初夏に笑う女たち
志賀福 江乃
第1話
赤い着物の娘、青い着物の少女、黒い着物の女、それに、お嬢様。彼女たちは歌い、踊り、不可思議な術を使う。彼女たちの最期は赤い馬車。初夏には彼女たちの笑い声が聞こえてくるーー。
私は踊りが好き、歌が好き、魔術が好き、そして何より本が好き。そんな私が初めて読み、短い時間の中であっという間に虜になったのは、小川未明の『初夏の空で笑う女』だった。お嬢様、と呼ばれる一人の人が、親から見放された娘や居場所のない女性達を拾って様々ところで芸を披露する旅をする話。最後は少し悲しいけれど、そんなふうに旅をする生活は楽しそうだな、と常に思っていた。だから、私は目覚めたとき、彼女達を守りたいと、救いたいと思ったんだ。例えそれがどんな最期になろうとも。私達はきっと、笑い続けられるって。
ーー恥の多い生涯を送ってきました。でもそれはもう過去形です。
彼女はそう言うと舞台から少し目をそらし、私の方に笑いかけた。昔の彼女からは想像もできない、優しい笑みに私も釣られて口角が上がる。まだ開演前のほんの少しの時間、照明の最終確認が行われている。舞台から照明の明かりが漏れて舞台袖にいる私達を明るく照らし、きらりと彼女が光る。
ーー少しだけ、私のことを話させてください。
その声は少しだけ震えていて。思わず、どうしたの、というと、話を聞いてほしいのです、と胸に手を当てて言った。今までに見たことのない彼女の新しい表情に思わずドキリとしてしまった。いくらでも聞いてあげよう、と私も胸に手を当てて言う。貴方のそういうところ私、大好きです、と彼女がクスクス笑う。笑うたびに衣装の赤いロングスカートが優雅に揺れた。ブー、と開演5分前の合図がなる。彼女は、鈴のようなソプラノの声を少しだけ小声にして、愛おしそうに話し始めた。
私は、操り人形でした。名もないマリオネット。いくらでも変わりのいる量産型の人形。操るのは親、友人、先生、世間、常識、法律……。この世のすべてのものが私を操ってがんじがらめにし、決して逃がすまいと常にじっと監視カメラがつきまとっている感覚でした。朝起きて、食欲もないのに無理やりご飯を食べさせられて、きっちりと三つ編みをされ、ぴっちりアイロンのかけられたハンカチと、制服を渡されました。どんなに行きたくなくても、よっぽど体調が悪くない限り、学校という工場に行かなくてはいけませんでした。他の学校はわかりませんけど、私の学校は白い百合が沢山咲いているような所謂お嬢様学校でしたから、個性を潰して、社会や親にとって利用しやすいオンナを作る、工場のようなところでした。家から、送り迎えの車で来るような子たちが沢山来るような学校です。でも、私はあえて電車と徒歩で行っていました。一人の時間が欲しかったのです。親はギリギリまで電車通学を反対していましたけど、車酔いしてしまうからと常々言い続け、車に乗ったときにわざと吐いてみせたり、無駄な名演技をしていました。家でも親と一緒、移動時間も運転手、学校では先生や由緒正しい親とも繋がりのある人達に囲まれる。このままじゃ井の中の蛙になってしまう。早く逃げ出したい。常々そう思っていました。その反抗心の第一歩が行き帰りの電車です。しかし、帰りに寄り道することもできませんでした。だってGPSなんていう面倒な機能をスマートフォンにつけられていたから。全く、私は常々こう思っていました。まるで親のポッケから出してもらえない、赤ちゃんカンガルーのようだ、と。
家に帰ると、ほんの少しの休息は終わりを迎えます。習い事のある日はすぐさま習い事へ。何もない日は、部屋に家庭教師が来てお勉強。名ばかりの家庭教師は、問題集を渡して、それを説かせ、どうぜ全問正解と目に見えてわかっているのに素晴らしいですね、なんてティッシュみたいにうっすい言葉で褒めてくるんです。もはや、同じことしか喋らない、ゲームのNPCーいわゆる案内係ーのような薄気味悪さがありました。習い事は、お習字、英会話、クラシックバレエ。小さい頃はクラシックバレエが大好きだった。体を動かしてめいいっぱい踊って……、自由になれた気がした。