絶対に振り返ってはいけないオルフェウス

七海けい

第1話


「御願いです! ハデス様、ペルセフォネ様。どうか、愛しのエウリュディケを、冥界から連れ出すことを許していただきたい!」


 私は懇願した。泣く子も黙る冥府の王の前で、泣く子も黙るケルベロスに睨まれながら、私は心の底から懇願した。


「ならばオルフェウスよ。お前のその竪琴で、儂と、我が妻の耳を感動させて見せよ。さすれば、汝の願いを聞いてやろう」

「できますか? オルフェウス」


 冥府の王ハデス様と、その奥方ペルセフォネ様は、私を試された。


「はい! その耳だけでなく、心までも感動させて見せましょう!」


 私は父にして音楽の神アポロンより授かった金色の竪琴を胸に抱き、自慢の指で、繊細な弦を弾いた。ひとたび弾き始めれば、私の音色は留まるところを知らない。楽器は琴のみに非ず。全身を楽器と思い、体中から、洗練されたメロディーを奏でるのが秘訣である。


~♪


「んん……、確かに素晴らしい。門番のカロンまでも、その音色に骨を震わせておる」

「ぇえ。地上界での噂は本当だったようですね。地獄の番犬ケルベロスでさえ、あんなにも優しい眼をしているではありませんか」


「では……!」


「ぅむ……。悔しいが、認めよう。汝がエウリュディケを、地上界へ連れ戻すことを許す!……しかし、一つだけ条件がある」

「この冥府から地上へ完全に出るまでは、決して、貴方はエウリュディケの姿を振り返って見てはいけません。良いですね?」


「はいっ!」


 私は意気揚々と、エウリュディケを後ろに伴いながら、長くて暗い、地上までの道のりを歩み始めた。


「ねぇ貴方。冥府の神々とあのような約定を交わした訳だけど、本当に大丈夫かしら?」

「安心しろ。私には秘策がある。さぁ、エウリュディケ。僕の両目を後ろから塞ぐんだ」


 そう言って、私は立ち止まった。


「こぅ、かしら」


 エウリュディケは少し躊躇いがちに、ほっそりとした指で、私の両目を優しく覆った。


「ダメだよ、エウリュディケ。うっかり、僕が振り返ってしまうことがないように、もっとしっかり塞がないと」

「……こぅ、かしら」


 エウリュディケは何歩か私に近づいて、その豊かな胸を……繰り返すぞ。その豊かな胸を、透き通るほどの薄い絹越しに、私の背中に密着させたのだ。この時、私は背筋をぴんと伸ばした。


「少し、近すぎるかしら……?」


 マーヴェラス!!! 素晴らしい。地獄の王が与えた冷酷無比な試練を、我が身を焦がす至福の一時に変える。絶体絶命の逆境から、無上の幸福を得る。これこそまさに、芸術家の真骨頂というものだ! これこそまさに、男冥利というものだ!


「……ねぇ、何か言ってよ……」


 エウリュディケは恥じらいを忍ばせた声で、私の耳に語りかけてきた。彼女はつま先立ちになり、私の背中に、その「二つの温もり」を、くにっと、押し付けてくるではないか。


 エクセレント!!! 素晴らしい。どうだ、地獄の王よ。見ているだろうか。この人間のたくましさを。私は地上に出るまでの間、愛する人とのライトなスキンシップを堪えることなど決してできない! 分かるか地獄の王よ。この“死”の世界で、性の……否、“生”の意味を語ることの意味を! 私は今、お前の試練に反抗しているのだ!


「──ぇえ、私には分かりますよ」


 感度120パーセントの私の耳が、その美声を聞き逃すことなどあり得なかった。


「「その声は……ペルセフォネ様!?」」


 私ばかりではなく、エウリュディケも驚きの声を上げた。


「どうして、私達の前から現れたのですか? ペルセフォネ様は、私達を見送ったばかりのはず……」


「神に位相の話など、野暮な問いですよ。それよりオルフェウス殿。随分とまぁ幸せそうな様子ですね……」


 挑発を込めた美女の声に、私の鼓膜と心臓は幸せな身震いを覚えた。


「ぇ、ぇえ。御陰様で」


「改まることはありません。私も元は春の女神。萌芽と芽吹きは祝福すべきところであり、たわわな豊穣はまさに望むところです……」


 ペルセフォネ様は鳥のさえずりにも似た甘い声を纏いながら、春の花々にも似た温かな匂いを漂わせながら、私の鼻先を、私の真横を、まるでエウリュディケにも見せつけるかのように、もったいぶりながら、通り過ぎていくのであった。


