パンはパンでも?

おこげ

第1話

 会場に拍手と声援が響き渡る。空気をも支配する熱い激励は僕らの士気を大いに奮い立たせる。

 何百という観客の視線。天井から注がれるライトの数々。手のひらは緊張の汗でくっしょりと濡れていた。


 僕は今、会場中央にある舞台の上にいる。今年度、もっとも聡明な高校を決めるために――。


 全国高等学校クイズバトル。

 三十年以上も続くこの伝統あるクイズ番組で、僕たち桜橋さくらばし高校は決勝まで勝ち進んできた。残る三組の学校も過去に幾度となく決勝進出、ひいては優勝すら掴み取ってきた猛者たちだ。色分けされた解答席に立つ彼らは――うわっコイツ出来るなオーラを醸し、その佇まいからは計り知れない熱意がひしひしと伝わってくる。眼力が凄まじく真正面で対峙すれば間違いなく喰われてしまうだろう。それだけみな、真剣なのだ。


 共に戦う仲間に眼をやる。右には黒縁の眼鏡を掛けたインテリ風な男子、左にはおさげが特徴的なレトロ女子。二人ともこれまでの難問を素早い解答で一蹴した、とても頼りになる戦友だ。


 ちなみに僕は特に目立つところのない、普通の男子高校生だ。いやいや謙遜ではなく本当にただの高校生。過去に私立の名高い小学校に通ってはいたが、それも一年生の半年だけで――現在は公立校出身の遊ぶことが大好きな知性とは無縁の、今を生きることに全力な青春男子だ。ここにいるのは数合わせってだけで、頭脳に加え体力も要されるこの戦いに向けて、「是非とも僕らの手駒になってほしい」「暇人のあなたほど見合った人材はいないわ」と要約すればそんな頼みを巧みに言い回し、揉みほぐされた僕は調子よく引き受けてしまったのだ。


 まんまと言いくるめられたのだと気付いた時は憤りを感じたものだが、初戦を勝ち抜け、二回戦、三回戦と勝ち進んでいくうちに優勝・頂点という甘美な響きが僕の心を揺り動かしていた。



 ――次の問題で勝者が決まる。


 僕の鼓動は次第に早くなっていく。あまりにも乱打するもんだから心臓よりも血液を送る血管の方が心配になった。医療鋏で呆気なくちょん切られてしまうような軟弱な管にこんな重大責務を負わせるとか。これほどのブラック企業はないだろう。



 総合司会者がマイクに向かって口を開いた。見てくれはなかなかのモテ男で仕事にもかなりの情熱をかけているのがその弁舌から窺える。だが目尻の辺りがどうにも頼りなさを滲ませており、私情プライベートでは異性に対して弱腰で振り回されがち、といった印象を感じた。


 「これまで地頭力に重きを置いてきた当番組ですが、今年の決勝戦は原点に立ち返った早押し型式を取らせて頂きます――」


 エンタメ性に長けた前口上で場を盛り上げると、決勝戦における大まかなルールを説明した。


 出題するのは閃き問題であること。

 問題は一問のみで正解がでるまで続くこと。

 お手つきすれば休みとなるが全チームが不正解となれば解答権はリセットされること。


 「それでは問題です」


 会場内にSE効果音が走り抜けた。その合図に僕らは低く身構え耳に全神経を集中させる。


 司会者の声が轟く。


 「パンはパンでも食べられないパン、なーんだ?」


 力んだ腕が電流を流されたみたいに小さく跳ねた。


 ――は?