だから、私は家の中でもずっと踊ってたんです。バレエだけじゃなくて自己流でコンテンポラリーダンスーーバレエを最大限崩したものーーやジャズもやっていました。家では常にドタバタとしている私に母は、お手上げ状態だったようですけど。私は母に、他のダンスも習いたいとお願いしました。しかし帰ってくるのは否定ばかり。ヒップホップなんて、チャラチャラしたものはお行儀が悪いだとか、常に世間体を気にしていて、お下品だとか凝り固まった思考で可愛そうなほど、上流階級に縋り付いていました。だから、バレエを中心に私は踊りました。そこしか逃げ道がなかったから。でもあるとき、バレエの先生に言われました。
ーーバレエはね、ぴっちりと基礎となる形が決められているのよ。だから、正しく丁寧にやりましょう。
その言葉を聞いたとき、私の頭の中で保っていた自由という言葉ががらがらと音を立てて崩れ落ちました。足のポジション、手の使い方、顔の向き、全てずっと同じことの繰り返し。不規則な動きなんてなくて、ポーズとポーズの間の手の通り道でさえ決められています。その計算され尽くした美しさは無機質でわけのわからない絵画を見ているような気分になりました。それでも体を動かすことは大好きでしたから、バレエを続けることにしました。けど、そのことに気づいてしまえば、もう昔のような純粋な気持ちで踊れなくなりました。私がやりたいのはこれじゃない、と常々思ってしまうのです。歳が上がるたびにその思いは強くなります。それを発散するかのように、家で狂ったように違う踊りを続けました。この頃には親は私を奇妙な子だと言うような目で見てくるようになりました。
あるときバレエの発表会で、くるみ割り人形のクララをやらせてもらえることになりました。くるみ割り人形のお話は知っていますか。ええ、そうです。心優しいクララがねずみに襲われていたくるみ割り人形を助けたら、実はそれが元々は王子様で、雪の世界や、お菓子の国に案内してもらう。そんなお話です。クララには、心からの純粋さと愛らしさが求められます。その頃の私は、酷くやさぐれていましたから、主役になれたことは嬉しいけれど、内心は不安と嫌悪でいっぱいだったのです。王子様役の方が、お菓子の国へ連れて行ってあげましょう、といい、クララが、大喜びではいっ、と返事をする。そんな演技の数々や踊りをわざと可愛らしくしなくてはいけなくて、決められた道の上でただ歩かされているような気分でした。決まりきったストーリーのどこが面白いのでしょう。突然のハプニングがあるからこそ面白いというのに。代わり映えのしない練習をする日々はつまらなくて、私の心を飽き飽きさせ、やがて私の日々は、なんともいえない暗い色になりました。パレットの上で沢山の色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたときのようでした。かといって、本番に全く違う踊りをしてしまうとか、出番にでないとか、そんな舞台を台無しにしてしまうほどのロクデナシではいたくなかったのです。この舞台に命を削って輝こうと努力している人たちを見れば見るほど申し訳なくなったのをよく覚えています。それでも一向に私の気持ちは変わらなくて、素直に頑張れない自分の不甲斐なさに苛立ちが募っていきました。くるみ割り人形の舞台が終わり、良かったよ、と声をかけてくる人々をたいへん冷めた目で見ていました。人々が声をかけてくるたび、私はどんどん冷たくなって気持ち悪くなって、屍になっていきました。私の心の死体がたくさん積み上げられました。自ら心を押し殺したことで、心はぐしゃりと潰れて分裂したのでした。
