ドッペルサンターズ

おこげ

第1話


 時計の長針が真上を差すのを確認するや、僕はさっと踵を返して持ち場から離れた。

 足早にバックヤードを抜けながらタイムカードに退出時刻を刻み、更衣室でさっさと着替えを済ませる。


 出入り口へ向かうところで店長に呼び止められた。


 「お疲れさん。凄い大荷物だな」


 僕が両腕で抱えるものに眼をやりながら興味深そうに言った。


 僕は二つの紙バケツを抱え直して、


 「イヴですからね」


 では、と軽く会釈をすると、肘で扉を開けて店を出た。


 正面玄関の横に置かれた人形が眼に入った。店の創業者である氏の等身大人形で、全店舗に一体は設置されている。

 ベンチに腰を据える彼を視界に収めながら、歩道を駆けていく。


 僕がアルバイトとして勤めるのは世界的にも有名なフライドチキン専門店だ。勤務の間に抜かりなく仕込んでおいたチキンの山をバーレルと呼称される紙バケツに詰め込んで、僕は家路へと急ぐ。


 愛しき我が恋人の元へ。


 時刻は午後七時十五分、今夜は誰もが浮かれるクリスマスイヴ。だけど、外を歩く人はぽつぽつと少なく、カップルらしき人影は見当たらない。きっと屋内の小洒落たお店でディナーを楽しんでいるか、イルミネーションで煌めく駅前の巨大ツリーでも眺めているのだろう。肌と肌とで愛を確かめ合っているのかもしれない。


 ――降りそうだな。


 走りながら空を見上げた。

 生憎、天候は荒れ模様だ。空には星の海すらも恐れぬ黒雲が、地上を押し潰してしまいそうな重量感を持って広がり、その隙間からは雷鳴が低く唸っては、背筋に這うような薄ら寒さを呼び込んでいた。


 そして皮肉にも僕の不安に応じて、直後に雨が降りだした。まだ小雨だが帰宅するまでに本腰を入れて降ってきそうな気配だ。


 一度、近くの庇の下で脚を止めた。紙バケツを置き、背負っていたリュックから折り畳み傘を取り出す。バケツを入れた袋へ雨が入らないように注意しながら傘を開いて再び駆けだした。持ち手が安定せず、傘はぐらぐらと揺れる。


 傘は素晴らしい。雨や紫外線を防ぐだけじゃなく、見たくないもの、聞きたくないもの、あらゆるものを遠ざけてくれる。どんよりと沈んだ景色、透明ガラスの奥で笑い合う男と女、町中に流れるクリスマスソング、葛藤する僕の心、そして僕の帰宅を待つ彼女――。


 いや、正確には違う。彼女が本当に待っているのは僕が手に持つこの紙バケツの中身だ。この中にはケーキにパイ、それから見るだけでも胃がもたれるほどのチキンの山が詰まっているわけだけど……これらは全て彼女が食べるものだ。

 今日一日で。おそらく完食まで三十分とて掛からないだろう。


 ああそうさ、僕の愛しき恋人はどうしようもないぽっちゃり女だ。働かないし家事もしない、そもそもまともに動こうとすらしない。食べては寝てばっかりの、エアコンと炬燵を占拠するジュゴンみたいな体型の彼女。食事中はおとなしいが、いびきは中古掃除機の電源を入れたよう。眼が覚めれば「お腹すいた」「なんでいるの?」「この役立たず」の三拍子。彼女が触れたものは全て、指脂ししが付着してぬめぬめと滑り、彼女の癇癪かんしゃくによって僕のスマホは度々破壊されてきた。ちなみに今は十代目、もうじき歴代機種の数と並んでしまう。


 今日もバイトのため家を出るとき、リビングから玄関に向けて「終わったら真っ直ぐ帰ってきて!ダッシュでね♡」と顔も見せずにお願いされた。あと「遅れたら分かってるよね?」とも。


 その度に頭を過ぎるのはかつての彼女の姿。


 今や三度の飯より七度の満腹を愛するぼてぼて彼女だけれど、初めからそうだったわけじゃない。出会った頃の彼女は通りを歩けば誰もが視線を奪われるほどの美女だった。それもそのはず、彼女は若い女の子たちが愛読するファッション雑誌の新人モデルだったのだ。