「ペルセフォネ様って、いつ見ても綺麗な神様だよね……。何か、ちょっとだけジェラシー……」

「ぁあ、……ぁああ……っ!」


 恥じらうエウリュディケを余所に、私は、非常に動揺していた。


「オルフェウス、どうしたの……?」

「ペルセフォネ様は、今どこに……っ!」


 私は震えながら問うた。


「たった今、通り過ぎていったけど……」


 振り返りたいっ! ……瞳を合わせてもいないのに、すれ違った男を振り向かせるその魔性。さすが、あのムッツリハデス様が堪らず強引な手に及んだだけのことはある。こんなにも、男の首と目玉と根っこを同時に攻めてくる者が果たしてこの世に存在するだろうか。オリンピアで優勝したレスリング選手であっても、この三所攻めは再現できないであろう。


「オルフェウス……?」

「ぁの、エウリュディケさん。すこーしだけ指を緩めて、そのまま、僕の背中にくっついたまま、僕の顔を、ペルセフォネ様の方に向けてくれないかな。……ほらやっぱ、顔くらいは見せないと、神様に失礼って言うか、何て言うか……」


 ぁあ……! こうしている間にも、ペルセフォネ様はどんどんと遠ざかってしまう。……心配するな、皆の衆。思慮深い私オルフェウスは、これがハデス様が仕組んだ罠であることに気が付いている。

 考えてもみよ。もし、私が救いようのない迂闊者であったとして、エウリュディケに両目を塞がせることなく、呑気に「地上に帰ったら何をしようか?」とか、「一日たりとも君のことを忘れたことはないよ」とか、そういう当たり前の会話でお茶を濁しながら歩いていたとする。そこに、あの暴力的な“春”が襲い掛かってきたとする。そしたら間違いなく、私は春の息吹に呑み込まれ、その首を、ゴキリッ、と捻られてしまったであろう。そして、うっかり私の視界の中にエウリュディケが入ってしまうであろう。それはゲームオーバーである。それはジ・エンドであり、それはこの世の周縁である。春が過ぎ、一気に終わりのない冬が来たようなものである。賢明な私は、何も失うことなく、適度に、あくまで適度に、己の内なる想いに従わねばならないのだ。


「そういうことかっ!」

「うぎえゃぁあっ!?」


 エウリュディケは突然に、そのほっそりとした指で、私の眼窩を躊躇なく押し潰した。まさか、私の彼女は地の文が読めるのか? 驚愕だ! しかし、この上なく素晴らしい。それでこそ、私の伴侶に相応しい乙女である!


「ぁあ、すまない、エウリュディケよ……、少し、調子に乗りすぎてしまったよ……」

「全く。いくら冥府が怖いからって、もう少しまともな妄想で気晴らしをしなさいよ」


 エウリュディケは溜息をつくと、私の背中から離れてしまった。


「……その通りだね。……久々に君の、いつもの強気な君の声を聞いて、私も、何だか落ち着いたよ。ありがとう」


 私は、地上への道を見つめた。

さっきまでは小さかった光が、少しばかり大きくなっていた。


「……、……ひょっとして……まさか、オルフェウスは……私を元気づけるために、あんな馬鹿なことを……? ……」


 エウリュディケは小声で呟いた。

 恐らく、今のエウリュディケは、耳の端まで真っ赤であろう。片方の手で片方の腕を擦りながら、その柔らかい胸を持ち上げているのだろう。さらには照れ隠しに、前髪なんかをいじったりもしているのだろう。……可愛い。……可愛いぞエウリュディケ。だが程々にしてくれ。さもないと、私がうっかり振り返ってしまうではないか!