やがて落ち着いてきたとき、私自身に不思議な現象が起きるようになっていました。昔から無意識のうちに、歌を歌ったり、やらなきゃいけないことが終わっていることがありましたが、それが顕著に出てきたのです。ふと鏡を見れば自分が自分ではないような気がしました。遂には、見知らぬ場所にいるときもありました。私が今まで見たことのない場所は公園やら、広いところが多かったので、自由に踊ることができました。バレエ以外の踊りをたくさん踊りました。有意識のときには絶対にしない行動をしてしまっていることは怖かったけれど、今までそういう非現実的なナニカが起こることが全くなかったので胸が踊りました。しかし、親はそうもいかず、夜中抜け出す頭のおかしい娘を怒鳴りつけ、部屋に鍵をかけ、開けなくしました。私は大いに悲しみました。唯一守っていた自由がなくなってしまった、と。そうだ、もう死んでしまおう。もういいだろう。八方美人さんはおしまい。操り人形自ら、自分を操る糸を切ってしまおう。例えそれが命綱だとしても。落ちて堕ちて朽ち果ててしまおう。この寝間着の白いワンピースを真っ赤に染めて「赤い花のダンス」を踊ろう。私は身近にあったカッターを取り出しました。今考えれば、なんて恥ずかしい真似をしようとしていたんでしょう。誰にも反抗せず、自分を勝手に何もできない人形だと勘違いして、自ら命をたとうとした。なんて滑稽。悲劇のヒロインなんて柄じゃないのにね。本当に恥の多い私でした。
そんなときです。貴女が現れたのは。貴女は私を励まし、意気揚々と手を引き、下手くそな歌を歌って、不思議なステップを踏み、不慣れな手付きで窓をこじ開け私を外に連れ出しました。私だけなら絶対にしないような窓からの逃走は本当に楽しかった。
ーー私にダンスを教えてほしいの。
向日葵のような笑顔を咲かせ、太陽のように明るく、日陰に咲いていた私のことを見つけ出してくれた貴女。今までしなかったこと、わからなかったこと、全て教えてくれたものしりな貴女。彼女たちと出会わせてくれた、世界を拡げてくれた貴女。感謝してもしきれないのです。だから私は貴女が見繕ったこの赤いドレスを着て、「赤い花のダンス」を貴女に捧げましょう。愛する貴女に、心からの花束を。
ぎゅ、と彼女が私を抱きしめる。舞台から漏れる照明によって作られた影は一つ。赤いドレスを着た娘は、ふわりと回って、舞台に走り出した。空き地に生えた草から、コンクリートの隙間から咲く花から、沢山の自然から教わった踊りを思う存分踊る。観客は、彼女の真紅に咲き乱れた花が、風に吹かれて、今にも散りそうな様子を手を振り、足を動かし、体をひねって、してみせる踊りにあっという間に虜になり、彼女が踊り終わるときには皆感嘆のため息を溢し、拍手をいつまでもやめなかった。
ぶどうような潤んだ瞳で幼い少女はこちらを見上げる。本番前で気分があがっているのか、普段表情の硬い彼女の口角がいつもより20度くらい上がっている気がする。彼女は、力強く、よし、というと、わたしもあの子に負けないように頑張るよ、と言う。小鳥と歌を歌っていただけのこの子は沢山の世界を知って、いろんなことに興味を持つようになった。まだまだ無表情だけど、前とは比べ物にならないくらい喋るようになった。
ーーそうだ、わたしも貴女にお話したいことがあるの。
いくらでも聞いてあげるよ、といえば大好き、と上がりきらない口角で全力の笑みを浮かべた。
歌が大好き。だって、凄く楽しい。凄く自由だ。わたしの意識ができたときから気がつけば歌っていた。歌番組のとき、TVを陣取るのは常にわたしだったし、カラオケでは常にマイクをキープしていた。家にいた青いセキセイインコと歌ったり、風の音を伴奏代わりにしたりした。空に向かって歌うのが大好き。どこか遠くの人でも空は繋がっている、と思えばその人まで歌が届く気がするの。自分の中にある沢山の感情とも仲良くなれた気がした。親がいるとき家の中で歌うと怒られちゃうから、お風呂場でこっそり歌う。声が反響する。お風呂はわたしにとって素晴らしい劇場だった。そこそこお金持ちだったから、とても大きくて広かったし、高く出した声の反響はホールの響きによく似ていたの。大きく羽根を広げて空に飛んでいるような心地。いつだってわたしだけのリサイタルだ。歓声と拍手がいつまでも帰ってこないことだけが寂しかったけれど。
ある日いつも通りお風呂場で歌っていると、お父さんが突然入ってきた。ずかずかと汚らしい弛んだ体でこちらに向かうとわたしのことを舐め回すように見た。驚いてしまって、動けないわたしにお父さんはニタリと笑った。ナメクジのような這う視線が気持ち悪かったのを今でもよく覚えてる。