 問題を疑い、耳を疑い、それから司会者を見た。

 彼は首を長く伸ばして真上を見上げていた。


 「パンはパンでも食べられないパン、なーんだ?」


 司会者は問題を繰り返した。

 まるで天井よりもずっと遠くにいる何かに訴えるみたいに。


 ざわつく観客。葉がこすれるような囁きが場内を包んでいく。


 そりゃ当然だ。


 なぞなぞ?なんで?クイズバトルだぞ?決勝戦だぞ?頂点を決める重要な問題なのに。由緒あるクイズ番組の歴代に連なる大事な一問なのに。


 状況を理解しようと視線を巡らしてみる。

 すると驚いた。

 困惑していたのはどうやら僕だけらしい。出題した司会者も、隣に連なる解説者もゲストも番組サポーターも、神妙な顔つきで僕たちを見つめていた。中には胸の前で手を握って祈るような人まで。

 観客のざわめきも問題への疑問ではなく、解答者である僕らの誰もが早押しなのに一向に動かないからのようだ。


 ちら、と他校の方を見た。皆、恐ろしい形相で解答を捻り出そうと躍起だった。脳を活性化させようとその場で駆け足する者、閃きを狙ってかこめかみに拳を押し当てる者、何を思ったか袖をまくり一方の手のひらでもう一方の腕を激しくこする者――。


 同志たちに眼をやる。二人とも尋常じゃないほどの汗を額から流し、身体を震わせていた。なんだこの難問、分かるはずないじゃないか――そんな風に。


 何だよこいつら。食べられないパンだぞ?そんなの子供ですら知ってることだろ。何を悩んでるんだ。見てるだけで火傷しそうな顔までして……だけどこんな有名なクイズ番組の最後がただのなぞなぞなんてこと、ありうるのか?問題文に何か隠れたヒントが?二重三重に張り巡らされた罠が?トリプルアクセルダブルトゥループと、頭を捻り千切らなきゃ辿り着けないような真実が?


 他校の解答ボタンが鳴った。司会者が学校名で指名して解答を促し、男子生徒が叫ぶ。


 「パンジャンドラム!!」――会場に不正解のSEが流れる。


 そして彼の一手で火蓋が切られたように、矢継ぎ早に解答ボタンが打鍵されていく――。


 パンツァー、パンパスグラス、パンデモニウム、スパンコール、ピーターパン、パンタグラフ、プロパン、シシャパンマ、シュパンダウ、パンデミック、サイバーパンク、パンドラ、パントマイム、パンクラチオン――。


 数々の解答が上がるがどれも不正解の音響に遮られる。

 ボタンの連打はかなり苦しい。四チーム全員が勝利を勝ち取るために息を切らしている。

 左右を見ると、インテリ風な彼は相棒トレードマークの眼鏡を外しては無いレンズを一心に拭き続け、おさげが特徴的チャームポイントな彼女はおさげ型付け毛エクステを力みすぎで引きちぎっては呪詛のように「パン……パン……」と呟いていた。二人ともまずは見た目から入るタイプらしかった。


 開始から三十分が経過した。

 正解は未だ出ず。


 高まる緊張。立ち昇る蒸気。

 白熱ヒートアップする戦いに体温は上がる一方だ。


 どうして誰もアレを言わないのか。開口一番に出てもおかしくないだろうに。まさか本当に別解が?それともベタな解答が正解であるはずがないと高を括っている?万が一それで間違ったらと尻込みしているのかもしれない。不正解なら赤っ恥を掻くのは確定だろうから。


 考えても仕方がなかった。僕は頭脳派じゃない。一介の高校生だ。焦燥感が僕をせき立てる。幼年期の自分がフラッシュバックする――。


 失うものは何もない。


 手は勝手に動いていた。赤いボタンを押して解答権を得た僕は、粘り気のある唾を飲み下して答えた。


 「パ……パン、ツ……」


 会場は静寂に包まれた。


 たった数秒がとても長く思えた。血の気が引くのを感じて、僕は意思に関係なく笑いだす顎をどうにか止めようと力いっぱい歯を食いしばった。もはや息を呑むことすら許されないのでは――そんな気さえした。


