まどろみの、浜辺にて。

緑茶

まどろみの、浜辺にて。

「なんだっけほら、ブラジルの音楽」

 彼女の下で砂浜がはじけ、後ろにながれる。

 きらきらと舞う粒が反射して光の粒になって広がる。

 場所は夕焼け。やがてそれは、彼女の姿そのものを彩る。黄金の影に。

「ボサノバだろ」

「そう、それ。なんか、そういうのだよね、この景色」

「俺は、ゆったりしたのは好きじゃないな」

「そう? そしたら」

 そこで彼女は腕を引っ張る。

 ときが、とまる。

 彼女の顔が、すぐ間近にある。短い髪。少し焼けた肌、琥珀のような瞳、白い歯。

 全てが彼女だけになる。その後ろにある波も、水平線も、夕日も、全てが彼女にひざまずく。

「これから、好きにしたげるよ」

 ――俺と彼女は、波打ち際にまぎれて落ち込んだ。 


「あーあー、風邪引いちゃうよ」

 ぽたぽた垂れるしずくが砂にしみて、茶色になる。隣同士座って、波がぶつかって白くなるのを見る。

 セーラー服の下の水着が透けて肌にはりついている。しっとりしていて、なんだか別人みたいだ。

「でも、きれい」

 彼女は前を向く。

 夕日を見る――何もかもを包み込んで、明るく染め上げる金色。とても残酷だ。でも俺は知っている。

 そのすぐそばには藍色があって、その時がいつまでも続くわけでは――。

「このままずっと続けばいいのにな、この時間が」

「……ああ、そうだな」

 なのに彼女はそんなことを言う。

 俺は彼女の濡れたうなじが目に入り、ちぢれた髪のかかる耳が見える。

 そこに触れて、俺の息を少しでもかければ、この俺にも、肩を抱き寄せるぐらいの勇気が湧くのだろうか。

 だけど、俺に出来るのは、隣に居ることだけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 永遠に止揚される。

 そして……君には届かない。


 波が、もののけになって、覆い被さってきた。向こう側から、意思を持つかのように。

 俺は驚いて立ち上がって、後ずさった。少し濡れるだけで済んだ。

 だが、彼女は。

「――助け、」

 こちらに恐怖の表情を向けたまま、のみこまれた。

 そうして、奥へ、奥へ。あの水平線の向こうの谷底へ運び去られていく。


 俺は、それを見ている。ひとり砂浜に座って、彼女の肌が触れていない乾いたベージュの上で、見ている。

 彼女が溺れていくさまを。

「がぼ、がぼ、がぼ、たすけ、たす、たすけ――」

 何度も上に上がって、必死に訴える。だが、駄目だった。

 やがて彼女は喉の奥から妙な音を出して、腕をぴんと波の上に出して……。

 おおきな泡の連なりとともに、海の底へと、消えていった。


 それで終わりだった。

 俺が目を瞑ると、夕焼けは、海辺の凪は、全て消える。

 そうして、明瞭な、いやになるほどクリアな覚醒がやってくる。


 ――彼女が溺れるまでの時間が、少しずつ短くなっている。


 ただそれだけが、あの景色の中での、絶対的な真実。


 