ーーそうか、ここは防音だったな。
そう一言だけ言うと突然浴室の床にわたしを押し付けた。そこからどうなったかは思い出したくもないけれど。簡潔に言えば、私はそこで翼を失った。目は光を失ってビー玉からくもりガラスになった。その日から、お父さんはわたしをゴミ箱のように使った。苛々していると毎回入ってきて、歌っていた口を塞ぎ首を絞め、煩いと、一言言って、乱暴に体を押し付けた。何度も何度も吐いた。お父さんはわたしとタイミングが合わないと、イライラしてお母さんや他の人にあたる。わたしだって、辛かった、逃げ出したかった。けど、この苦しみをお母さんや他の人たちに味わってほしくないから、私は我慢した。幸い、お父さんも問題沙汰になって社会の地位を失いたくなかったんだろう、きちんと薬をわたしに与え、ゴムを使った。そういうところが余計にムカついた。自分だけ安全なところにいるなんて卑怯だと思うでしょう。最初は警察にでも言ってやろうかと思ったけど完璧なまでの偽装だ。信じてもらえるわけがない。わたしたちの家族は誰が見ても羨むような円満な家族だもん。例え証拠の映像があろうとも偽装の映像じゃないかと疑われることは明らかだった。だったらこんな風な目に合うのは私だけでいい。だからわたしはわざとお風呂に行ったの。ほんの少しだけ歌を歌う時間を楽しんで、あとは耐える。耐えればまた、わたしだけのコンサートを開けるから。お客さんは湯気、鏡、桶、椅子、石鹸に窓に張り付くヤモリたち。耐えて歌って耐えて歌って耐えて耐えて耐えて歌って。そうしたら、いつの間にか耐えきれなくなったのか気がついたらわたしは外にいた。外に出たとき、一番楽しかったなぁ。月はミラーボールで、星はペンライトで、ぺんぺん草はわたしのギター、そして川のせせらぎは伴奏だった。闇夜でもわたしは、羽ばたいていた。初めての逃亡のあと、気がつけば、外にいることが増えた。そんな日が続いたある日、目が覚めると部屋に閉じ込められていた。もう外に出れない、お風呂にも入れない。わたしは悲しみのあまり、泣きながらアリアを歌う他なかった。泣きつかれて、やがて眠ってしまった。もう二度と目覚めてやるもんか、と決意した。
それで目が覚めたら、貴女がいて。赤い踊り子さんがいて、黒い手品師さんがいた。それは奇跡の出会いで神様から唯一の祝福だと思うの。ありがとう、お嬢様。生まれてきてくれてありがとう。貴女のために精いっぱい歌うよ、飛ぶよ。もうソロじゃない、私達はカルテットだよね。
そう言って嬉しそうに笑う彼女を抱きしめた。幼くてただ父からの屈辱に耐え続けていた彼女はいなくなった。自由に歌声という羽根を大きく広げて飛び立つ姿は正しく幸せの青い鳥だ。ふふーん、と聞き慣れた鼻歌を歌い、ひらひらとフレアスカートで回り鏡の中に手を伸ばす。お客様に沢山、幸せを運んであげて、というと、私の今の幸せをお裾分けしなきゃね、と屈託の無い笑顔で舞台へと羽ばたいた。彼女の歌は人々の心に空を見せた。透き通るような歌声で一緒に自由になろうよ、と羽を広げる。観客は歌が終わったあと、しばらくぼぉっと惚けて、彼女が舞台から捌けるころにやっと会場をすべて揺らすほどの拍手を鳴らし続けた。
ぴら、と彼女はタロットカードを見せてきた。タロットカードが示すのは、正位置の世界、というカード。確かタロットカードの中で一番いい意味を持つものだ。彼女はマジックの最中のような口調で、さあさあさあ、私達のショーはこれからはじまるのです、と大きく手を広げた。そして、覆われたベールの中で緩く口元に笑みを浮かべ、白くて細長い手で私の頭を撫でた。この中で一番最年長な彼女の側はまるで親鳥と雛のような感覚だ。全ての始まりは私と黒いエスニック調のドレスを身にまとう彼女との出会いだった。彼女がいなかったら私はここにいなかったし、きっと彼女もふらっと陽炎のように消えてしまっていただろう。そして、赤の踊り子と青の歌姫と出会うこともなかった。
ーーもちろん、私の話も聞いてくれるんでしょう?