 そして僕は立派な俳優になることを夢見て上京した役者の卵。僕たちの始まりは共演した撮影現場からだった。


 それから幾度か仕事で顔を合わせることがあり、どちらからともなく話をしてみれば互いに意気投合。お茶をする機会も増えて、いつしか僕らは付き合うことになった。

 付き合いたての頃はとても楽しかった。彼女はいつも笑っていて、自分の夢のために一生懸命にストイックで、だけど気配りもよくできるもんだから人望が厚く、周りからは期待と信頼を寄せられていた。僕の方も背中を後押しされてるみたいな気がして沢山の勇気をもらっていた。強くて優しい彼女を見るたび、ますます惹かれていった。


 だけど僕らの関係は唐突に一転してしまう。


 やがて現在も住まうマンションで同居を始めた僕たち。まるで僕の行動を先読みするかのように、彼女は家のことを何でもそつなくこなしてくれていた。


 だがその親切心に甘えきっていた僕がいけなかったのだろう。同居後、暫くすると彼女は体調を崩した。

 いや、肉体の方じゃない。彼女は家でも外でも休むことなく全力で人生をひた走ってはきたが、怪我はなく風邪も引かず、ひいては文句のひと言もなかった。仕事だって順風満帆、彼女の人気はうなぎ登りで、もうすぐ雑誌の上位トップモデルに手が届くところまで来ていた。そんな大事な時期に、彼女は部屋から出てこられなくなってしまったのだ。


 真面目すぎた。頑張りすぎた。一生懸命にあろうと望みすぎた。

 誰にも頼らず、逆に自分の力で周りを幸せにしたいという想いが彼女の心を傷付けてしまっていたのだ。本人もそのことにまったく気付かず、時間に追われる日々が何よりもの幸福だと錯覚し、頼られる自分こそに価値があるのだと信じ込み、そして期待に応えなければという強迫観念が、そんな純粋な心を押し潰してしまった……。


 僕は彼女を介抱し続けた。彼女がこんな風になったのは紛れもなく僕のせいだったからだ。出会う前から全身全霊に生きてきた彼女だが、それでもちゃんと心をコントロール出来ていたのだ。そこに僕が加わり同居したことで彼女の心はストレスを抑制できなくなったのだろう。


 彼女が部屋から出てくるようになったのは同居から半年してからのことだった。僕はそれでも充分早く出てきてくれたと思ってる。心の傷は根治は出来ないうえにそう簡単に癒えてはくれない。十年経っても出てこられない人だって多いと聞くし、中にはそのまま部屋で生涯を終える人すらも……。

 半年ぶりの彼女の姿は――いや、ここで語るのはよそう。あまりに辛くて思い出すのも躊躇ためらわれる。彼女は僕以上に苦しかったはずだし、誰も喜ばない過去を振り返るのは不要だ。

 風呂に入りたがったから僕はすぐに支度を始めた。体力的にも非常に心配だったので一緒に入ることにした。小さな浴槽に二人で浸かると、彼女は力なく僕の胸に背中を預けた。この小さな背中にいったいどれほどの意思を背負っていたのだろう――そう思うとなんだか泣きそうになって、僕は顔に手を当てた。

 当然、彼女への仕事のオファーはなくなっていた。この世界じゃブームの廃れは速い。使えない商品人間は簡単に切り捨てられ、空いたポジションにはすぐに新しいものが収まる。ファンですら呆気なく見限り、一年もしないうちに記憶から抹消される。

 人生を賭けて突き進んだ彼女の夢は幕を閉じた。僕というくだらない障害によって――。


 部屋から出てきた彼女だったが、外出だけは頑なに拒んでいた。結局、部屋とリビングを行き来する生活に変化しただけだった。

 そして、そんな閉鎖的な暮らしの彼女にとって唯一の楽しみだったのが、この僕――ではなくて、僕が夕食として買ってくるフライドチキンだった。

 食欲は人の心を直接的に、簡易的に、そして効果的に揺さぶる。彼女はチキンを口にする時だけ、かつての耀きをその瞳に甦らせていた。


 僕は堪らなく嬉しかった。どんな理由であれ、微笑む彼女を見られるならあとはどうでも良かった。僕は毎日のようにチキンを持ち帰ってきては彼女と二人で食べた。彼女に惹かれて、彼女と付き合って、彼女を傷付けてしまった僕だけど、彼女の笑顔を見るたびに一生一緒にいようと思えた。


 そんな日々が続いたある日、彼女は僕に話し掛けてきた。半年ぶりに部屋を出てきて風呂に入りたいと言った、あの日以来……僕は黙って彼女の声を聞いた。一言一句聞き逃すまいと。


