時間拡張機

山根利広

2020年05月第05週



 黒々としたドアの前で、男は、伸びきった髪と髭に埋もれそうになっている両眼を煌々と輝かせていた。老い果てた体躯は、時間がそうさせたというよりも、待つという苦痛ゆえに体現されたものであった。


 皺に覆い尽くされた平手を、ドアに叩きつけた。かと思うと、大切なものに触れるように、ドアの表面を愛撫した。ドアの上部では、赤い数字が点滅していた。



00:00:00:01



 次いで男の頭の中に姿を現したのは、最近思い出していなかった、あの日、この部屋に入る前の自分自身の記憶だった。悔やんでも悔やみきれない己の過去への懺悔だった。




***




「3週間後に仕上げろだと? 馬鹿言ってんじゃねえ」


 書類に目を通すなり、男は拳をテーブルに振り下ろした。正面に座っていたのは、スーツ姿の編集者、畿内だった。広い額に、粟のような汗の粒が浮き立っていた。できるだけ、男と目を合わせないよう、俯き加減だった。


 男は、厚ぼったい唇から深い息を吐いた。


「お前、おれのことナメてんの? 安い金でなんでも書いてくれると? ふざけんじゃねえよ」


 畿内は目線を持ち上げた。汗が、眉間から鼻に流れ落ちた。


「いや、そういうわけでは、あの……」


「ナメてんじゃねえ!」


 右脚がテーブルを蹴り上げた。重ねてあった書類がバサバサと床に落ちた。畿内は慄然として固まってしまった。


「なに? はっきり言ってみろよ、いちいちブツクサ言いくさって。まあもう、お前らとは手を切るよ」


「あの、それは——」


「ああ、もういいや、おれ、他のところでも書いてるから、お前らのところもういいから」


 畿内の手足は、震えだした。男はますます苛立ちを募らせた。


 応接室のドアが開けられたのはその時だった。


「おい、どうかしたのか」


 少し背の低い、大きな黒縁眼鏡をかけた編集部長の矢賀が入室した。それを見るなり、畿内の緊張は一気に弛緩して、ヘナヘナと猫背になった。


 男は畿内を顎で示した。


「こいつには呆れたね。もうちょっとマシな物言いがあるだろう」


 次いで、足元に落ちた書類のうち1枚を拾い上げ、


「これだけ渡してさぁ、ヘラヘラ笑ってやがる。こいつ、おれのことナメてますよ」


 矢賀は畿内を一瞥してから、再び男に向き直って、深々と頭を下げた。


「これは、大変失礼いたしました」


 男は足を組んで、ティッシュでも捨てるかのように、手にしていた紙を机に放った。


「で、ほんとうにこのプランで行くわけ?」


 矢賀は心底申し訳なさそうに、


「わたくしどもの不手際でこのようなことになってしまいましたことを、まずは深くお詫びします。申し訳ありません」


 と頭を下げ、もう一度向き直った。


「林田先生は、わたくしどもと共に10年を歩んできたお方です。先生の尽力なくしては、『オモバナ』がこの時代に一流の文芸誌として確立されることはなかったでしょう。先生の筆には、力が宿っているのです。10周年記念号では、先生に今回もお力添えをいただきたい所存です」


 男は何度か目をしばたたいて、怪訝そうな表情で、


「でもさあ、おたくらはこんなもんなの? おれに原稿料を安くしろっていうの?」


 矢賀は口を横一文字に結び、ゆっくり首を横にふった。


「その料金に関しましては、畿内の見積もりが間違っています。こちらでもう一度、計算させていただきます。すぐに新しいプランができます。おそらく提示された金額の3.5倍の原稿料をお支払いできるかと」


「ほんとうか?」


 矢賀はもう一度、男に深々と頭を下げた。





 ——金は積まれたが、気に入らねえ。けど、引き受けた以上はやらなきゃな。


 男はダイアリーを広げて、今一度カレンダーを見た。締切日は月末。月末までに、これで現在3件仕事を抱えていることになる。3週間で3件。文章量はそこそこ多いだろう。あとはどこまで筆が乗ってくるか——そんな思案を巡らせる。近頃肥満気味の腹が、少し重いように感ぜられた。