そういった彼女は私に先程のタロットカードを渡した。これが私達の未来だよ、というようにその陶器のように艶かしい肌のか細い手であまりにも丁寧に渡してくるため、その様子に少しだけドキドキしながら受け取る。それが彼女の物語を聞く合図。私達の始まりの物語。
私が目覚めるのはいつも夜だったわ。みんなが寝静まって始めて目が覚めるの。私は気まぐれにふらっと外に出て何も見えない水晶をいじって占い師のマネごとをしたり、タロットカードを適当に並べて怪しげに微笑んだりしたわ。道の端でマジックの練習をしたこともあった。人々の悩みを聞くのは楽しかった。迷える子羊達が自分に正しい道を歩めるよう言葉をかければ、キラキラした顔でありがとうございます、と感謝の言葉を述べてくれて。まぁ時々、訝しんだり、冷やかしに来る人もいたけれど。その人たちはきっと知らないのだわ。信じる者は救われる、という言葉を。この言葉は本当だと思うわ。信じる、それは自分の考えになる。考えは行動になって、その人になる。例えば、『貴方はなにか打ち込んでいることがありますね。全力で続けて努力を怠らなければ、いずれ大きく花を咲かせるでしょう』と言われたとする。それを信じ込み、努力し続けたら、大きく成功した。一方でそれを信じずに堕落した生活を続けたら何も成長しないしできるようになることもならない。ただそれだけ。占いなんてそんなもの。結局はお客様の精神世界に入り込んで操り、どれだけ信じ込ませるかが大事なの。占い師に一番近い職業って、心理カウンセラーや学校の先生だと思うわ。道具を使うか使わないか……それだけ。先生なんて子供たちをうまく言葉で誘導して、思いのまま動かし、アドバイスをしたり、物事を教える。似てるじゃない。物事を教える部分が、より専門的になっただけ。ごめんなさいね、先生っていう職業に少しだけ嫌な思い出があるのよ。そしてそのパフォーマンス方法を変えたのがマジック。お客様の目線や意識を言葉や仕草で操りみんながあっと驚くような手品を披露する。マジックをするのも占いをするのもどちらも楽しかった。お客様をわくわくさせると私まで嬉しくなっていく。憐憫な人たちのカタルシスを喚起させる。そして、その後にアドバイスやハピネスを。あら、言葉が難しかったかしら。ふふふ、馬鹿にしてなんかないわ。愛おしい。本当に愛おしい。
ある時、一人……いや二人が私のもとに訪れた。可憐で暖かい笑みを浮かべた女性が、こんばんわ、と私に話しかけてきた。占ってもらいたいの。見た目に反して声は少し低く声変わり前の少年のようだった。珍しいなとは思ったけれどその時は特別違和感を抱くことなく対応したわ。何より彼女は他のお客様の誰よりも儚かった。風が吹いたら消えてしまいそうで、見ているこっちが不安になった。どうぞ、おすわりになって、というと彼女はふふ、と笑って思ったより声が高いのね、と言った。占い師さんってアルトの低めな声を想像してしまうもの、と言いながら楽しそうに笑う彼女はどこかこの世界とズレている気がした。何を占いたいのですか、と聞くと私は特に何も、という。この人は占ってほしいと言ってここに来たのに、私は特に何も、と答える彼女が不思議でしょうがなく、たいへん興味を持ったわ。にこにことしている彼女にどう接すればいいのかわからなかった。とりあえず、お誕生日とお名前をお聞きしてもよろしいですか、と聞いた。そうしたら彼女は、不思議な答えを返してきた。
ーー私は坂口亜美、誕生日は5/18。でも、私じゃないの。
そう言うと彼女は、下を向いた。そして急にケッケッケ、と独特な笑い方をし始めた。最初はそりゃあ、驚いたわ。おかしなお客様が来たかもしれない、と気味悪く思った。けれど、彼女を……彼女達を知れば知るほど私は魅了されていった。ばっ、と顔をあげる彼女。歯をにーっと剥き出しにして楽しそうに笑う。人懐っこい青年のような顔。例えば、ガソリンスタンドでアルバイトをしている明るい大学生。
