでいく。てこの原理を上手く使いつつ掬った土の塊はスコップの何倍もあろうかという量があった。地上に向けてその土を放り上げ、また同じ事を繰り返す。格段に作業効率が上がった事を実感する。

 これはいい。

 無心になってまたひと掘り、またひと掘り、またひと掘り。掘っていく。多少石が混じっていても、問題にならないくらいの力強さが生まれていた。

 雲が流れたのか、少し陽が陰った。腕で汗を拭い、空を見上げたが、雨が降りそうな気配はなかった。雲は緩やかに流れている。懐かしい感触。忘れていた感覚。少年時代の、夏の空気。鼻から息を吸う。口から吐き出す。煙草をやめていて良かったと思った。いつも吸っているはずの空気が、やたらと美味い。僕は気を良くして、またシャベルを握った。

 自分の腰が埋まるほどの深さまで掘ると、彫り上げた土が穴の縁に高く積もってきて、その内のいくらかはまた穴の中に流れ転がりもどってきてしまう。掬った土をもっと遠くに投げなくてはいけない。そうすると、シャベルで掬った土を少し遠くに投げるということにもやはり要領と言うものがあった。例えばそれは刃の部分にボールを載せて放り投げるような感じだといえるだろう。上手く投げると掬い上げた土の塊は空中でばらける事なく塊のまま飛んでいって、離れた場所に落ちる。こうしてまた突き詰める余地のある行程が発生した訳だ。

 ときどき水分を補給しながら作業を続けていった。どこかで飽きが来ても良いようなものだったが、ここまで来たら徹底的に掘ってやるという気持ちになっていた。

 それに、これはなかなか不思議な感情なのだが、掘っていくうちに穴の中が心地よくなってきたのだ。心が休まるような気持ち、安心感。そんなものが胸の奥でふつふつと淡い熱を帯びてうたかたのように弾けている。

 穴の広がりと深さのバランスを考えながら、一心に無心に掘り進めて、いつしか肩まですっぽり埋まる深さになった。途中でハシゴを用意して穴からの出入りが楽になるように留意した。

 直径と深さがそれぞれ二メートルほどのところまでいった頃、さすがに疲れを感じて手を休めた。水は飲んでいたが、かなりエネルギーを使った事には違いない。「いま地震がきたら生き埋めになっておしまいだな」と思った。

 もはや壁と呼ぶに相応しい穴の側面にシャベルを立てかけ、その場に座り込んだ。頭上を見上げると、少しだけ狭くなった空が朱に染まり始めていた。オレンジと紫を水で薄めたような、それでいて溶け合わないような色。絵の具でこの色を作ろうとしても簡単にはできない気がした。これほど鮮やかで光に満ちあふれ、それでいて暗みを帯びた色など、人の手で生み出せるはずが無いと思えた。それにしても、自分が掘った穴は確かに僕という人間の手で掘ったものだけれど、ほれぼれするほどに美しい真円に近い形に見えた。錯覚だろうか。

 その時、地面に置いていた手のひらに、あたたかさを感じた。穴の底から何かが伝わってくる。

(広い?)

 気のせいだろうか。地面の向こうに何かとてつもなく広いて、大きな存在を感じる気がしたのだ。それは心臓の鼓動のように手のひらに定期的な波動を送り込んでいた。地面から手を放すと、その感覚は消えた。ふたたび手を置くとやはり音無き鼓動が伝わってきた。

(これはなんだろう)

 僕は手で土を掴んだ。反対側の手も使った。掻き分けるように、手で地面を掘った。夕闇が本格的に空の色を変え始めた。穴の中は急速に闇に呑まれていくが、僕は構わずに掘り続けた。

 もう少し、もう少し、もう少し……

 その時、手元が光に照らされた。

 目が闇に慣れていたせいか、その光はあまりにも眩しかった。いったい何が起きたのだろう。僕が掘っていた場所を中心に、そこだけが明るく光っている。

「あなたはなにをやっているのですか」

 頭上から、声がした。見上げると、光がまっすぐ目に入ってきて、くらくらとした。手を上げて光を遮る。人がいるようだ。

「誰ですか?」

 と僕は聞いた。

「警察の者です」

 と声の主は答えた。

「警察? お巡りさん?」

「ええ。そこの交番から来ました」

「何かあったんですか」

「それを調べにきたんです」

「えー、と、いいますと?」

「あなた、何やってるんですか?」

「僕ですか? ……ごらんの通り、穴を掘ってます」

「何のために?」

「何のため?」

 何のためだろう。僕はなぜ穴を掘り始めたのか、もう忘れていた。特に明確な目的があった訳じゃなかった気がする。突発的な衝動とでも言うべきだろうか? それはそれで何か違う方向に怪しまれそうな気もする。

「穴、掘っちゃダメですか」

 と僕は聞いてみた。

「いや、通報が、あったもんでね」

「通報?」

「周りの人達が心配しているって事ですよ」

「心配? 何を?」

「何か危険なものでも埋めてるんじゃないかって事ですね」

「危険なものって、なんですか」

「まあ、要は、死体とか?」

「はえ?」

 妙な声を漏らしてしまった。

 どうしてそんな事になるのだろう。

「まさか」

 と僕は答えた。

「とにかくいっぺん、穴から出てきてくれませんか」

 僕は穴を出て、かれこれ三十分ほど警官の質問に答える事になった。動機や目的などを聞かれたが特にそんな物はないし、警官の方も段々と要を得ない感じになってきて、頭を掻きだす始末だった。

「何なら家の中調べてくれても良いですよ」

 と僕は言った。

 警官は「ふむ」と鼻を鳴らして無精髭の顎を擦ったが、「じゃあちょっとだけ」と言って家に上がり込み、部屋を簡単に覗いただけで戻ってきた。

「まああんまり、ご近所に不審と思われる事はやらんどいて下さい」

 警官はそれだけ言い残して、頭を掻きながら帰っていった。


 気持ちはすっかり現実に戻されてしまった。

 僕は土で盛り上がった穴の縁に腰掛けて、ぽっかりと空いた空洞を眺めた。僕の中から、何かが急速に失われていく。たしかに、こんな物を必死で掘っている姿を第三者が見たら、どう思うか。変だろう。間違い無くおかしい。

「何でこんなもん掘っちゃったんだろう」

 と独りごとを言ってみたけれど、やはり答えはわからなかった。

 夜はとっくに更けていた。


                             (おわり)

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