「くそ……」


 小さく漏らして、宙を見上げた。人もまばらの電車内にぶらさがったいくつもの広告。その明るすぎるさまが、逆に男の神経を逆撫でした。


 ビールを飲んでたまらないといった表情をしている顔。でかでかとした明朝体で「センターまであと半年! 準備OK?」と書かれているもの。車窓から見える山々の風景。


 その中に、一風変わったポスターが掲示されていた。男は目を細めて、それを凝視した。真っ白な下地に、控えめな文字が一列。


「あなたの時間、伸ばしてみませんか?」


 広告に記されたその文字を唱えながら、彼はさらにポスターの右下に目をやった。所在地と連絡先が書かれていたのである。もう一度、そのキャッチコピーを見た。本社はこの近くにあるらしかった。





 応接室はノイズ除去をされているかのように静かだった。壁には、小さな穴が諸所に空いており、防音構造が施されていた。一挙一動のたびに生ずる微細な音が、明瞭に聞こえてくる。ソファの軋む音。紙をめくる音。


 男は、書類と、それを渡してきた若い社員とを見比べながら、


「時間拡張機? そんなものがほんとうにあるのか」


 と訊いた。

 社員は古風な笑みを崩すことなく、ゆっくりと頷いた。


「おっしゃる通りです。こちらの契約書にサインをいただけましたら、すぐに用意いたします。我が社の時間拡張機は、空き時間の確保だとか、スケジュール管理だとかいう従来の方法とは異なり、文字通り時間を拡張できる品なのです。ですから、お客様のように、純粋に時間が欲しい方にはもってこいのサービスです」


「ははあ」男は一笑した。「どうせあんたは、前払いでがっぽり儲けて、ロクでもない商品を押し付けるんだろう? そんな虫のいい話が——」


「時間拡張機は、ほんとうに時間を拡張します。1日からでもお試しいただきたい。料金は最後に、時間拡張機を使用した後にいただくことになっております。もし時間が増えなかったら、お代は1円もいただきません」


 終始表情を変えない社員に、男はけっ、と笑った。


「とにかく時間、時間、時間だ。おれには時間が必要なんだ。あと3週間、あと24日しかないんだよ。それまでに満足のいく仕事をおれはやりたいね。あんた、どうにかできるか?」


 社員は、またひとつ、ロボットのように頷いて、


「いかようにもできます。お好きなデュレーションで、どれだけでも伸ばせます」


「ほんとうだな?」


「ええ。ひとまず、この同意書にサインを頂かなくてはなりません。最重要注意事項はこちらに書いております。こちら2枚、よくお読みに——」


「ああもう。いい、いい。早くしてくれ、時間が無いんだ。おれはとにかく時間が欲しいんだ」


 男は早口になりながら、同意書を手にとって、机に置かれたボールペンで自分の名前を書いた。そして社員にそれを手渡すと、もうひとつの書類にも、必要箇所に素早くサインをした。


「これで、時間が増えるんだろうな」


「あ、失礼、お客様、デュレーションはいかがしましょう」


 男は、嫌なものを見るような細い目を社員に向けた。


「ああ? それはあんたの方でやってくれよ。え、デュレーションってなんだよ?」


「時間の引き延ばし率です。これをお客様ご自身で決めてください」


 社員は2枚目の用紙を再度机に広げた。そこには「デュレーション」と書かれた項目があった。


 男はわざとらしくため息をつくと、右側の「最長」と書かれた部分を丸で囲んだ。10列並んでいたが、その全てを素早く「最長」でマークした。「引き伸ばす日数」という部分には、雑に「24」と書いた。


「……ではこれで早速、準備にかかりましょう」





 2人は応接室を出ると、エレベーターで地下に向かった。そして、LED灯が照らし出す薄暗い空間に来た。


 黒々とした大きなドアの前で立ち止まる。ドアの左には、直径50センチほどのハンドルが付いていた。


「これが、時間拡張機ってやつか」


「ええ。先ほど合意をいただきましたので、早速入っていただけます。ですが少し留意ください。この部屋は指定された時間になるまで、量子系機器の都合により、出入りできない状態になります。食料品以外で必要なものは——」