 司会者の視線が僕の顔を焼きつけんばかりに捉えている。


 そして――。


 「せいかぁぁぁああい!」歓喜の声が天井へと伸びた。「おめでとうっ!優勝は桜橋高校!!」


 拍手喝采、開始の時とは比べものにならないほどの称賛が嵐のように巻き起こった。スタッフがバズーカを放ち、頭上から花吹雪が舞い降りる。仲間からは肩を叩かれ抱きつかれ、他校の生徒たちは悔し涙を流していて――当の僕は半ば放心状態でされるがままに身体を揺さぶられていた。


 勝った。優勝したんだ。僕らは頂点に立ったんだ。しかも最後は僕の答えで。いや、これも含めて三人の力があったからこそだ。ああ凄い、凄いぞ。僕らはこの戦いに勝利を収めたんだ!最初は嫌々だった自分が信じられない。胸の底からこんなにも喜びの滝が溢れ出しているってのにっ!。



 この勝利から、僕の人生は大きく変わった。


 僕はこの時の興奮を忘れられず、それまでやる気のなかった学問にのめり込むようになった。遊びも友人たちも棄てて、無心に勉学に励んだのだ。その努力の甲斐もあって、かつては一ミリの興味もなかった某有名大学に進学することができ、そこでの功績を聞き付けたテレビスタッフがクイズ番組の出演オファーを持ち掛けてきた。まさに僕は人生の花道を突き進んでいた。


 そんな僕を人々は〈パンツの人〉と呼び親しんだ。たった一度の解答で人生に変革をもたらした天才として。


 あれから五年。

 僕は三回生になり、歳も二十一と酒やタバコも嗜好できる(どちらも僕の好みじゃないが)立派な成人となっていた。甘いマスクと怜悧な頭脳に人々は酔いしれるばかり。僕のパンツ知名度はますます高騰していった。


 ――パンツ、なんて素晴らしい響きなんだろう。過去に僕を苛んでいたそれがこれほど僕を勇気づけてくれるなんて。いや、勇気なんてものじゃない。僕はパンツに愛されている、愛しまくっている。パンツに触れて匂いを嗅いで共に寝て……パンツのない人生なんて考えられない。そうだ、遠い昔から僕たちは出会っていた。過去も今も、そしてこれから先もずっと繋がっていく。そう運命づけられている。パンツは僕にとっての自己価値、存在意義、生きる意味だ!フォーリンラブ。アイラブユー。共に歩もう、栄光の架け橋へと――。


 日を追う毎に僕のパンツ愛は膨らんでいった。封印していた獣が、人々が語り掛ける〈パンツ〉という言葉によって再び眠りを覚ました。心の檻に爪を立て、外に出ようと暴れ始める。僕はそれに突き動かされるようにありとあらゆるパンツをネットショップで買い漁った。部屋を埋め尽くすパンツの山の中で、止まない高揚感と溢れる愛を浴び続け――僕は至福を味わっていた。


 ――なのに。


 なのに、どうしてか僕は途方もない虚無感をも同時に抱いていた。何かが足りない、物足りないのだ。ここはまさに天国で幸せを噛み締めるべきなのに、僕はどこか満たされない心に苦悶していた。

 何が足りないのか、どこが違うのか、どうありたいのか。そんな自問自答を繰り返した。いくら飲んでも渇きが癒えない水のように、不完全燃焼な幸福がストレスとなっていき――苦悩は頑丈だった檻を蝕み、あっという間に喰い破った。



 後日、僕は留置所にいた。

 住居不法侵入および窃盗の容疑、つまりは下着泥棒として逮捕されたのだ。


 ずっと感じていた物足りなさ、それはずばり匂いだ。履き古したパンツ、よれよれのパンツ、柄の剥げたパンツ、穴の空いたパンツ、少し黄ばんだパンツ――個々で異なる生活習慣、そして生理現象という刺激的な味付けパンチのあるスパイスで育った唯一無二オンリーワンなパンツの数々。あの熟成された濃厚な香りを鼻腔に押し込めたい――獣はそんな衝動に駆られたのだ。