 彼女は細々とした声で「もっと食べたい」とお願いした。僕はその瞬間、涙が溢れてきて、うんうんと頷きながら家を飛び出した。

 やがてバケツいっぱいのチキンを買ってきた僕。薄闇に染まっていた彼女の双眸には星が生まれた。



 まぁ、その結果が今なわけだけど。


 彼女は日を追う毎にみるみる太っていった。先日、バレないように体脂肪計で測ってみた。読モ時代に四十五キロだった体重は、わずか三ヶ月のうちに八十二キロになっていて驚いた。体脂肪率を確認したときには身震いまでした。彼女はまだまだ太る。この重量ぽっちゃり界において彼女はルーキーで成長期、金の卵のようなものだ。


 癇癪が始まったのもちょうどその時。つまり僕のスマホはこの短期間で何度も世代交代を余儀なくされていたわけ。原因はいろいろあるんだけろうけど、一番はきっと僕が役者の夢を今でも諦めていないことだと思う。自分は全てを失ったというのに、対する僕は彼女を支えようと決意しつつも、定職に就かずにアルバイトでの生活を続けている。食費は何倍にも膨れ上がり、貯金を崩しながら現状を保っている。



 長く感傷に浸りすぎたな。少し反省。

 手が塞がって涙を拭うことの出来ない僕は目一杯に鼻を啜った。ありがとう傘、僕の情けない姿を隠してくれて。


 雨はいつしか豪雨と呼べるまでに強さを増していた。傘を激しく叩きつける弾丸のような雨。横切る自動車がアスファルトに溢れた水溜まりを跳ね上げた。慌てて僕は背中でそれを受け止める。

 どんな姿になろうと彼女が僕の愛しき人であることに変わりはない。恋人が望むことなら、僕は何だって乗り越えてみせるさ。そう、雨に撃たれようが風に晒されようが、雪に凍えようが雷に射貫かれようが――。



 ダアアァァァァァン。



 大地をめくるような轟音が激しい閃光と共に鳴り響いた。


 瞬間、僕の身体は硬直する。

 雷が頭上に落ちたのだ。


 全身を縛られたような、筋繊維の一束一束をクリップで摘ままれたような感覚。鼓膜をつんざき破壊し、僕から音を奪った。


 ――あぁ、死ぬのか、僕……。


 死というワードがこうも容易く頭に浮かぶ自分はどうかと思った。そもそも雷が歩行者(厳密に言えば走行者だが)に落ちるなんてこと、そうあるものじゃない。ましてや背の高いビル群が建ち並ぶ市街地なのだから傘を差していたくらいで。


 ふいに彼女の顔が頭をぎった。もう会えなくなると分かると、人は後悔の念でいっぱいになるらしい。もっと真摯に向き合えば良かった。長らく言わなくなっていた愛の言葉、どうして口に出来なかったんだろう。どれほど望んでもそんな簡単なことすら、もう叶わないのが口惜しい。


 ――あぁ、一目で良いから最後に彼女に会いたい……。


 悔しさでいっぱいだった僕。だけどそこでようやくこの不可解で奇天烈な状況に驚いた。


 ――なんでこんなに冷静なんだ?


 痛みも痺れもなく、身体は自由を失っているはずなのに、意識ははっきりとしていて……僕は僕自身を客観視していた。心だけが、魂だけが肉体との繋がりを断たれたみたいに――地面に倒れ伏せようとしている自分を感受していた。

 走馬燈?臨死体験?つたない不慣れな思考が断片的に、パズルみたいに流れる。そして――。



 ――?


 気が付くと僕はどこかに腰掛けていた。

 いつの間に……居場所を把握しようと首を回そうとした。


 ――っ!?えっ?ええっ?!


 混乱した。何故だか分からないが、首がぴくりとも動かない。いや、首だけじゃなく眼も、口も、だ。雨の音が聞こえるから聴覚はしっかりしている。だけど鼻は、呼吸をしている実感がない。辺りの匂いははっきりと感じられるが、空気を吸い込むという生きるための基本行為ができない。なのに息苦しさは皆無だった。

 両腕は肘を曲げて胸に寄せているらしい。らしいというのは僕自身も曖昧だからだ。痛覚と言うべきかそれとも触覚というべきか、とにかく麻酔を受けたみたいに全身のあらゆる感覚情報が希薄になっている。最も大きく感じられるのは自分の意思とは関係なく――拘束されているかのような、そんな窮屈さだ。そしてそれが道理と言わんばかりにまったく動かせない。