「大丈夫だ。全部ある。筆記用具もパソコンも。あとは原稿を仕上げるだけだ」


 笑みを崩さない社員は、ビジネスバッグの中から控えを取り出した。


「お客様、こちらご契約内容の控えです。大切にお持ちください、あと、お言葉ですが——」


「おい、時間はちゃんと増えるんだろうな」


 社員はややあって、


「ええ——お約束しましょう」


 そう言うと、部屋のドアを開けて、男を中に入れた。





***




 男は、ホテルのスイートルームのようにだだっ広い部屋の中を探索しだした。4つのランプが天井からぶら下がって、橙色の、心地よい光を投げかけている。


 コンセントの位置は確認できた。洗面台にユニットバスもあった。冷蔵庫も備わっている。冷蔵庫の横には、「食品はこちらを開けてください」と書かれた取り出し口があり、そこからパンのようなものと、飲料が取り出せた。取り出すとまた次が落ちてきた。男は早速パンを口につけた。妙にミントの風味が強いクリームが入っていた。


 男はパンをかじりながら、入り口のドア上を見た。



 24:00:00:00



 赤い、8桁の数字。いちばん右の「00」が、点いては消えていた。ぼうっと見ていると、



 23:59:59:59



 という表示になった。男は一旦首を傾げたものの、すぐにその数字に意味を見出した。


 ——ははあ、なるほどな。こいつは、24日間を細分化してあるんだ。


 パンを咀嚼しながら、男はへっ、と笑いをこぼした。それから、パソコンを取り出してコンセントに繋ぎ、ワードを起こした。


 まず、書きかけのコラムから手をつけた。キーボードの音が静寂の中に響き渡る。3日はかかると思っていた作業が、存外簡単に進んだ。そのうちに腹が減ってしまったので、パンを取り出して、食べながら作業した。ちょっと薬品みたいな味だな、と思いながら。


 ——さて、どのぐらい時間が経ったのだろう? だいぶ眠気も溜まってきたな。


 ドア上の時間を見やる。右端の数字は「52」に変わっていた。


 目を細めた。どのぐらいの時間が経っているのか分からないが、わりとテンポ良く執筆が進んでいることには間違いなかった。


 あくびをして、大きなダブルベッドに身を横たえた。蓄積された疲れがすぐさま彼を眠りに押しやった。


 目が覚めると、まだ部屋の中だった。早速仕事の続きに取り掛からなくてはならなかった。


 ドア上でチカチカと右端の数字が点滅していた。「46」に変わっている。早速、デスクに向かってパソコンを起こす。


 ——ところで、実際には今何時なんだ?


 パソコンの日付は、眠る前と同じ5月29日のままになっている。時間は動いていない。正常に作動していないらしい。男はふと思い立ってインターネットにアクセスしようとした。が、Wi-Fiが機能していないらしく、どこにも接続できない。


 社員の言葉を思い出した。「量子機器系の都合がある」。もしかしたら外部との通信も遮断されるのか。男は慌てて携帯電話を取り出した。圏外になっていた。


「くそ、できねえなら早くいいやがれ」


 吐いた言葉は、壁面に吸収されていった。この建物全体が防音構造になっているのだろうか、と男は思った。


 再びパソコンに向き直った時に、男はふと違和を感じ取った。ドア上の赤い時間表示のいちばん右側。その数字が点滅している。まさか。男は眉間に皺を寄せて、携帯電話を取り出す。ちょうど「45」に数字が変わった。そこからストップウオッチをスタートさせる。


 1分、2分、3分。時が進むのがやけに間延びして感じられた。だが1秒1秒は正確に刻まれた。何度も、赤い表示と、携帯のタイマーとを交互に見た。


 10分経った。数字はまだ減らない。20分経って、ちょうどそこで表示は「44」に変わった。20分に数字がひとつ減っている。


 携帯のストップウオッチを止めて、即座に計算機に変えた。この数字が法則をもって作動しているとするならば、と考えた。


 ——いちばん右は、20分に1減る。それを受けて隣の「59」は、1200分に1減る——つまり20時間。だとしたらその左は1200時間に1減る。1200時間は、50日。じゃあ、左端は? ひとつ減るのに3000日を要する。ならば8年……。8年が24回……。