 入念な下調べを保ってして突き進めたパンツ奪取計画。一枚また一枚と仲間パンツの数は増えていき、手にした使用済みパンツは一ヶ月足らずで百五十枚を越えていた。

 やがて住み慣れた地域でのお宝獲得は限界だと感じた僕は、行動範囲を広げてパンツを漁り続けた。アパート、マンション、戸建て、コインランドリーと、血眼になって探し回り、思うがままに掻き集めた。


 だがどれだけ完璧な計画も、土地勘のない場所での犯行ではむらだらけだった。見落としていた監視カメラの映像から警察は僕を割り出し、数十件もの余罪を抱えたまま警察署まで連行した。


 そこからはあっという間だった。パンツを盗むことを罪とも思わない、寧ろ生き様だと開き直った僕はあっさりと全ての犯行を認めると、早急に地検に送致され、手続きにより勾留され、裁判に掛けられた。示談などするものかと僕は吠え立て、裁判所で騒ぎを起こし傷害罪も追加されることになった。あそこにいたハゲが僕のことを性的倒錯だの異常性愛パラフィリアだのと罵倒したのだ。僕の崇高なる愛を異常者の妄信と嘲笑あざわらった。だから僕は怒りを剥き出しに「お前の眼が腐っているからだ」と、茨木童子も感服するだろう腕力で手綱を持つ男を振り払うと、愚者ハゲの眼球を親指でり抜いてやった。そうして僕は長い長い刑務所生活を余儀なくされたのだ。


 刑務所内は辛くて堪らなかった。愛するパンツたちと引き剥がされた僕は今頃になって藻掻いた。自分の中で膨らみ続ける喪失感に――。

 行かないでくれ僕のパンツ、僕の愛、僕の全て。現実の檻に閉じ込められて何度も何度も腕を伸ばした。だがその度に天使パンツたちは色めく空へと飛び去ってしまう。追いかけたくても取り囲む冷たい壁が僕たちを無慈悲に別つ。泣いて喚いて、引っ掻いた爪は無惨に剥がれ、指の血筆でコンクリートを赤く描いた。



 刑務所に入って半月が経った。


 食事もまともに喉を通らないでいた僕。サビ臭さに染まった腕は痩せ細り、身体のあちこちが骨張っていた。見るからに体重は落ちているのに上体を起こすだけでも息が上がる。


 そんな僕の元へ突然の訪問があった。


 対面はアクリル板ではなく黒鉄の格子を隔てた、僕のいる牢屋だった。施設内の受刑者との接触、その他全ての面会を謝絶されていたからだ。

 厳重な拘束に疑念を抱きはしたが、あれよあれよと憔悴していった僕にはもはや、そんな訴えなど頭の隅にすら残っていなかった。


 来訪者は一人の女性だった。僕とさして歳の変わらない若い女。可愛いというよりは美人よりの艶っぽい面容なのだが、僕を見下ろす瞳がどうにもいけ好かない。柔毛なファーコートにヒールの高い靴、それから鮮やかな光沢を蓄えたピアスや指輪といった、明らかに裕福な身なりも相まって……ぼんやりとした頭で考えられるのはそれが限界だった。


 格子枠から「お久しぶり」と寝そべる僕に再会の言葉を掛ける。


 「……あぁ、高校の……」仄暗い牢屋で記憶を掘り起こす。


 インテリ風な男子生徒と一緒に僕をクイズバトルに誘ったあの女子生徒だった。名前は……出てこない。出で立ちはまるで違っていたが、他者を軽んじる傲慢無礼な雰囲気は記憶のなかの彼女と酷似しているように思えた。


 僕の考えは正しかったらしく彼女の頭が僅かに縦に動いた。だがしかし、「けれど、もっと以前から会っているわ」と挑発的な態度を据えて言う。


 もっと以前から?あの番組に出場したのは高校一年の時だ。となれば中学、ひいては小学時代ということになる。だけど僕は蛆を見るような視線を相手に向ける人間をそれまでに見た覚えがない。彼女はいつ僕と会ったというのだろうか。ああ駄目だ、頭がボーッとする。考えるのが面倒になる。