 為す術もなく、強制的に正面を向かされていた僕は、ふと道路を隔てた先にあるクレープ屋に気付いた。いや、存在には最初から気付いていたけど続けざまの理不尽に平静さを失っていたから、つい頭の隅に追いやっていた。

 あの店はよく知っている。毎日のように眼にしていたから。ガラス越しに、建物内から、レジの前で――あそこはバイト先の向かいにある店だ。


 ――ということは。


 落ち着きを取り戻した途端、すっと身体が軽くなるのを感じた。相変わらず腕や首は微動だにしないものの、脚にだけは自由が戻っている。僕は立ち上がり、それから振り返った。


 夜をともす街灯りが透明な壁に僕の姿を映し出す。

 白のスーツに黒の蝶ネクタイ、色の抜けた髪に眉に髭、そこにいる誰かに語り掛けるかのように開かれた手のひら、そして歯を覗かせ目尻に皺を蓄えた溢れんばかりの笑顔――氏が眼の前に立っていた。


 ――人形?僕が?いったいどうして……。


 ふいに先ほどの出来事を思い出した。雷に打たれて気付いたらこうなっていた。やっぱり僕はあの時死んでいたんだ。だけど雷か、それとも別の何かが僕の意識だけをこの人形に押し込め、いびつながらも僕を生かした。奇跡のようなもので――。


 〈奇跡〉、そう考えれば明白だった。その何かは、誰かは。


 ――だって今夜はイヴだから。


 これは悪意や憎悪によるものなんかじゃない。サンタからのプレゼントだ、人生最後のチャンス。そう確信した。

 きっとサンタは死にゆくさなかで願った僕の望みを聞いてくれていたのだ。感謝します、サンタさん。信仰心のない僕にすら慈悲をくださるなんて!


 自分でも不思議なくらいに思考がクリアだった。こんな説明の付けようがない摩訶不思議な状況のなかでもすんなりと考えが纏まっていく。妄信だろうが洗脳だろうが、一つの信仰に突き進めば余計なことで悩まされることはない。僕は今ある僕を貫くことができる。


 ただ愛する恋人の元へ突っ走るのだ!


 合成樹脂でできた身体で僕は駆け出す。指先を動かす繊細さも、脚を広げたり躍ったりする大胆さも無理だけれど、走ることは可能だった。背筋を伸ばして脇を締め膝を高く上げる僕は、美しいフォームで家路へと急いだ。


 激しさを増した雨が僕を襲う。だが今の僕は傘を差さずともへっちゃらだ。髪が顔に貼り付くことも、視界を遮ることも、体温を奪うこともない。流す涙も叫ぶ声も何も。


 道中、大きなものが転がっているのを見つけた。かつての僕だ。焦げた匂いを漂わせてうつ伏せになって倒れている。傍には彼女への土産の中身を床にぶちまけている。

 ああ、自分が嘆かわしい。恋人の楽しみを台無しにするなんて。もはや過去の僕に送るのは蔑みの心だけだ。俯瞰ふかんすればよく分かる、なんて情けない男だったんだ。


 僕は無様な亡骸となった僕を素通りし、先へと急いだ。


 広い交差点に出た。信号の赤いランプが立ち塞がり、僕は一旦脚を止めた。周囲には人影はない。そもそも、ここまで誰ともすれ違わなかった。大雨だし仕方ないとはいえ、これほど極端なのは珍しい。これもきっとサンタのおかげだろう。疾走する人形という題目でネットが騒ぎにならなくて済む。

 もどかしさが僕に纏わり付く。この僅かな時間さえも僕と彼女を隔てる壁となる。


 信号が青に変わった。浅瀬のように水が流れる大通りを急いで横断する。片側二車線を渡り、中央の島を越え、対岸まであと少しというところで僕の脚は崩れた。


 元は樹脂を固めたものだ。サンタの奇跡をもってしても耐久性には限界があったらしい。膝から下が砕けると、残りの半身(つまり僕の意識)はそのままアスファルトに落ちていく。


 ――っ!?