 男の頭皮に、いくつも汗の大きな粒が滲み出てきた。男は8と24をかけた。そして出てきた数字に慄然として、ドアに飛びついて、両手で殴りつけた。


「バカ言うんじゃねえ! 冗談じゃねえよ! おれに、おれに197年待てって言うのか——クソッタレ! 早く開けろ! 開けねえとお前をブチ殺すぞ!」


 金属製の重いドアは、それでも全く動じなかった。平手で打ってもその衝撃音はすぐに壁に吸い込まれた。


「おい! 聞こえてんのか! 返事しやがれ、このクソ野郎!」


 男はとにかくドアを殴りつけた。その横の壁にも拳を打ち付けた。だが、なに一つとして変わらなかった。男はそれでも、拳でめったやたらに攻撃した。だがその抵抗は、右手の甲に大きな内出血を生じさせた。


 久しく感じたことのなかった痛みに、彼はひたすら吠え散らした。


 右手をなるべく動かさないようにして、デスクに戻った。鞄の中から、社員からもらった契約書の控えを取り出した。


 デュレーションはすべて「最長」でマークされていた。ともかくにもこれが「最長」の時間らしかった。もう一度、流し読みをした。


 ——24日が、197年に伸ばされたんだ……。


 男は自分で確かめた事実に、呆然とするほかなかった。


 ——いや、だがまだ197年だと決まったわけじゃない。タイマーはああやって表示されてるが、実際のところ、24日ぶんの時間が経てば、開くかもしれないぞ。そうだ。きっとそうだ。あのタイマーは別だ。


 汗が滴り落ちていくのを感じながら、彼は自らを励ました。





 男が抱えていた仕事をすべて片付けるまでに、そう時間はかからなかった。最後の原稿執筆にかかる前に、男はストップウオッチで、書き終わるまでの時間を計測した。

 食事と睡眠時間も入れて、書き終わるまでに要した時間は、146時間だった。初稿ができてストップウオッチを止め、彼は冷笑した。進まない時間と、異常なまでに高速度で進んだ自らの執筆へ向けられた、皮肉であった。


 軟禁状態になってから、男は時間の計測を習慣化した。携帯電話の時計もパソコンと同様狂っていたが、ストップウオッチは正確に作動するらしかった。

 幸にして持ち合わせていた充電器に繋いだまま、1分は、1秒はどれくらいの長さか、体に染み込ませた。次第にその感覚は研ぎ澄まされ、モニターを見ずとも時間を正確に測ることができた。


 そして、24日間、つまり576時間が終わる時がやってきた。男は貧乏揺すりをしながら長くなった爪を噛み、解放される時を今か今かと待った。


 ——くそ。おれを待たせやがって。ここから出たら、ほんとうにぶん殴ってやる。


 576時間まであと1分。男はドアの前に立った。この部屋に関わっている者たち全てへの憎悪を、ドアの反対側に向けていた。


 赤い時間表示の数字が、ひとつ減って、「23:59:56:12」に変わった。1秒。2秒。時間は速度を変えず進行した。が、ドアが開く気配はなかった。


「おい、聞こえるかクソ野郎! 24日! ちょうど24日経ったぞ! 開けろ、今すぐに! ふざけんな!」


 男は手に握り締めた携帯電話を黒塗りのドアに全力で投げつけた。画面の割れた携帯電話は床に転がった。しかしなおストップウオッチは止まらずに秒を刻んだ。


 心の中の火炎は、次の「ドアが開くであろう時」へと矛先を変えた。つまり、さらに24日間あとの瞬間であった。


 伸びた髪と髭を小さな剃刀で切り、眠って起きて、パンをむさぼり、排泄を繰り返し、48日間が過ぎるのを待った。


 ドアは閉ざされたままだった。48日間が終わったその瞬間、男はドアの前で、幾分脂肪が落ちた脚部をがっくりと折った。








 ある時、男は孤独だった。孤独感を紛らわせるために、頭の中に親しかった友人や、父母の顔を思い浮かべた。けれど考えれば考えるだけ、男の孤独感は募る一方であった。


 ある時、男は部屋の隅から隅へと、ひたすら反復するようにうろうろ歩いた。時間が経つのが少しでも早くなるのではないかと案じたためだった。が、時間は等量に経過した。歩けば歩いた分だけ癇性が募るばかりだった。