 低く唸る僕。

 横になったままの僕に彼女は有名な私立小学校の名を口にした。かつて僕が半年間だけ通っていた例の学校だった。

 それでも僕はピンと来ない。彼女は眼を細めてこう付け加えた。


 「女子児童下着強奪騒動」


 耳が捉えた瞬間、蓋をしていた記憶が脳裏を駆け巡った。


 「あぁ、あぁ……」僕の目はカッと見開き、幼年期の自分の姿を映し出す。


 子供の頃、誰にも癖というものがあったと思う。ジャンケンで最初に出すのは必ずグーだとか、スキップは右脚からだとか、会話の頭に「あのね」を付けるとか。無意識下で生まれ日常に染まりきった習慣の一つ。端から見れば無駄に思われるそれが、当人には至極重要性の高いものだったりして、無理に矯正するものなら風邪を引くなどの体調不良に見舞われることもしばしば。なかには生涯を共に送るほど根強く定着するものもある。


 そして僕にも癖があった。

 である。


 入学式のさなか、来賓者らいひんしゃの話に飽きていた僕はふと着ていたブレザーの左袖が気になった。紺色の厚みある袖口は、まだ指をしゃぶっていた僕にとって非常に魅力的なものに見えたのだ。見れば見るほど惹きつけられて……我慢できなくなった僕は人目も気にせず袖を咥えた。手首の裏辺りを口に含み、裏地を上顎に貼り付けながら舌で舐め上げてみたり、甘噛みしながら音を立てて吸ってみたりした。

 以来、その行為が病みつきになり癖となった。GWゴールデンウィークが終わる頃には意識せずともしゃぶるようになっていた。


 だがこういった癖は、基本的に心の隙間を埋める幸福確立のための欲求行動である。そして容易く欲求が満たされ続ければ、人はより刺激的な幸福を欲したがる生き物なのだ。


 六月の末日には既に袖しゃぶりによる幸福中枢は枯渇していた。いくらしゃぶっても心躍る気分を味わえない。この歳にして僕は生きる苦しみを知った。


 そんな時に僕は運命的な出会いをしたのだ。幸福を感じられず飢えに悩まされていた僕の前に、一陣の風が吹いた。走り抜けた風は一人の女子生徒のスカートを軽々と捲り上げた。

 それはきっと、神さまにとっては茶目っ気ある冗談イタズラだったのだろう。だけど僕には死活問題と言っても過言でない現状をひっくり返してくれた、運命見えざる者の導きと確信した。


 宙を泳いだスカートはそれまで隠していた小さな世界を晒し、やがて僕を虜にさせるあの匂いを届けたのだ。


 これだ、と思った。思った時には少女のパンツをずり降ろしていた。背後からの僕の行動に少女はパニックになり、その拍子にバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。僕はそのチャンスをものにして、靴ごと奪い取る勢いでパンツを剥ぎ取り、疾走した。


 これが初めてパンツを味わった日だった。顔に押し当て吸い込んだ匂いは、胸がときめく刺激臭でいっぱいだった。唇で挟むと塩味と酸味が程よく染みだし、舌の表面を愛撫する。

 今までにない充足感を得た僕は一心不乱にパンツを


 やがて事情を聞いた担任が体育館裏で放蕩ほうとうする僕を見つけた。すぐさま職員会議が開かれ、放課後には僕と女子生徒、二人の母親ほごしゃがやって来た。少女の父親は法務省のキャリア官僚らしく、事の大きさをかんがみた理事長は揉み手すり手と胡麻をすり、忖度に忖度を重ねたあと、その場で僕に退学処分を下した。