 ぶあつくて不細工なゴーグルを頭の上に押し上げて、首の後ろからケーブルを切り離す。

 そうしてチェアのぎしぎしという音を聞いて、俺はここが砂浜なんかじゃなく、自分の部屋であることを自覚する。

 ひどく暗くて雑然とした、配線だらけの樹海。食べかけのパックフード。シワだらけのグラビア雑誌。

 それから、少し下をのぞけば見える、絶望的な、毛の生えた肉の塊。それが俺だ。現実での俺だ。

 俺は起き上がり、デスクの上に置かれた『冷蔵庫』のドアを開ける。配線のほとんどがそこに流れていて、ゴーグル自体もそこに接続されていた。

 ……赤い、ブヨブヨとした肉があった。

 開けたとたんに、冷気が俺の顔を殴った。

 そんな顔をするなよ、恨んでるのか、と一言。ひどくおかしい。紫の唇で笑ってみる。

 かつて、何かのかたちをしていたに違いないもの。でも、今となっては、何かわからない。俺以外には。

 肉に触れる。冷たい。十分に冷えている。

 ……だが。少し、溶けてきている。肉が。崩れてきている。

 『時間』が短かったのは、これが理由か。

 だったら、『氷』を買いに行かなきゃならないか。

 俺は舌打ちをして、心のなかで想像する、罵倒をぶつけてくる彼女の姿をしめだすためにドアをしめた。

 それからボロボロの外套を着込んで、外へ出る。


 酸性雨の降る灰色の街並みの中では、全てが死にかけていた。その雑然としたディテールの群れの真下で、目に痛い原色のネオンサインが踊る。

 炊き出しの湯気。ジャンク屋の親父の下品な顔。商売女たちの煙草の煙。世界はここにあり、ここで完結する。とどのつまりの灰色。

 俺の足音は雨音にかき消されて消えていくが、それを上書きするように、何人もの鉄の音が向こう側から響いて、かたわらを通り過ぎていく。

 傘の隙間から見る。

 レインコートさえしていない連中。神話の泥人形の上等版。サイボーグども。我が物顔でのし歩き、テナントの下で縮こまる人間たちと、ごく普通に会話する。

 今日は雨だね、ああそして明日も雨だね、まったくかなわないね――。

 ……俺は舌打ちをする。あんな連中と、よく平気で一緒にいられる。俺は違う、俺はスペシャルなんだ。

 誰かと、肩がぶつかる。

 振り返ると、眼窩をサイバーグラスと交換した男が舌打ちをした。そして、想像できうる限りの最小限の罵倒をぶつけ、去っていった。

 慣れている、その手の言葉には。

 ――あいつは変態だ。

 知ってる。

 ――意識をフラットに保てるサイボーグに頼ることをしない。

 知ってる。

 ――自分の肉体を改造することもしない。いつまでたっても、くさくてブヨブヨの、中年の肉体のまま。

 知ってる。

 ……店先へ。

 お前何言ってんだ、また夢想か、と店の陰気な親父。無視をして、欲しい物を要求する。

 親父は定価の二倍を定価と言い切るので、俺は型通りの交渉をして、なんとか定価通りで買い付ける。向こうはまた罵倒をぶつけてくるが、道行く連中よりは穏やかだ。

 ――お前は変わりもんだよ。数十年前ならともかく、そんな方法で夢を見るなんて。今なら、注文通りの光景を脳にダウンロードすりゃ……。

 違うんだ。俺のは本物なんだ。だって、本物が、ほんとうが、実際にあるんだから。なんなら見てみるか、俺の家に来て。

 ――勘弁してくれ。うちのカミさんは嫉妬深いんだ。そういうふうにプログラムされてる。

 歯のない顔で笑う、下品な親父。

 ……こいつはマシだ。

 小さくつぶやく。向こうは聞き返してきたが無視をして、店を去る。


 やっぱり、リアルは糞だ。少なくとも、俺の家の外に広がってるのは、リアルなんかじゃない。

 腹を殴られた。げえげえと嘔吐する。インスタント麺のかけらがはきだされる。すえたにおい。雨と混じって、たえがたい。