 またベンチに座っていた。

 だけどここはいつもの勤務先じゃない、向かいにある建物や周辺の景色が異なっている。

 立ち上がり近くの電信柱で住所を調べる。僕が通っている店舗から一番近くに位置するFC《フランチャイズチェーン》店のようだ。

 どうやら人形の身体にはリミットがあるみたいだ。一体一体に耐久度があって、付近の店舗まで辿り着くと人形は砕け、別の人形に意識が移る。その証拠にすぐ側には先ほど渡っていた大通りがあり、そこに人形の残骸が横たわっていた。

 つまり僕の目的である恋人に会うためには、まず目標として近場の氏がいる場所を目指す必要があるというわけだ。奇跡の主がそう僕に語り掛けてくる気がした。


 そうと分かればただがむしゃらに走るだけではいけない。近隣店舗の位置を把握しなければ。僕は懸命に周辺地図を頭に叩き込み、目標地点を定めて再び走り出した。


 さすが大手ファストフード店、短い距離で既に二体もの人形を粉砕する事となった。本物の肉体はとっくについえているのでいくら走ろうが疲労感を感じない――感じないのだが、なんだか空疎というか、人形を移り変わる度に意識が少しずつ抜けていくような感覚があった。どうやら僕のガソリン永久タダというわけではなさそうだ。


 マンションまであと少しだった。あとはもう一度だけ人形を交換すれば辿り着ける。


 だがどうしたことか。僕は頭を抱えたい衝動に駆られた(残念ながら抱える腕はここにはない)。

 眼前では道が二手に分かれている。ここまで進んできた表通りと、軽自動車が一台通れるくらいの脇道。両者にはともに別々の店舗がある。だがしかし、どっちがここから近い場所にあるのかが分からない。究極の選択を迫られていた。


 背後で雷鳴が轟いた。焦る気持ちを掻き立てる。

 もしも道を誤れば……?中間地点である店に辿り着く前にこの身体が崩れたならば、きっとそこで終わりだ。これまでの人形と同じく憐れな瓦礫として幕を閉ざす事になるだろう。


 彼女の笑顔が頭に浮かんだ。もう一度だけあの顔が見たい。


 僕は止めた脚を再び進めた。真っ直ぐに、表通りを走った。マンションまではこっちの方が近い。彼女を思い、すぐにでも会いたいという感情が僕を直進させる。彼女との未来が脇道のあんな細い路地に続くはずがない。

 そんな僕の決断を応援するように激しく降りしきっていた雨は少しずつ弱まってきていた。視線の奥では空を覆っていた暗雲が遠退いていく。世界は僕の味方に見えた。


 そう喜んだのも束の間、突如として僕の心は打ち砕かれる事となる。

 脚が崩壊したのだ。

 呆気なく地面に倒れ伏す僕。乾いた音だけが鳴り、意識が移動する気配はない。


 ――まさか道を間違えたというのかっ!?そんなっ、こんなところで!


 僕は泣きたい衝動に駆られた(残念ながら涙を流す目玉はここにはない)。声を出して叫びたかった(残念ながら――)。せっかくのチャンスを棒に振るというか。奇跡を起こしてくれたサンタの恩を無駄にし、このまま冬空の下で魂を沈めてしまうのか。だが叱咤したところで、僕の身体はもはや芋虫のように這うことすらできない。命運が尽きたのだ。


 現実を受け入れてしまえば案外諦められたりするものだ。彼女は昔とは随分と変わってしまった。食べることしか生き甲斐を得られない恋人に何を必死になる必要がある?身体を粉にしてまで会いに行く意味は?僕が原因なんて証拠はどこにもない。もしかしたら全然関係がないところで彼女の心が折れてしまっただけなのかもしれない。あの美しかった僕の恋人はどこにもいないんだ――。


 一生懸命に努力した僕を褒めよう。何も報われることがなくても、僕だけが僕を褒めてやろう。僕は頑張った。夢を棄てきれなくてもいい、僕は薄情な奴なんかじゃない。僕の人生は僕が主人公だ。自分を一番に考えろ。他人になんか構うな。ああそうだ、僕は最低な偽善者だった――。


 心の醜さ弱さを吐露していたその時、ひらひらと白いものが眼の前に落ちてきて地面へと消えた。もはや空を眺めることすら叶わない僕だったが、それが雪であることに疑いはなかった。


 『イヴは大切な人と雪を見たい』


 昨年の寒い冬の日に彼女がそんな事を言っていたのを思いだした。まだ付き合う前の他愛のない会話のなかでだった。


 僕は既に二度も彼女を傷付けてきた。一度目はストレスで塞ぎ込んだとき、二度目は食事管理の至らなさでモデル引退を余儀なくされたとき。どちらも僕が拘わらなければ起こらなかったことだ。そして今、僕は彼女の傍からいなくなろうとしている。三度目の傷を付けるのだ、ならば最後に会って話がしたい。声が出せなくても、想いを届けたい。そしてイヴに降る雪を彼女と一緒に。だから僕は願う――。