 同じく行政機関に属すも、下階級でぽっと出の地方出身者だった僕の父は無抵抗のままに職を奪われ、家には翌日から素性の知れない者達の嫌がらせが始まった。すぐに街を離れることになったが、両親は事態を招いた僕をやっかんで半ば棄てる形で父方の祖父の家に置いていった。


 『お前は何も間違っちゃおらんよ――』


 これは両親から見放された日の夜に今は亡き祖父が僕に言った言葉だ。


 『人にはな、個性っちゅうもんがあるんじゃ。好きなもの嫌いなもの、得意なことに苦手なこと、いろいろじゃ。どこにも同じ人間などおりゃんせん。違うからこそ相手に興味を持つし自分に自信も持てる。したいことを我慢するのは己を否定するということじゃ。だから周りが何と言おうとわしだけは庇おう、お前は何も間違っちゃおらん』


 そして同じ口でこうも言った。


 『じゃがな、人様に迷惑を掛けるようなことをしてはならん。それはお前自身を貶めることになる。相手の気持ちをおもんぱかれる男になれ』


 当時の僕は半分も理解できないでいたが、彼の優しくも芯のある表情からその真意は伝わった。


 祖父の真っ直ぐな姿勢に僕は感銘を受け、それによって行き過ぎた欲望をしまい込むことができた。最初は心の抑制にひどく違和感を覚え、調子を崩しもしたが、祖父の支えもあり継続することで違和は緩慢していき、次第にパンツへの執着は僕の意識から薄らいでいった。おかげで転校先では問題を起こすことなく、いわゆる一般的な児童として学校生活を送ることができた。


 そして現在。

 鳴りを潜めていた獣は僕の手から逃げ出した。危険を承知で解き放った、が正しいかもしれない。酒もタバコも無論、麻薬だってやってこなかったが、それらの嗜好品同様に僕の欲望は強い酩酊感を経て激しい依存心を産み落としてしまった。だがその背徳感すら僕の冥利となっているのだ。


 深い底に眠っていた過去の記憶。忘れかけていたあの日の出来事を鮮明に思い出した僕は、眼の前の女性があの時の女子児童だと悟った。


 唖然とする僕に彼女は自分を特務刑務官だと名乗った。


 「父の立場を利用したのよ。本日付けであなた限定の管理者に任命されたわ」


 彼女は官僚の娘という肩書きを存分に発揮したことで、僕に関する全権を委ねられているとも言った。


 「復讐か」真っ先にそう思った。「あの時の恨みを晴らそうってか?わざわざこんな所までご足労どうも」


 あらん限りの侮蔑を顔に貼り付かせてせせら笑ってやる。


 「別にあなたのことを恨んでなんかいない。その逆よ」


 逆?何を言ってるんだこの女は。

 警戒する僕。彼女は胸に手を当て話し出した。


 「あの日から、私は何事にも興味を持てなくなってしまった。心の底が抜け落ちたみたいに、何をしても満たされることがなくなったの。医師からは騒動による心因性の機能障害と言われたわ。周囲も楽しそうでない私といてもつまらないと次第に離れていった。そんな無気力な日々が続いたある日、鏡に映る自分を見てその原因がはっきりした……あなたがいなくなったからよ。あなたに下着を奪われたあの時、私のなかに新たな感情が芽生えていたの。止まない興奮に息を荒げる私が眼の前にいた」


 彼女はそれを愛だと言った。それ以降、金で雇った人間を使って僕の動向を逐一報告させていたという。


 「ショックだったわ。あなたがそこらの低俗同然に成り果てていたのだから。私の心を揺り動かしたあの性癖をひた隠して、くだらない義務教育に身を投じていた。だから私はあなたの通う高校に潜り込み、直接監視することにしたの」