ーーケッケッケ、驚かせちまって悪いな。俺は坂口蔵之介、誕生日は4/18。俺のことを占ってほしいんや。
別の人を見ているような感覚だった。さっきまで可憐でお淑やかな喋り方だったのに、少しやんちゃしたいお年頃の青年のような喋り方になった。私は戸惑いが隠せず、ただただ狼狽えた。彼は、まぁ驚いちまってもしゃーないわ、説明するから、と関西圏と関東圏が混じったような曖昧な喋り方で話し始めた。彼によると二人は二重人格というものらしい。アニメやドラマで見ていたものが突然現実になった気分だった。元々の体は男の子で、蔵之介くん一人だったらしいわ。まだ蔵之介くん一人の頃は大阪に住んでいたそう。こっちに移って家庭内や学校の状況が急変したことがきっかけでいつの間にか亜美ちゃんが現れた。二人は交代交代日々を過ごし、自分たちだけの人生を楽しんでいるそう。しかし、普通の人とは違う。なんとか生活しているけれど将来が不安、とのことだった。誕生日が違うのは人格が芽生えたときを誕生日にしたから。どっちで占えばいいのかしら、と聞けば両方分頼むよ、と言われたの。二人は完全に個々の意識を持っている。だから二人分占った。アドバイスは少し困ってしまったけれど、彼らがもっと幸せになれるよう祈りたい、と心の底から思った。全部が終わったあと、彼は満足したようにケッケッケと笑った。
ーー占い師さん、俺らみたいなのにも真剣に相手してくれてどうもありがとう。なんか心軽うなった。ほんま嬉しかったわ。こんな人もいるんやて覚えといてな。じゃあまた来ます。
そう言って彼は二人分の占い料を払おうとしたが、私はそれを止めた。彼らは二人別々だけど、二人で一つなんだ、と言っていたから。仲が良くて、交換ノートもノリノリでしているんだとか。また彼らに会いたかったから、二人目のお金は次回また使って、と言った。今度は亜美ちゃんのほうがありがとうございます、とふんわりと微笑んだ。先程の子供っぽい笑みとは違って花がふわふわと舞っていた。
それからしばらくして、また彼らが来た。今度は亜美ちゃんのほうが占ってほしいみたいだった。何やら彼女達にしかできない仕事を見つけたらしい。その行方を占ってほしいと。キラキラと輝いた目でどう、どうかしら、と聞いてくる彼女に占い関係なしに、絶対成功するわ、と叫んでしまったのは内緒よ。もちろんきちんと占いもしたけれどね。その後蔵之介くんが出てきて、なぁ、占い師さん、と先程の雰囲気とは一変、真剣な表情でこちらを見つめたの。そして、少しだけ言いづらそうに口をモゴモゴさせたあとこういったわ。
ーーアンタも、俺達と……。
どん、と頭を鈍器で殴られた気分だった。薄々感じていたことを改めて教えられてなんとも言いようがなく情けないような、悔しいような、それでいてほんの少し嬉しかった。
その後も、私は度々訪れる彼女たちの相談に乗りながらたくさんのお客様を相手にした。次はいつやるの、と聞いてくる常連さんも増えてきた。いつやるかはその時次第です、と口に手を当てミステリアスに返すのが私の定例だったわ。けれどいくらたくさんの人を救っても救っても、唯一救えない子達がいた。私はその子達が愛おしくて堪らない。私の花びら、私の羽、私の光達。愛しているわ。それなのにあのときは救えなくて。私達は一緒にはいられないの。会うことは一生ない。同じ時を過ごすことはない。でも、心の底から大好きよ。せめて彼女たちが少しでも幸せな時を過ごせるように逃げ出す手伝いをした。私に与えられた時間は少ないけれど、その中でやれることだけやったわ。でも彼女たちの苦しみは拭いきれない。檻から出してあげられない。素晴らしい踊りを、歌声を、世間に知ら示すことができない。あぁ、どれだけ歯痒く思ったことか。だから毎日毎日祈り続けたわ。光が与えられますように。白馬の王子様が彼女たちを救い出しますように、と。まぁ来たのは太陽のように笑う可憐なお姫様だったけれどね。