 動いてくれと。

 強く祈った。

 サンタさん、もう一度だけ力を貸してほしい。お願いします……。


 彼女の願いを叶えるために――。


 突然、視界を仄かな灯りが覆った。キャンドルのような優しい炎に包まれて、朧気な人形の身体はぬくもりを帯びていき、意識が微睡む。


 ――大丈夫だ。まだ走れる。


 ベンチを立ち、先を急いだ。

 僕は願い、彼女を思い、奇跡が起きた。その奇跡に希望を乗せて僕は走る。彼女を悲しみから救いかつての笑顔を取り戻す希望を。

 雲は失せ、夜空を飾る星々は人工の光に負けないくらいに強く輝き、舞い降りる粉雪に勇気を貰い受けた。途中、ショーウィンドウに映る自分に笑みがこぼれる。頭の上には赤と白の三角帽子が乗せられていた。サンタの粋な計らいに感謝する。


 マンションに着き、エントランスへ向かう。オートロックの扉が勝手に開いたことにもはや驚くことはなかった。エレベーターは避け、非常階段を駆け上がる。願いはただ一つ。彼女の笑顔。その為だけにひたすら走る。五階の廊下を突き抜け、端の部屋のチャイムを鳴らす。動かない腕に代わって何度も額を打ちつける。


 どうせイヴに訪ねるのは住人の僕だけ。それを理解しているからか、チャイムを鳴らす僕に疑問も持たず彼女は扉を開けた。


 「きゃぁぁあっ!?」


 僕の帰宅に歓喜し彼女は走り出した。僕はその背中を追ってリビングへと向かう。


 会えた喜び、愛する喜び、彼女への想いを大いに込めて笑顔を送る。僕の気持ちを受けて、彼女は部屋の隅で感動に震えていた。


 愛しき恋人をこの腕で抱きしめたい衝動に駆られる(残念――)。一歩、また一歩と嬉しさに声も出せずにいる彼女へ迫る。


 ――雪だ。初雪だ。ホワイトクリスマスだ。一緒に見よう、さあベランダに出よう。


 ベランダの方へ身体を向け、また彼女の方に向き直る。すると彼女はいつの間にか金属バットを手に持っていた。モデル時代に護身用として購入した変質者撃退バットを強く握りしめると、ドスの利いた声を吐きながら力一杯にフルスイングした。


 刹那、僕は宙空を飛んでいた。


 ジャストミートされた僕の頭部はコルク栓を抜いたような音を立てた。首元を離れ、窓をぶち破り、風を切りながらまたたくく星を目指して飛翔していく。月明かりを浴びて夜空の海を泳いでいると、遠眼にトナカイを連れた老人が見えた。大きなソリに積んだ白い袋から大量の雪を地上に降らせている。老人は僕に微笑ましく手を振っていた。


 やがて緩やかに速度を落とし、ボールは下降を始めた。明滅する夜の街へと帰省する様はまるで流れ星。僕は駅前のツリーに激突した。




 「こうしてまた多くの方から声援を頂ける人間になれたのも、彼のおかげです。人生のドン底にいた私を見棄てずにずっと支えてくれた彼への感謝は永遠です――」


 報道陣の質問にテレビのなかの彼女は笑顔で受け答えしていた。


 あれから三年。彼女は僕の死をバネに前へと踏み出した。減量に励み努力を重ねて劇的な大変身を遂げた彼女は、苦難の過去を利に転換させて、タレントとして再出発を果たした。【転落人生から華々しい復活を遂げた元読者モデル】という経歴は世間の注目を深く集め、お茶の間の人気者として大成したのだった。


 「彼がいなければ今の私はありませんでした。これからは彼との思い出を胸にこの人と三人で生きていきます」


 そう言って彼女は隣に立つ長身の強面男を見上げた。男も彼女と眼を合わせ口許を和らげる。二人の姿に報道陣から祝いの言葉が飛び交い、カメラのフラッシュが無数に焚かれていた。


 僕はそんな結婚報道をダンボールのなかで観ていた。ツリーに突っ込んだ僕は装飾期間が過ぎると他のオーナメントと一緒に回収され、町役場の倉庫に押し込められた。そして毎年クリスマスが近付くと駅前の大樹に飾り付けられている。今年もその季節がやって来て、職員が準備に取り掛かっていた。


 サンタの奇跡はまだ解けていない。僕の意識はいつ、ここから抜け出せるのだろうか。

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ドッペルサンターズ おこげ @o_koge

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