 だが観察するうちに、僕が自分の欲望を抑えるのに忌避感を抱いていることに彼女は気付いた。


 そして僕のどろりとした煩悩を解き放つために。


 「やらせ……?」


 全国高等学校クイズバトル。

 あの年は彼女の父や父の友人の力によってねじ曲げられた八百長やおちょうだったのだ。


 「あんな問題が長寿番組の決勝に使われるとでも?」彼女は鼻で笑った。


 司会者、ゲスト、番組スタッフらは完全に彼女の息が掛かっていた。観客たちは皆サクラで、他校の生徒たちも替え玉を立てられていた。

 勉学に打ち込むようになるのも計算の内と、彼女の行動は更に過激さを増す。僕が確実に合格できるよう大学とは癒着関係を築き、偶然を装ってテレビスタッフを近づけ、全国的に知られる有名人にまで仕立て上げた。


 「全てはあなたを手に入れるため」


 直接的な挑発では一度埋もれた性癖は反発心や防衛本能が阻害して余計に引っ込むと考えた彼女は、急がば回れで本当の僕を呼び覚まそうとしたのだ。


 そして彼女の思惑通り、僕は己に正直となりパンツの収集を始めた。執着心は膨張エスカレートしていき近隣のパンツを盗み始めた。彼女には僕の行動が端から筒抜けだったがそれでも放置していたのは、犯行を重ねることで僕の欲望をより強固なものとするためだった。


 彼女はずっと僕を見張っていたのだ。執念に燃え、愛に溺れて、ついに僕を勝ち取った。


 「あなたのお祖父様に一度お目にかかったことがあるわ。私の正体を知ると、あなたを許してくれと涙を零した。あなたは何も悪くない、ただ無我夢中に好きなものに飛び付いただけだと。あなたにとってあの行為は愛情だったのだと……全身が痺れたわ、私のこの想いが一方的じゃなかったと知って」


 彼女が鉄扉を開けて牢のなかへと入って来た。仁王立ちになると眼の前で豪奢なコートを脱いだ。

 その光景に僕は打ち震えた。様々な感情が交錯し、止め処ない高揚感に呑まれていく。

 コートを見開いた彼女の姿はワイシャツと下着しか身に着けていなかった。裾から覗く彼女のパンツに僕は釘付けだった。


 「あぁ……あああ……」もはやまともに言葉も出ない。


 久方ぶりのパンツ。別れたのが遠い昔のようだ。もうこの先、眼にすることも叶わぬまま息絶えるものだとさえ思っていた。だけど今ここにある、確実に。ワインレッドの――レース模様の――舞い戻ってきた。迎えに来てくれた。ありがとうパンツ。おかえり、会いたかったよ。


 僕は飢えた獣となって彼女に飛び付いた。腰を抱き、太ももにぼろぼろの爪を食い込ませ、彼女の股間パンツに顔をうずめた。限界まで鼻の穴を広げて芳潤な体液の匂いを満喫すると、一舐め、二舐め、と彼女の華奢な体躯に負けず劣らずな薄地の至宝パンツに舌を這わせ、猛然とかぶりついた。


 無心に貪り続ける僕。本能に従って、ただただ眼前のそれに愛を捧げることに徹した。


 「あなたは私のもの」彼女は言う。「ずっとここにいましょう。ここには私たち以外誰も近づけさせない。あなたを否定する者も傷付ける者もいない、目移りなんてさせてあげない。ずっと私だけを愛せばいいわ。ずっと、ずっと……」


 一心不乱だった僕の思考が僅かに反応した。あぁ、彼女こそ僕の女神だったのだ――彼女の顔を見上げる。きっと僕も彼女と同じように蕩けた表情をひけらかしているのだろう。だってこれほどの幸福、未だかつて感じたことがなかったのだから。


 口内で躍る破れたパンツに気付いた。舌で転がしながらもぐもぐと咀嚼そしゃくする。


 ふいにあの時の司会者の言葉が頭を流れた。


 『パンはパンでも食べられないパン、なーんだ?』


 はは。こんな馳走、食べられないわけないじゃないか。


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パンはパンでも? おこげ @o_koge

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