テオティワカンに還る

さかな

テオティワカンに還る

 そのバスは右車線を荒々しく走行していた。

 車内は蒸し暑い。それでも外は砂埃が巻き上がっていて、とても窓を開ける気にはなれなかった。


 メキシコシティからバスで一時間、私はたった一人でテオティワカン遺跡に向かっている。隣の空席に無意識に目がいき、勝手に罪悪感を覚える。いつも一緒にいたあの人はいない。婚約指輪も、失くしたくないからと日本に置いてきた。

 私は足元のトートバッグから鉢に植えられた大きなサボテンを取り出して、膝に乗せた。


――大事な人の形見で……連れて行きたいんです。


 空港の検疫所でそう説明する私のことを、検疫官はきっと変な女だと思っただろう。

 このサボテンは先輩と私が大事に育てていたものだった。

 新入社員である私の教育係だった先輩は、陽気でおしゃべりで、月みたいにひっそりとした性格の私とは正反対の、太陽みたいな人だった。


「マヤ文明とか、好きなんです。一度メキシコに行ってみたくて」


 何かの話の流れでそんなことを口にした次の日、先輩は職場に大きなサボテンを持ってきた。俺の家にあったでっかいサボテン、今日から二人で育てよう、なんて楽しそうに笑って。

 それから毎日交代でサボテンの世話をした。鉢の植え替えもしたりして、私たちはこの子を大切に育てた。

 でも、育っていたのはサボテンだけじゃなかった。

 いつの間にか、私は昼も夜も関係なく先輩のことを考えるようになってしまっていた。

 それは先輩が不慮の事故で亡くなってからも途切れることなく続いている。


 バスはテオティワカン遺跡の目の前に停車した。

 今私の眼前には、通りを挟んで大きなピラミッドが二つそびえ立っている。どちらもアリが列をなすように、頂上に向かって人々が階段を登っていた。


 あの夜の出来事を――先輩が私を抱きしめた日のことを今でも時折思い出してしまうのは、心の中に後悔が残っているからだろうか。


 先輩も同じ気持ちでしたか?

 私と、同じ……。

 あの時先輩が言いかけた言葉を、私は今でも探してしまいます。


 答えを追い求めるように、私は目の前の月のピラミッドに登った。傾斜はあるが思ったほどきつくなく、すぐに頂上まで辿り着いた。

 そこにも観光客はたくさんいた。にぎわう人混みの間を縫って端までいくと、不意に目の前がひらけた。


「わ……」


 視界いっぱいに、目が眩むほどの青空が広がっていた。左右に奥に、それは永遠に続いているように思えた。その下に広がる大地もまた空と同じように、平べったい火山のふもとまで果てなく続いている。


 初めて目にした景色なのに、その時私は、なぜか実家の近くの海を思い出していた。異国の大地は無限に広がる大海原に少しだけ似ている。つらいことや悲しいことがあった時にはよくあの海を眺めたものだ。


 ここの人たちも、この景色を見て自分の悩みはちっぽけだなんて思ったりするのだろうか。いや、くよくよ悩んだりなどしないのかもしれない。ここは太陽の国だから。


 あの日の夜、どちらかが線の先へ踏み込んでいたら、何かが変わっていただろうか。理性を捨てきれていたら。もっと早くに出会っていたら。

 熱情に呑み込まれそうになっていた二人を、けれど私の薬指に輝く婚約指輪が冷静にさせた。

 拭いようのない裏切りの証を残さなくてよかったと、今でも安堵している自分がいる。それはきっともうこの世に先輩がいないからで、そんな自分が卑劣で浅ましいと思う。罪滅ぼしのためにこんなことをしているのも最低だと思う。


 でも、そうしないとこの先歩いていける自信がなかった。



 私はピラミッドを降り、近くの案内所に立ち寄った。

 そこにいた老婆には英語が通じなかったので、用意しておいたスマホの通訳アプリを使って話しかけた。


『大切な人の遺したサボテンです。あそこに植えてもいいですか?』


 彼女は一瞬目を見開いた。そして何度も頷くと、サボテンの並び立つ原野まで案内してくれた。ここがいいよ、というようなことを喋り、地面をバンバン叩く。


『恋人は 天国で 幸せです』


 無機質な機械音が、翻訳した老婆の言葉を告げる。


『恋人じゃありません、私は……でも……恋を、していました』


 私の頬を涙が伝った。

 彼女の腕が私を優しく抱きしめた。


『あなたの恋心も 天国で 幸せ』


 皺だらけの手が私の頭を撫でる。

 私は声を押し殺して、長い間老婆の胸の中で泣いた。



 原野を熱風が吹き抜ける。

 渇いた砂のにおい。

 甘い花の香り。

 照りつける太陽。

 足元から立ち上る蜃気楼。


 気がつけば随分と遠くまで来てしまっていた。こんな、地球の裏側まで……。


 ふと視線を戻すと、一瞬、持ってきたサボテンをどこに植えたのか見失った。

 ああ、あれだ。背も小さく、花もつけていない頼りない姿。

 私たちのサボテンは、無数の突出物が群れ並ぶこの奇妙な光景にもう馴染み始めていた。


――帰ろう。


 首筋の汗を拭って、私はその奇妙な景色に背を向けた。

 私には帰る場所がある。

 夫になる人の待つ家に、帰ろう。

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テオティワカンに還る さかな @sakanasousaku

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