第5話 21歳

「恋人は出来た?」

 僕はメグに尋ねた。

 だいたい、いないことの予想はついていたのだが。


「ううん」

 と予想通り、メグは首をふった。そしてなぜか迷惑そうな顔をして見せて、

「お姉ちゃんのせいなの。私が小学校のころお姉ちゃん事件起こしたでしょ。私にとって恋愛ってああいうのよ。それにクラスのみんなも、恋愛に関しては私のことを恐れてるんじゃないかと思うのよ。そういう風に見える。見られてるように思う。お姉ちゃんのああいうののせいで」

 とメグは言った。

「ああいうのってどういうことよ」

 くやしげな顔であきが抗議したが、悔しいはずファ。ああいう事があったし、それはあきだけに収斂して、彼女だけが(本当はもう一人いるはずだった)背負う過去。恥ずかしい過去、なのだ。

 実に、ああいうの、である。

 妹の恋のはなし。


「お姉ちゃんのせいで、一族恋愛狂のレッテル貼られてるんだから」

 メグは責め立てるように、茶化すように言い張る。だが、詳しくはあきと僕のせいだ。

「でもほんとうはちがうよ」とコウが言う。「自分にいい人が現れないのをお姉ちゃんのせいにしてるんだ」

「うるさい。あんたも彼女いないでしょ。わたしはね、中村君とか本田君とかに気にいられちゃってるし、つくろうと思えば、彼氏なんて、いくらでもつくれるのよ。誰にも見向きもされていないあんたと一緒にしないで」

「僕だってそれくらいは」

「いないでしょ」とあきは微笑んだ。

「まあ、僕の場合は東京にいくらでもいるけど」

 と僕が言ったが、それに対しては誰も何も言ってくれなかった。会話の中に幽霊が通った。


 いい時間になってきて、メグの目も重たくなってくる。おのおの寝ることにした。メグが「もう少しお兄ちゃんと話す」とごねたが、「明日も学校がある」とあきが許さなかった。


 それぞれ部屋に帰る。僕はコウの部屋に布団を敷いた。コウに恋人の話でも聞こうかと思ったが、恥ずかしいことに、気がつくと僕が眠ってしまっていた。


 そして朝になった。

 家族で朝食をとった後、コウとメグが家を出た少し後、僕は図書館へ向かった。

 図書館までどう行けば良いかわからなかった。そもそも前と場所が変わっているかもしれない。変わっていないとしても、僕はもうすっかりその道を忘れてしまっている。

 忙しそうにするあきに聞くと、

「昔と同じ!」

 と答えた。

 その昔のことをあまりよく憶えていないのだ、というと

「坂を登って、登って、誰も住んでいない小屋のところで左に曲がってから、林の奥へゆくの」

 と教えてくれた。おかげで、その道筋に見える光景を、久しぶりにコーヒーを飲んだといった感じに思い出した。

 話の通り、図書館は、僕が村を出る以前と同じところにあったが、その姿は変わり果てていた。


 外からひと目見ただけで、もう誰も利用していないのが分かった。壁には踊るように苔が生えていたし、蔦も絡まるところがあって、百年もほったらかしたのかと見えるほどだ。中に入ろうと扉を開けると、粘土が固まったみたいになかなかひらかないうえ、いざ開くと砂や埃が落ちてきて、僕はそれを頭からかぶった。体の動かない老人の腕を無理やり動かしたかのように、館は呻き声をあげた。

 電気はついた。最初は不安定だったが、待っていると、ちゃんと光ったまま安定した。

 天井は破れていた。中から、なんの隔てもなく、そのまま空が見える場所がある。これでは建物と言わない。

 床から壁、机や本棚にも苔がむし、本は水気や風にやられて、てろてろになっている。天井から水滴が落ちてくる。一定のリズムで下の水たまりに当たって鈴のような音を鳴らす。虫が這う。……。