 旧世代のパンクスに、ギャングを混ぜ合わせたような格好をしたガキどもが、俺を路地裏で転倒させ、滅多打ちにする。

 いつもならこの時間には絡んでこないはずだったのだが。どうやらこいつらのボスが、電脳中毒で死んだらしい。ざまあない。

 当然ながらそんなことは言わない。俺は黙って耐えている。体の内側で『氷』は守っている。それが無事なら良かった。

 しばらくして、リンチが止む。ガキどものひとりが、小さく、蔑んだような口調で吐き捨てる。

 ――なんだよ、こいつ、オーガニックじゃねえか。時代遅れの猿だよ……。

 それで止まると思った。

 実際に、止まった。

 ――お前ら、何してるんだ。

 お決まりの声。ジメジメした場所に似つかわしくないほど、よく通る。俺の嫌いな声。だけど、無視も出来ない。

 ガキどもはそれを聞くと背筋を伸ばして、ぼろぼろになった俺を放置して、路地から逃げていく。

 ――大丈夫か、おい。

 手を差し伸べられる。綺麗な手だ。爪先には蛍光のLED装飾。電子時代のボヘミアンの証。

 何かを言いたかったが、思いつかない。頭が痛いから、したがって、一緒に起き上がる。

 ――随分とやられたな。

 俺を立たせたそいつは肩をすくめて、傘を差し出した。いやになるほど清潔な姿。

 それでいてこいつは、ハイスクール時代の友人だったという理由だけで、こんな路地にまで来る。イカれたやつだ。

 ……実際にそう言ってみると、そいつはキョトンとした顔をして、笑って言った。

 ――お前には負けるけどな。

 まったく、その通りだと思う。


 帰り道を歩く。傘が折れたから、代わりを差し出した、というだけの話。

 俺はこいつと一緒に居ると、死ぬほど自分が惨めになる。俺はこいつを、道路に突き飛ばしてやりたい。

 それがいつでも可能なのだ。だって、歩道側を歩いているのは、俺なのだから。

 でも、それをしない。俺の中にあるものが、それを防いでいる。忌々しかった。だけど、その感情を消せば、きっとあの夕焼けを見られない。

 だから俺は、こいつとの付き合いを続けている。

 灰色の景色が、流れていく。

 雑多で猥雑な者たちが、希望のない顔をして歩いていく。これが現実というなら、あんたはなんてものを提唱したんだ、シェイクスピア。

 ――結局俺たちは夢を見ているにすぎないのかな。

 つい、そんなことを言ってみた。

 カマをかけたつもりだった。反応によっては、俺をとことんみじめにさせるこいつを、突き飛ばすつもりだった。

 なのにこいつは、全然違うことを言う。

 ――良いんじゃないのか。その夢が楽しいなら、それで良いんだよ。

 そこで、嫌味の一つでも言えればいいのに。俺は俺の肉体があって俺だから、残念ながら、ほだされて、会話を続けてしまう。

 ――でも、その夢が……どんどん、短くなっているのなら。いずれ見れなくなる。そうなれば目に映るのは、みじめな現実だけだ。

 ――その惨めな現実の中に、俺は居るんだぜ。俺が居なかったら、お前、あそこで丸裸だったぞ。

 何も言えない。

 ――お前には、どっちが良いんだろうな。

 ――俺は……。

 ひとつの情景が、通り過ぎた。

 灰色の中に、一瞬だけ落とし込まれた色彩。

 古びたおもちゃ屋のショーケース。旧世代の遺物。

 そのガラスの前で、親子が居た。小さな子供が、並べられた割引のアナログ・フィギュアを見ている。

 ――どっちも同じ顔じゃない。

 ――いやだ、あの子がいいもん。あの子は他の子と違うもん。

 はたして、本当にそうだったのか。

 それを確かめる前に、俺達は信号をわたった。結局真相はわからないが、俺はこわくて、分からなくていい、と思った。


 街頭のモニターが、明日からの猛暑を予報している。



 俺はまた、あの黄金のまどろみの中に居る。