さてさて、それではショータイムよ、そう言うと彼女は胸元からぽんっと花を出す。それを鏡の横に置き、それじゃあ行ってくるわ、と笑った。艷やかな漆黒に散りばめられたラメが舞台の照明に照らされキラキラと輝き、彼女のオーラをさらに際立たせる。怪しげなフェイスベールをつけ、つけていた手袋を口で噛んでスル、と外した。一連の動作が大人っぽくて、鼓動が早くなる。恭しく客席にお辞儀をする。たったそれだけで観客の視線は彼女だけのものとなった。
三人のステージが終わる。鳴り止まない拍手の中、私は目を開けた。フェイスベールを外し、ピンマイクを切って、普通のマイクを手に持つ。突然雰囲気の変わった私に観客はシーン、と静まり返った。
ーー皆さん、初めまして。
そう言うとざわざわと話し声がところどころから湧き上がった。私は彼女たちの中で一番若い。けれど一番彼女たちのことをよく知っている。ずっと奥底で彼女たちを見ていた。ある時黒い女が願った。あの子達を救って、と。ある時青い少女が願った。もっと歌いたい、と。ある時赤い娘が願った。自由に踊りたい、と。その願いが集結して私が生まれた。「初夏の空で笑う女」で言えば私はお嬢様。彼女達の雇い主、案内人。
ーー私は……いえ私達は、とある病を抱えているのです。
私達だけの生き方。時には見知らぬ場所にいたり、見知らぬ格好をしていたり、見知らぬ人に声をかけられたりすることもあるけれど。私達だって、お客様を楽しませられる。私達だからこその楽しませ方がある。道端の花から踊りを学ぼう。窓辺に来る小鳥と歌を歌おう。悩める人々に愛のカードを授けよう。私は彼女達のパイプであり、架け橋であり、月であり、太陽。愛する彼女たちとどこまでも。いつか赤い馬車が迎えに来るかもしれないけれど。きっとその後も笑い続けられる。私達にかけられた呪いは、沢山の幸せを運ぶ祝詞だ。
ーー私達の物語をこれからもどうぞ見守ってください。私達はいつまでも笑い続け皆様に幸せをお届けしましょう。
緞帳が閉まる。客席側へ照明。終演の合図だ。それなのにいつまでもいつまでも拍手は止まらず、称賛の声が響き渡った。
ピッとリモコンでボタンをつける。今はニュースの時間帯だ。今日も美人で清楚なアナウンサーと画面越しに向き合った。
ーー今日のニュースです。一週間前、〇〇月〇〇日の転落事故に未だ進展がありません。〇〇県〇〇市〇〇の海岸で女性一人が運転していた赤い自動車が横転した後、海に転落。その後、自衛隊による捜索が行われたが、女性も車も見つかりませんでした。転落したところを見たという目撃者が多数おり、防犯カメラで確認したところはっきりと映っていました。警察はーー
その後しばらくしてその事件は忘れられた。しかしそれと同時にその場所である噂が流れ始めた。初夏にその場所を通ると複数の女の楽しげな笑い声が響き渡るという。笑い声だけでなく、赤いドレスを纏った娘が可憐に踊っていたり、青い小鳥と歌う少女がいたり、漆黒の羽を輝かせ空に向かって舞うカラスの影だけが見えたりすることがあるんだとか。晴れ渡る空に向って顔も形もなく、響く笑い声は不思議と恐ろしさは感じさせず、人々を前向きな気持ちにさせる。こんな神秘的な現象を海岸の人々はいままでも幾度も見たり、聞いたり、したという。
初夏に笑う女たち 志賀福 江乃 @shiganeena
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