 僕はそんな館内を見て回った。それからどうにか生きている椅子を見つけて、そこを少し綺麗にして座った。


 僕は鞄から封筒を出した。

 師匠から受け取った封筒である。出発する前、最後に師匠に会った時、彼はこれを、

「電車のなかで読んで」

 といって僕に渡した。

 僕は読むのを忘れていた。

 糊を剥がしてあけると、中には数十枚を数えるお金が入っていた。


 あきがやってきた。

 入り口のドアの反対側の壁に関しては、半分くらい崩れてしまっていて、その大きな穴から彼女は僕が中にいるのを見つけたのだ。あきはぐるりと図書館を回り込んで、扉から中に入った。


「まだ読める本ある?」

 あきがきく。

「どうだろう」

「フフン」とあきは笑う。「すごいでしょこの図書館」

「だけれど、朽ちすぎじゃないかな。たった十年の間離れていただけで、こんなに変わってしまうものかな」

「だって、もとよりお兄ちゃんしかこの図書館使ってなかったし。一人も使う人間がいなければ、ものは時間よりも早く過ぎ去ってしまうの」

「あきが来続けなきゃいけなかった」

「だって私も結婚して一時期この村を出てたし」

 そういって本棚に隠れてしまったあきは、次に姿を表すと一冊の本を抱えていた。僕の前まで机を引っ張って持ってこようとすると、その机は崩れてしまい、水たまりを派手にはじいた。霧状になった小さな飛沫だけが、降り注ぐように僕のところまで届いた。

 彼女は諦めて、近場の机に本を置いて、ページをめくった。

 僕も見に行った。

「久しぶりのこの文字」

 僕は感想をもらす。

「日本語。私はたまに日記に使ったけれど」

「僕は全く。村を出て以来は触れていないな。師匠も日本語は読めなかったんだ」

「他にはいなかったの?」

「一人も会わなかった」

「難しいかな? 読めたら読めるんだけどねぇ」

 僕とあき以外に、もう一人だけ、日本語を読める人物がいた。

 僕が二十一歳の頃。もうその頃には、僕は東京に出ていた。大学でまだ大人しく授業を受けていた頃。下宿の部屋に帰り、短編小説の続きを書こうとした時。実家から電話がかかってきたのだ。

 受話器からは母の動揺した声が聞こえた。

 ——あきが恋人と、その恋人の家の車庫に立て籠もって、出てこなくなった。

 母は続けた。

「ねえ、村に帰ってきて、あきを説得して。私たちには、彼女らが何を訴えてるのかもわからないんで——」

 到底無理な話だった。放って置いたらいい。あきのことだから、心中まではしない。そういって通話を切った。なんだかわからないが、とても面倒くさく感じたものだった。

 ちなみにその一緒に立て籠もった、あきの当時の熱烈な恋人というのが、日本語を読める稀有な人物であった。僕が十七歳の頃に一度だけあったことがある。その時は、地味で、ただ少し感じやすいところのある人物だと思ったくらいだった。

 彼は僕にこう言った(彼が僕に口を聞いたのは、たったのこの一回である)

「人は身勝手で、思い上がってしまう、どうしても。それは赤子に定められた使命で、そうして育ったものだから、みな後になって苦しむのさ。人間と触れ合わずに育った人間は一生を幸せに暮らすだろう。でも、人間の子どもはいかにも弱すぎて、生きることができない」

 その人物は、その後、海外へ飛んだっきり連絡がつかなくなった。あきが二十歳で結婚したあとの話だ。だから、二年前。彼は消えた。


「もう満足したよ」

「図書館?」

 とあき。

「そう。あと、これ。コウとメグの大学のために使って」

「こんなお金、どうして?」

 あきは封筒の中を見て目を丸くした。それから不信げに眉を曲げて聞いた。

 僕は簡単に説明した。

「師匠から、手紙か小説か何か、だと騙されてつかまされたんだ」

 あきは受け取った。

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