 またある時、男はパソコンに向かって、行くあてもなく物語を綴った。それは、この部屋の中での生活を書き記した、ひとつの長い日記であった。文筆業を生業としていた彼にとっては、間違いなく希望であった。が、思いがけない落とし穴があった。


 1834日、つまり5年と少し過ぎた頃のことだった。いつもと同じようにキーボードを叩いていると、突然、液晶画面を横に走るノイズのようなものが画面に現れた。するとだんだんと画質が粗くなり、少しずつ画面が黒くなってきた。男は血走ったまなこを大きく瞠いて、数日ぶりに声を漏らした。


「待ってくれ——」


 情けなく萎んだような声を絞り出した。パソコンは一度、小さくパチンと音を立てて、真っ黒な画面を表示した。そしてわずかに唸っていた動作音が、ぴったり止んだ。

 唯一の慰めは、もう再び息を吹き返すことをしなかった。彼はまるで愛人でも失ったかのように、キーボードに突っ伏して号哭した。









 ひたすら部屋を歩いた。壁を頭部で叩いた。自分で自分の頬を張った。金切り声を発してどうにもならない感情をぶちまけた。それでもどうにもならなかった。左端の「23」はまだ減る気配を見せない。あとまだ190年以上の歳月が残されている。


 待つという行為が、苦痛から、恐怖に変貌しつつあった。


 1933日目、彼は凄まじい怨恨と憤怒とをもって、狂ったように叫び出した。両手が震えた。彼は意を決して、洗面台へと、這うように近づいていった。


 長い時間を経て窪んだ眼窩。痩せこけた頬。老人のように諸所に刻まれた皺。白髪混じりの髪。大きな目玉が落ち着きなく動く。男は、震える右手で剃刀を手にした。


 左手首をぼうっと見つめた。少し力を入れると、脈が浮き立った。長さ1センチほどの剃刀を、ようやく右の人差し指と親指とで摘まんだ。青白い血管に、薄刃の端を乗せた。そのまま、葱の根元を切るように血管の上を滑らせた。僅かに左手が怯んで、刃の入る方向と反対に動いた。


 赤黒い血液が、落涙のようにじわりと血管の上に出てきた。静脈まで刃が入っていないことは男にも容易に理解できた。次いで、男の左腕全体に、耐えがたい激痛が降り立った。左腕と拳を引き千切らんとばかりに痛みが増幅されるばかりではない。彼はこの部屋に閉じ込められてから、肉体的な痛みをほとんど感じることがなかった。5年ぶりの痛覚。それが余計に彼を苦しめた。彼は声門の奥で発されるうめきを上げた。口元からは涎が垂れ落ちた。


 20時間経過すると、痛みはいくらか和らいだ。流れ続けた血もようやく止まった。が、死という状態に対する断絶感と乖離とを、この時否応なく身に塗り込まれたのだった。








 パンを齧る。とうに食べ飽きた変化のない味だが、彼の身体はなにとなくそれを欲し続けた。強い生命力が、ひと口ごとに胃袋から四肢の先々にまで漲っていった。生かされている、という摂理。食事は、男にとって、必要不可欠な行為であり、かつ最も不気味な儀礼であった。


 男はひたすら待ち続けた。部屋を徘徊する。壁に頭を当てる。そうしながら10年待った。20年待った。30年待った。


 どうしておれはこんなに待たなければならないのか、と自問して、いくつも理由を考えついた。が、外部との交流が一切遮断された状態において、正答は出せなかった。


 時間表示の左端2桁は、ひとつ減るのに永遠ともつかない時間を要した。男は狂いなく時間を数えた。長い間があって、とうとう「10」を切った。


 男の希望の灯火は、憎悪すること、それからこの部屋から出たあとのこと、そのふたつに集約された。ここから出たら、おれと同じ苦しみを、全人類に擦り込んでやる、と。百数年の間に彼に蓄積されたおぞましい情動だけが、彼を突き動かすエネルギーになっていた。業を煮やし、全ての人間を怨恨することだけが、生きる意味だった。