 小さく歌を歌いながら、浜辺の砂を蹴りながら、彼女はステップを踏んで歩いている。後ろにできるわだちはまるで、小鳥のけものみち。

 ちいさなさざなみがバックグラウンド・ミュージックとなって、その歌を支えている。

 薄く目を閉じて、たのしみながら歩いて、ささやくように歌う。

「なんだよ、ほんとにボサノバじゃないか」

 歌を遮られた彼女は少し怒った顔をして立ち止まり、足を広げて文句を言う。

 やっぱり、そんなふうなほうが、似合うな。セーラーの下は水着なんだろ。それなら、泳ぐほうが似合ってるよ。

「やっぱりそう思うかな。あたしも、そうだと思った」

 それから彼女は笑い、また、波打ち際に向けて駆け出す。俺は、その背中を見守る……。


 拭こうか、などとは言い出せない。

 彼女はひとりでに上がってきて、ひとりでに風にあたって身体をかわかす。俺は、彼女の身体を、柔らかなタオルでつつみ、撫でるのを想像した。

 恥ずかしくて死にたくなった。


 しばらく風に当たると、再び彼女が、前と似たようなことを言ってくる。

 いつも同じだ。だけどそれでいい、俺が求めているのは永遠なのだから。


「楽しいね、涼しいね。ずっとこうならいいのにな」

「そのうち秋になるよ。それから、空が藍色になる」

「でも、ここは違う。そうじゃないの」


 ああ、そうだ。そうだとも。

 俺は首肯。

 しようとした、肯定をしようとした。


 その時、俺の頭の中に、余計なものが入り込む。誰かはわからない。

 だけど、確かなのは、それが俺と彼女以外の誰かであることだった。

 俺は邪魔をされる。俺の幻想を、俺の夢想を。やめろ。そんなものを見せるな。

 ふざけるな。現実などクソだ、リアルなど――。


「どうしたの……」

 声をかけてきた、彼女。

 俺は目を開けて、すがるように。

 ――怖いんだ、俺は。いつかこの景色が、夕暮れが終わりを迎えるんじゃないかって。そうじゃないって言ってくれ、頼む。俺にはお前だけがリアルで――。


 だけど、そこで俺は、バカなことをしたと気付いた。


 俺から彼女に触れたことは、一度だってなかった。

 今、それをやった。そして。


「えう」


 妙な、甲高い声を出して、彼女は目をむいた。

 痛ましいほど不細工な顔になった。


 それから……その肉体が、積み木を突き崩すように、ドロドロに崩れた。

 俺の目の前で。俺が、触れたことで。


 夕暮れが終わる。

 藍色が、やってくる。


 俺は彼女の痕跡に触れようとする。

 だが、砂の間にのまれて消えていく。


 俺は頭をおさえて、狂おしいほどの叫びを上げる――。

 


 ――がした。

 ――声がした。

 俺を呼ぶ声だ。

 意識が戻る。頭が痛い。俺は顔を上げる。目を開ける。

 そこにはあいつが居た。

 俺を心配してるのか、と思った。

 だけどそのわりには、妙にやつの眉間の幅がせまかった。

 ゴーグルを押し上げる。

 ……鈍い痛みが頬に突き刺さる。

 俺は転げて、でっぷりとした音を出しながら転倒した。

 ――何をするんだ、と言おうとしたら。

 そいつは、『冷蔵庫』を開けた。

 そこには、肉。

 だけど……溶けかかっている。氷が足りないのか。いや、それ以上に。夏がやって来るのだ。本物の。ニュースを見ていないのか、バカか俺は。

 ――ああバカだよ、お前は大バカだ。同窓会の連絡が来たよ。俺には来た、お前には来てない。そして、あいつにも来てなかった。

 意味がわからない。それにどうして、この肉の……彼女の名前を。

 問おうとしても遮られて、先を続けられた。うるさいなあ。うるさいなあ。

 ――いくらでもあったはずだ。お前の思いを伝える方法なんて、今じゃクラウドにいくらでも。墳墓がカラだってのも掴んでる。お前がどういうルートでそいつの生身を手に入れたのかも。全部……。