「エウリュディケ。考え事は程々にして、早く地上に出よう」

「……ぅん。そうだね」


 私とエウリュディケは、しばらくは何事もなく、前進した。


「……ねぇ、オルフェウス」

「どうしたんだい?」


「何か、……聞こえない?」

「……?」


 私は音楽家だ。人よりも耳は良い。

 私は、あらゆる雑念を一時中断して、本来の聴力を発揮した。


「この音は……地を這うような、ぃや、もっと大きいものが近づいているようだ……しかし、足ではない……? ……何だ、この気配は……」

「きゃぁ!」


 エウリュディケが短い悲鳴を上げた。


「どうしたんだいエウリュディケ!?」


 私は叫んだ。今すぐにでも振り返りたかったが、そうはいかなかった。


「ぃやっ! ……ぁあ、う……、ん! ……っ!」

「どうしたんだいエウリュディケ!?」


 私はやむを得ず、前に向かって力一杯に叫んだ。


「細長い……蛇が、……ぁん! いっぱい、……」

「蛇だって!?」


 私は叫んだ。今すぐにでも振り返りたかったが、そうはいかなかった。……諸君、決して勘違いはしないでくれ。私は彼女の身を案じて葛藤しているのだ! 断じて諸君らのような、卑しい妄想を確かめたいという訳ではないのだ!


「あぅ、……ひゃんッ! 舌で、舐めないで……」

「舌だって!?」


 私は叫んだ。今すぐにでも振り返りたかったが、そうはいかなかった。……諸君、一応、念のため繰り返しておくが、決して勘違いはしないでくれ。私は彼女の身を案じて葛藤しているのだ! 断じて諸君らのような、卑しい、古典的な妄想を確かめたいという訳ではないのだ!


「ひぅ! ぁあっ、……ぅ、……はぅう! ……」


「──其奴はヒドラだ。オリオンに破れ、女神ヘラに捨てられて、色々な思いを貯め込んでいるヒドラだ」


「貴方は……」


 私は身構えた。

 雄々しくも伸びやかな、余裕の色を帯びた男の声に、私は聞き覚えがあった。


「……貴方は、ハデス様!」

「いかにも」


 ハデス様は、声のみを発していた。肝心の姿は、どこにも見えなかった。


「ハデス様は、いったいどこから語りかけていらっしゃるのですか……?」

「案ずるな。儂は汝と共にある。……儂は、欲望に生きる、汝と共にある」


 ハデス様は意味ありげに仰った。


「はぁ、……はぁ……ぅう、……」

「──ハデス。彼の意志はなかなかに頑強よ。思っていたよりも時間が掛かりそうだわ」


 背後から、通り過ぎたはずのペルセフォネ様の声が近づいてきた。多分あられもない姿になっているであろうエウリュディケに、彼女は何やら囁き始めた。


「貴女……確か、泉水のニンフだったわね」

「はぃ……」


 そう、エウリュディケは泉水のニンフである。あの貞節の番人アルテミス様の目を盗み、我が父アポロン秘伝の音楽を武器に、私はエウリュディケを口説き落とした。出会いの場は泉水であり、初デートは泉水であり、プロポーズも泉水であった。


「エウリュディケちゃん。……私ね、実は貴女のこと……結構気に入っているのよ……」

「ぇ……? っ、……んっ、……はぅ……」


 いったい何が起きているのだろうか!? 私は心の中で叫んだ。私は今すぐにでも振り返りたかったが、そうはいかなかった。諸君、今ここに、私の葛藤が最高潮を迎えていることがお分かりいただけるだろうか!? 自分の恋人が、自分のフィアンセが、あろうことか人妻に寝取られようとしているのだ! 全く予期しなかった展開である!


「ハデス様はこれでよろしいのですか?!」


 私は、理性を持って神に問うた。


「構わぬ! 我が愛しの妻が、流れ者のおなごを寝取る! これ程までに希少なプレイはまたとない機会である!」


 何と清々しいことかっ! これぞ、誠の漢である。さすがは冥府の王にして、変態大紳士ハデス様の弟である。


「……ぃやなぁ、冥府の王などと言えば聞こえは良いが、ここは地上に比べて極端に娯楽が少ない。ゼウス兄さんやポセイドン兄さんは好き勝手にやり散らかしているが、儂は、せいぜい一つ目巨人と百手巨人の取っ組み合いを眺めているのが関の山なのだ」

「それはまた高尚な……」


 実にハイレベルな嗜みである。


 ギリシアの神々は、見事なまでに粒ぞろいの変態達である。私の父アポロンは、即ちゼウス様の息子であるが、最高神を実の父に持ち、文武の両道に優れ、美麗な顔立ちをし、ニンフのキレネ様、人間のコロネス様、精霊で腹違いの妹タレイア様とウラニア様、さらには美青年のヒアキントス君やキパリソス君なんかとも一線を超えた、そっちの意味でも“両道”な御方である。おまけに、最も愛していたダフネ様には徹底的に嫌われてしまったという要素が、一周回ってポイントになるような男である。我ながら、とんでもない変態野郎共を親戚に持ったものである。


「エウリュディケちゃん。このまま……私のコになっちゃわない……?」

「それは、……っ、でも、……っう」


「まだ足りないの……?」

「ぃえ……っ、……ぅっ」


 いったい、何が足りないというのであろうか?