 「05」になり、「02」になり、やがて「00」になった左端。男はいよいよだと思った。あと7年経てば、おれの復讐が始まるのだ。




 そしてとうとう、「00:00:00:01」と表示された。男は白骨に表皮を被せたような両脚で、ドアに歩み寄った。







 ***






 男のくすんだ両目に、8桁の数字が滲んで映されていた。すべてを思い出しながら瞬きをするうちに、涙が皺だらけの目尻に吸い込まれていった。


 ——いよいよだ、いよいよこの扉が開くんだ。おれが、この世界にあるものの全てに復讐する時がやってきた。でも、復讐を終えたらおれはどうなる? 拘置所に入れられて終身刑になるかもしれない。いや、もうどうなったっていい。おれに必要なのは、とにかく必要なのは、外界の空気だ。早く、その空気でこの胸を満たしたい。


 あと100秒になった。男は、その細まった体躯をドアに当てた。まるで愛した人の墓碑銘に縋り付くように。そして目を閉じた。


 あと30秒になった。男は腹の底から湧き上がってくるような歓声を発した。人生でこれほどまでに喜ばしいことがあっただろうか。男は叫んだ。防音壁で囲まれた部屋に、自身の声が谺響こだましたような気がした。


 その時は来ていた。30秒を数え損ねた。実際には60秒ぐらい経っていただろうか。


 ドアを叩いた。発音の仕方を忘れて鈍った口で叫び散らした。歓喜の雄叫びは、赤児が発する喃語のように、情けない響きへと変わった。


 黒いドアは、びくともせずに知らん顔をしていた。男はドアから、よろめくように退いた。もう既に、男の身体からはことごとく力が抜け切っていた。


 ふと、先刻まで目に焼き付けていた数字に視線を戻した。男はそれを見て、我が目を疑った。


























 24:00:00:00









 そしてその少し右側に、緑色の数字が灯っていた。















 1












 遠い過去の記憶が蘇った。


 同意書の控え。


 そこには、赤いタイマーが「時間の長さ」を示す、と書かれていた。


 だが男は、それを嘘だとばかり信じ込んでいた。「日数」の表示は別に行われる、ということを、忘れようと努めた。


 ずっと昔に男が読んだ書物の中に書かれていた言葉が、彼の脳に蘇った。


 ——「世界は、わたしの意志に依存しない」。




 彼がのだ。







 洗面台の縁を掴んで、鏡に向き合った。数年ぶりに覗き込む自分の顔は、もはや髑髏のように、生きた人間とは思えないほど年老いていた。だが、男はたったひとつ、この部屋から抜け出せる方法を思いついた。


 剃刀を手に取って、喉仏に当てた。もう迷いはしなかった。197年という時間が、この瞬間の彼の覚悟を増長させた。


 喉を切るつもりで引いた。その瞬間、剃刀は半分に折れて指から離れた。硬化した皮膚に弾かれて、薄刃が折れたのだ。


 男はパソコンの置かれた机に駆け寄った。自らの鞄をひっくり返した。底の方から、放置されていたプラスチック製ボールペンが、床に転がった。


 右手でボールペンを握りしめた。ペン先を喉仏の2センチ下にあてる。左手をペンの尻に当てて力を加えた。0.5ミリのペン先は皮膚を突き破った。食いしばった奥歯から、唾液と血液が混じり合った粘っこい汁が溢れた。


 男は白目を剥きながら、痛みに抗うかのようにその身を震わせ、両手に加わる力をさらに強めた。ペンと喉との接点からも、壊れた水道管のように、黒い血液が湧き出ていた。いびきのような汚い呼吸音が漏れ出た。


 全身に汚らわしい血液がまとわりついた。男はなおもペンをねじって、喉の最奥部まで押し込んだ。視界に、意識に、電気が走る点を探り当てた。もはや激痛は男にとって愉悦だった。肉体が彼岸の世界を感知しているのだ、と信じた。


 ペン先のボールが神経に埋まり、意識が途切れそうになった。両手でペンの尻をねじ曲げる。ボールが、僅かな筋肉に保護された脊椎の上を、転がった。その瞬間、男は稲妻に当たったように痙攣して、その場に頽れた。



 男は、その命は、文字通り壊れた。喉から、余った血が噴き続けた。が、果てるまではそう長くなかった。



 充血した白目には、あの数字の列が映り込んでいた。




















 23:59:59:59 1












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