 そこから先、そいつは何も言わなくなった。

 部屋の隅で座り込んで、俺を殴ったことを侘びた。

 それから……すまない、すまない、と言った。

 だけど同時に、お前を警察に突き出す、とも言った。冗談じゃなかった。

 ――俺がいるだろ。そんなに好きだったなら、どうして相談してくれなかった。休み時間、放課後。俺は助けてやれた。背中を押してやれた。

 泣き出した。なんてやつだ、狂ってるよお前は。こんな惨めなヤツのために、どうしてそこまで。

 ――友達だろうが。

 大嫌いだ、その言葉。俺にはリアルじゃない。

 ――リアルじゃなくたって、構わない。俺が見ているお前も、俺にとっての現実なんだ。

 もうどうしようもなかった。

 夕焼けの終わりがやって来ることを、俺は知った。

 どうしても駄目なのか、と聞いた。奴は黙って、首をふった。

 ――だけど、俺は忘れないからな。

 そんなの勝手だ。俺は許可した覚えがない。だから、今から、お前の気に入らないことをする。

 ――なんだよ、それ。

 夢が覚めるなら、せめて、彼女に、お別れを告げさせてくれ。


 俺はもう、そのつもりで動いていた。

 だから、開けっ放しでやるな、とか、配線が不安定だとか、そんな声は聞こえていなかった。

 俺には、彼女の声しか聞こえていない。

 彼女しか、彼女、彼女――。



「どうして…………」

 濡れたセーラーを木にぶら下げながらかわかして、砂浜の上で伸びをする。

 その彼女を捕まえて、俺は別れを切り出した。

 遠くの波は遠ざかり、ごうごうという海鳴りに変わりつつある。そして、木の葉の影の向う側にある橙には、藍色が侵食しつつある。

 風も冷たくなってきた。もう時間がない。

 俺は伝えた。

 クラスで一緒だった時。まだ、電子戦争が起きていなかった時。

 俺はいつも、風にそよぐ彼女の横顔を、窓際でまどろむ彼女の口の端の動きを。

 見続けていた。

 その笑顔を。そのまつげの輝きを。見続けていた。その思いは届かなかった。

 だけど今、かなった。この時間が永遠であることを願うほどに、俺は満たされた。

 ――しかし、もうこれで終わり。夢は、かなってしまえば終わる。だから終わり。これで終わりなんだよ。

「そんな、急過ぎるよ」

 俺だって、そう思う。だけど、いつかは終わらせなきゃならないんだ。もうバレた。それに、俺には、リアルと繋がるべき理由が、ほんのひとかけらだけ、出来てしまった。

 それを裏切るわけにはいかないんだ。

 だから、分かってくれ。頼む。

 頭は下げなかった。これはお願いでなく、祈りだったから。

 風が吹いている。沈黙が流れる。

 セーラーがそよいで、ふわりと浮かんで……遠くへ、水平線へ飛んでいく。

 だが、彼女は追いかけなかった。

 ……そのかわり。

「…………分かったよ。あなたが、そう言うなら。これで終わりにしよう」

 彼女はまっすぐ俺に笑顔を向けた。

 寂しそうで泣きそうだけど、それでも輝いて見えていた。

 俺にはそれがたまらなく愛おしくて、頭が真っ白になって。


「でも、絶対に忘れない」


「大好きだよ、――○○」


 彼女が俺に向けて言った名前が、俺の名前でないことも、一瞬分からなかった。




 あの時の笑顔も、気分を反映したスキップも。そのころころした声も。

 すべて。

 すべては、誰かに向けられていたものだった。

 それは、俺に向けて、じゃなかった。

 そう。俺じゃない。

 ずっと相手は、近くに居た。

 ――あいつだったんだ。俺のことを友達なんて言った。


 彼女は、俺を見ていなかった。

 見ていたのは、俺じゃなくて、あいつだったんだ。



 ――ああああ、ああああああああああああああああああ。

 のしかかって、首を絞める。

 ――痛いよ、苦しいよ。やめてよ、○○。

 ――黙れ、黙れ。その名を呼ぶな。

 ――いやだ、いやだ、こわいよ、○○。

 ――黙れ、黙れ、黙れ。


 ――でも、いいよ。

 ――○○になら、殺されても、あたし……。


 違う。

 ぶあつい指の下で、小さないのちが、うめきをあげて、刈り取られたのを、感じた。


 俺は谷底へ落ちていく、落ちていく。


 ――殺したのは、俺だ。

 夢を終わらせたのは、俺だ。


 藍色が、やってきた。

 俺にはもう、夕焼けが見えなくなる……。




 彼は友人の名を呼んだが、遅かった。

 悪辣な条件でジャックインした負荷により、装置がスパーク。○○だった肉体は破砕され、同時に、周囲の配線に火が回った。

 彼は繋がったままビクビクと痙攣し、失禁した。

 やがて、天井から崩壊していく。くずれおちていく。

 彼は逃げるしかなかった。彼には家族が居た。リアルがあった。

 だから彼は――伸ばした手の先で、友人がうずもれて消えていくのを、ただ見ることしか出来なかった。



 彼の友人は目覚めることはなかった。

 その脳髄だけが、病院の集合墓地――いわゆるコフィンに詰め込まれている。中毒者に対する、型通りの処置。

 科学的には『生きている』と言えるのだろうが、死んでいる、と言ったほうがふさわしいように思えた。


「これでいいのですか。彼の身内は居ない。あなたが延命を希望する理由など……」

「良いんです。このままあいつは、夢を見るべきなんだ……」

 何かを言いたげな医者を残して、彼は背中を向けて去っていく。


 病院を出ると、灰色の街に、寒い風が吹いていた。

 彼は襟を立てると、一度ぶるりと身体を震わせて……立ち止まる。


 そこで何かを考えようとしたが、うまくいかなかった。さして何も思い浮かびそうになかった。


 彼は気を取り直して歩き出し、雑踏の中に。

 どこまでも続く、モノクロの黄昏の中に、消えていった。

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まどろみの、浜辺にて。 緑茶 @wangd1

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