「貴女のスイレン……私にくれないかしら」

「それは、……っ、……まだ……ぁんっ!」


 いったい、スイレンとは何なのだろうか?


「貴女の泉水……もっと見せてちょうだい……?」

「ペルセフォネ様、……それ以上は……もぅ……」


「──それ以上はお待ち頂きたいっ!」


 妄想を打ち消して、私は駆け出した。目を瞑り、振り返った。エウリュディケの声がする方へ、私は全速力で駆け出した。メロスよりも素早く駆け出した。私は、今まで、いったい何をしていたのか。私は、今まで、どうして気付かなかったのか。最初からこうすれば良かったのだ! 要するに、私はエウリュディケの姿を見なければ良いのだ!


「エウリュディケえッ!」

「ひゃんっ!?」


 私は飛びついた。柔らかな感触に飛びついた。そして、確かめるように抱き締めた。


「ぁああんっ!」

「ん……? ……」


 私は、その温かで滑らかな弾力をまさぐりながら、これは違うぞ。と思って離れた。


「ぉ、オルフェウスどの……?」

「ぉいこらオルフェウス……っ」


 ペルセフォネ様の戸惑ったような声と、エウリュディケの棘のある声が、見事な二重奏を響かせた。私はある意味では正解し、ある意味では失敗したようであった。


 私は厳粛に咳払いをした。


「……エウリュディケっ! 私は君を守る! 私の命に賭けて! 案ずるな。私は決して目を開くことはない。さぁ、私の手を取ってくれ。一緒に地上へ帰ろう!」


 私は気を取り直し、自分が思う方に手を差し伸べた。

その手は、思ったよりもいかつい手に握り返された。


「──素晴らしいぞオルフェウスっ! 儂の妻が、あんな顔をしてあんな声を出したのは初めてだ! ぅむ。我が耳はこの上なく満足した。よろしい。このまま、エウリュディケを連れて地上の世界へ帰るが良いっ!」


 ハデス様は感極まった声で仰った。


 こうして無事(?)、私とエウリュディケは地上の世界に戻ってくることができた。


「ふぅ……。やっと空が拝めたよ。……エウリュディケ。もう、私は振り返っても良いんだよね」

「ぅん……」


 私は満を持して、期待と緊張に胸を高鳴らせながら、遂に振り返った。振り返った途端、私は頬を引っぱたかれた。私はクルリと見事な一回転を見せながら、地面に転げった。


「この、馬鹿! 森に帰ったら泉水に沈めてやるんだから、覚悟しておきなさいっ!」

「はぃ……!」


 この期に及んで私に御褒美……否、お仕置を与えてくれる彼女は、この世に二人といない最良の伴侶である。エウリュディケは追撃とばかりに、私のみぞおちを素足で踏み付けた。所々が裂けた透き通る肌着が、彼女の体にぴたりとくっついていた。彼女のほてった顔が、微かに赤らんでいた。亜麻色の髪が、丁度良いくらいにほぐれていた。


「ぁと、……それから……ぇっと……、……」


 エウリュディケは、その紅色の頬を掻いた。


「生き返らせてくれてありがとう……。っ!」

「どフッう! ……ぃたしまして……、……」


 もう一回、エウリュディケの踵が私を誅した。

 たまらなかった。生きてて良かった。


 ……そして何よりも、彼女が、生き返ってくれて、本当に良かった。


 ……時に、私が噂に聞いたところでは、私とよく似た境遇に陥った男女の創造神が、遠く東の、オケアノスに浮かぶ島国にいたという。もし、諸君に時を超越するような能力があれば、是非とも参考までに、この話をその創造神達に聞かせてやって欲しい。きっと、何かの助けになるはずだ!

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