第6話 28歳

 あきには色々な家の、それと近所の用事があった。

 だから僕は一人で神社へ向かった。この村には神社が二つある。祭りが行われたり、子どもたちの遊び場になるのは下の神社。もう一つは山の頂上にある。

 山の頂上は、たどるのが困難で、到達してもそこにあるのは木の箱だけ(とはいえきちんと祠の体裁は取っている。小さな鳥居も道中いくらかある)。もともとその神社だけがこの村にあったのを、昭和二十年だか三十年くらいに、使い勝手が悪いというので、下にも作ったらしい。僕は中学生の頃、特にその上にある大本の神社に足を運んだ。よく歩雪を連れて行った。ついてきてくれない時は一人でいった。そして今日もまた一人だ。久しぶりにその神社に向かうことにした。


 図書館から少しだけ道を戻し、それから『こいし道』を歩けば良い。こいし道といっても、それほど小石はない。三十分も歩くと景色は見る見る木になり、人の音も遠のく。ただあるのは、風が耳にあたる音と、枝葉を大きく揺する音。それと砂を踏む足音。


 道は、足跡が消えて、道筋もなくなり、ただ草の生えた地面を踏み歩かなくてはならなくなる。僕は少し心配になった。神社に行けるのだろうか。太陽も無くなってきている。空に残った余熱じみた光だけが、今の世界をあるものにしてくれている。夜が近いのかもしれない。


 判別しきれない種類の緑が、葉の個性や光の当たり具合によって、無数に彩どられる。森の色が目になだれ込む。最近は慣れていないせいもあって、さっきから僕の視界は霞んで、脳がぐらぐら揺れた。鼻からは、水気の含んだ冷たい空気が滑りこんだ。すっかり僕の体の空気は入れ替わった。森の肺にいるようだった。


 いよいよ木々の間を、じぐざぐに歩かなくてはならなくなり、足の置き場も頑丈な岩などに頼りはじめた頃、僕はぽうっと霊のように灯る、朱い鳥居を見つけた。安心してくぐった。これからの道はこの鳥居のある方に、順々に進んでゆけば良いのだ。


 鳥居はほんとうに昔と同じようにある。そのおかげで道には迷わなかった。

 青く夕暮れはじめた。葉の天井の隙間から、薄明るい空に一番に光る金星を見つけた。

 視界はもうはっきりしてきていた。気分が良い。僕の眼球は久しぶりに活発に働いた。

何時間かかったろう。


 僕は神の社に辿りついた。

 最後の鳥居をくぐって、祠の前まで来る。人の履く靴よりも小さな賽銭箱に、僕は財布の小銭をじゃらじゃらと全てひっくり返した。


「久しぶりです」

 僕は口の中で話した。

——うむ——

 頭の中で声がした。どんな声かというと、何も説明できない。聞いたことのない声だ。

「……。」僕は黙り込む。「いろいろやったけど駄目だったよ」


——みとあいせるはほのことく。みとあいせるはほのことく。あるはじとして、そのこころ——


 ……さらさらとある言葉が連なって思い浮かばれた。それは僕の脳に何度も何度も当たり、染み付いた文章だった。僕は頭に記されている、すっかり暗記された文言を読んだ。


「いろいろやったけど駄目だったよ。ぼくはいろいろなものが、さまざまなことが、大好きで。それで美しいんだ。そういうものは、すべてつながっていて、けれどもぷちぷちとひとつひとつ、剥がれては消えていって仕舞う。いろいろやったけど駄目だったよ。だけれど、ほんとうにいうと、ぼくへどうしたってかみさまの事を信じずには、いられないんだ。うむむ、そういう言葉でなくって、より広大な存在。偉大なちから。僕もその一部であって、目の前のあるでもある」


——みとあいせるはほのことく。みとあいせるはほのことく。あるはじとして、そのこころ——


「ああ、美しいこの国に恋をしていたのだ。あなたのいるこの世界に、海に、土地に、寄り添っていられる仕合わせがあった。いとおしい、なよ。かよ。うしなわれた様々なはるけきかたるきよ。さもしもなお潜る憂さ。あがなすのはただ透明の気持ちのみ。僕と一体であるこの世界に全てがひとつらなりで、ありつづくことのおもい」


——みとあいせるはほのことく。みとあいせるはほのことく。あるはじとして、そのこころ——


 ごうごうと、風が吹き舞った。




 すっかり暗くなってから、僕は山を降りた。

 僕はそのまま、もう家へは寄らずに、駅へ坂をくだっていた。


 最後に荷物を確認する。何もないはずだったが、そこに暗く封筒が入っていた。取り出してみると、それは母からの仕込みで、中には生活費が入っていた。僕はとたんに悲しくなった。喉の表面にざらざらと血の感触がした。けれども、ただ噛み締めるのだった。これはもう捨ててしまおう。

 封筒を鞄に入れ直して、僕は駅まで、歩いた。

 村の人はもうみんな家の中。僕はかさかさと歩く。靴の中に小石が入っていて、それを、踏み出すたびに指で不器用に弄んだ。

 僕はかさかさと歩く。


「ねえ、」


 後ろから声がかかる。僕は、振り返らなくてもわかった。


「久しぶりね」


 後ろには結花がたっていた。彼女は海の上にあのぼり始めた月の光をうけて、白く透けていた。


「ああ、久しぶりだね」

「もういっちゃうの」

「うん」


 結花はとてもゆっくり歩いて、僕のところまできた。それから僕に接吻くちづけた。


「ありがとう」


 彼女はいった。

 僕は少し軽くなったように頷いた。それから彼女に母からの封筒を渡して、村の子どもたちにと言い置いておいた。彼女はそれを胸に抱えて、笑った。


 駅に着く。電車は待っていた。僕は黄いろい光の電車に、静かに乗り込んだ。

 電車はがたがた振動しながら発進する。僕は眠るように座った。

 村はいつもと変わらないだろう。静かで、風が吹いて、また明日になれば太陽が登る。

 多分その頃には僕の部屋では遺書が見つかる。いつもよりかは騒がしくなるかもしれない。いつもよりかは。


 遺書が見つかったのは、僕が予想したより少し遅かった。昼前。ずいぶんのんびりとしたものだ。机のところに用意したのだが、万一の場合に備えて二冊の本で挟んでおいたのがよくなかった。本を片付けるまで、誰も気がつかなかったのだ。

 あきは泣かなかったが悲しい顔をした。母は泣いた。けれど、あまり騒ぎ立てなかった。村人にも知れ渡ることがなかった。どっちにしても一緒である。

 遺書はそれほど長くなかったが、日本語で書いたのであき以外には読むことができなかった。母は、はっきり読んでもらう事を望まず、大体のことをあきに教えてもらった。

 そしてその情報は二週間後、東京の師匠のところへ届き、そのあとメディアを通じて日本に行き渡ったものの、僕の遺体は見つからなかった。当たり前である。

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さいごの帰郷 戸 琴子 @kinoko4kirai

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