エピローグ
授業の合間の休み時間、躍斗は深い息をつく。
昨日は色々あり過ぎて少し疲れていた。
授業なんてものは、ただ真面目に聞いているだけでそこそこの成績を維持できるものなのだが、今日はそれも辛い。
あの後、真遊海に拾われて基地を後にした。
問題の件が片付いたので真遊海の謹慎も解け、今まで通りに戻った。
対応が迅速だったのは、全て想定内だったからだ。
真遊海の謹慎もシナリオの一端に過ぎない。
水無月の私設軍の中にも不満を抱えて不穏な動きをしている者がいる事は分かっていたので、この件に乗じて不穏分子もろとも叩き潰す。
神無月にも打撃を与えれば一石二鳥。
結局はいけすかない男の手の平の上だったのだと真遊海は吐き捨てていたが、躍斗には家の事情までは分からない。
拓馬は最後まで力が戻らないかと試していたが、その兆候はなさそうだった。
世界にとってはそれが当たり前なのだから、何か切っ掛けでもない限り戻る事はないのだろう。
意気消沈の様子だったが、別れる時には元気を取り戻し、いつか戻る事を信じてボイスパーカッションに励むのだと言っていた。
真遊海はその足で先に帰った美空の元へお金を返しに行くと言っていた。
借りを作っておくのは本意ではない。色を付けずに借りた分だけをきっちりと返す。そこに手心も遠慮もないと息巻いていたが、
躍斗には何に対する意気込みなのか分からなかった。
桐谷は調査所の代表を辞任し、一から人間を磨き直すと真っ当な仕事に移ったと後に風の噂で聞く事になる。
躍斗は何気に携帯を取り出す。
もう授業中に誤って鳴らす事もないので、あえて隠す必要もない。
一応休み時間ごとにメールの着信を確認するのが習慣になった。
もっとも送ってくるのは真遊海しかいない。
先程も今日の夕方にお茶でもどうかというメールが送られてきた。
未だに躍斗の事をつけ狙う、気の置けない相手ではある。
しかし先の一件では協力もしてくれたので、そのくらいなら別にいいかと当たり障りのない返信をしておいた。
水無月の動向を把握しておくのも悪くないと思っている。
「君は数学と物理は標準以上だが、歴史は壊滅的だねぇ。記憶力が特別悪いというわけでもないのに、全く持って不思議だ」
突然声を掛けられて周りを見回す。
目の前にはどうでもいい印象の男レッドがいたが、教室内には誰も居なくなっていた。
「狭間!? 鏡を介さないと移動できないはずじゃ……」
「鏡なんて、案外どこにでもあるもんだよ」
レッドの言葉に、躍斗は手の中を見る。確かにスリープ状態の携帯の画面には物が映る。
だがキュオは手鏡などで互いの世界は見られないと言っていた。
「普通はね。だがそれは同じ場所に同じ物がある狭間を特定できないだけだ。それも物事の一面に過ぎない」
レッドは教師のように指を立てて語り始める。
「音楽のセンスも皆無といっていい。だから一度はクイン・カルテットに負けたのだろうかね」
ほっといてくれ、と素っ気なく言う。
「世界の数式は見つかったのか?」
「いずれはね。でも今はまださ」
「見つかるものなのか?」
辿り着く事が無になる事なら、それは永遠に辿り着けない事になる。いつかレッドが床に向けて落としたキャップのように。
「限りなく無に近い存在になる……か。まだ僕には知る由もないが、限りなく無に近づいた者ならいるよ」
躍斗は顔を上げる。
「それは?」
「レイコさんだよ」
限りなくゼロに近い存在。だから零子なのだと。
あのゾンビが存在する所は自分達とは違う。互いに理解する事はない。理解した時、それは無に帰す事だと言う。
「何か用があって来たのか?」
「用があるのは君ではないのか?」
躍斗は少し考え、思い当たる事を言ってみた。
「キュオが、アンタに会いたいそうだ。元の体に戻る方法、知ってるんじゃないのか?」
躍斗としては今のキュオに慣れてしまって、十分可愛いのだが、本人は納得していない。
「残念だが僕には分からない。……それが出来るのは、おそらく君だけだ」
そんな事を言われても、自分にも分らない、と躍斗は口を曲げる。
「しかし三角関数にZ軸が交わると、複雑さが飛躍的に増してしまうと思うがね」
躍斗は意味を捉えかねて目を瞬かせる。
「いや、気にしないでくれたまえ」
その言葉の通り気にしない事にする。
なら用はない。済んだなら現世に戻してくれ、と言い終わる頃には元の世界に戻っていた。
マイペースというか身勝手と言うか、と心の中でぶつくさ文句を言っていると、
「ねえ」
突然後ろから声を掛けられ、わあっと驚いて携帯を落としそうになる。
「どうしたの? 何も映ってない携帯眺めて」
見ると美空がいた。
「いや。寝癖が無いか、鏡の代わりにして見てたんだ」
「あれ? 知らないの? スマホは鏡の代わりになるよ」
美空は後ろから手を伸ばし、携帯を操作すると、携帯の画面は鏡のように左右が逆転した画像が表示された。
へえ、前面にもカメラがついていて……、と感心した所で背後にいる人影にギョッとする。
それは白い肌に黒目の無い、目から口から赤い液体を流した女性の姿。
はっと背後を振り返るとそこには美空しかいない。
携帯に目を戻すと、そこには美空が映っていた。
気のせいか? と何気に後ろの方を見るがやはり怪しい者はいない。
どうかした? と首をかしげる美空に、
「い、いや。結構使いこなしたつもりだったのに、まだまだ知らない機能があるんだなって……」
美空はくすっと笑うとウインクして、
「詰めが甘いよ」
と言うと自分の席へと戻って行った。
まだ高鳴る心臓を落ち着かせ、汗を拭いて前に向き直る。
釈然としないながらも深呼吸して、次の授業開始のチャイムを聞いた。
ワールドオブザーバー2 ~観測者~ 九里方 兼人 @crikat-kengine
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