第18話<最終話>

「カイリ、朝だよ。起きて」

 身体を揺らしても、深い眠りの中からなかなか浮上してこないカイリに、サトルはおもむろにキスをした。ビクンと反応した後、うっとうしそうに顔を押しのけられる。

「朝っぱらから、ベロチューすんなや」

 言いながらキングサイズのベットの上を這って逃げた。その先でも、寝ようとするのをあきれて見つめる。

 パーティーの後、カイリをアパートまで追いかけて行って、セックスを二回した。その後、ビールを飲んで、そうこうしているうちにもう一回戦に突入し、外で小百合が待っている気配をサトルは感じていたが、カイリが気づかないので続行した。

 その後は何食わぬ顔で着替えを受け取り、迎えの車に乗ってマンションに帰ってきたのは、日付がとっくに変わった頃だった。

「あー、目が覚めた!」

「起こしに来たんだから当たり前だよ。シャワー浴びたらゲストルームの方へおいで。みんなでブランチにしよう」

「わかった。すぐ行く」

 大きなあくびをしながら答えるカイリを置いて、プライベートゾーンの階下に降りたサトルはゲストルームに戻る途中で小百合に呼び止められた。

「カイリさまはお目覚めでしたか?」

 紺色のワンピースが今日も清楚だ。

 この令嬢然とした顔をくずしもせず、昨晩は安アパートの扉の前で何を聞いただろうか。

「いや、起こした」

 答えながら、悪いことをしたなとサトルは思う。

「眠らせてさしあげればよろしいのに」

 ふっと笑みをこぼす、白い花のように可憐な顔を覗き込む。

「なんでしょうか?」

 仕事の顔を取り繕って答える小百合をなおも見つめると、ため息と一緒に口を開いた。

「……昨晩、あんなお声をあげさせるほどなさったんですから、随分とお疲れだと思いますわ」

 やはりアパートの扉の前では中の声が聞こえていたらしい。

 隣にも聞こえただろう。昼間ならまだしも、夜は静寂の中に声が良く響く。

「カイリの方が体力はあるよ」

「そういう問題ではないと思いますけれど……」

「あぁ、そうだ。例の改装の件だけど」

「はい」

 小百合がにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「お決まりになりましたか」

「あぁ、進めてくれ」

 カイリのアトリエの改装プランはもうすでに出来ている。

 もちろん、言い出すとわかっていたので和室も発注済みだ。

「変更はございませんか?」

「ひとつだけあるよ」

 ゲストルームへ向かおうとしていた足を止めて振り返る。

「和室の外に降雪機をつけられないか確認してくれ」

「雪をお降らせになるんですか?」

「そうだ。カイリが興味を示したからな」

「よろしゅうございますね。確認を取ります」

 小百合は一礼した。

「カイリが来たらパンケーキでブランチにしよう。小百合も同席してくれ」

「承知致しました」

 軽く手を上げて別れた。ゲストルームへ入ると、パーティー疲れしたリタは絹の柔らかなマキシ丈のワンピースでソファに寝そべり、そのそばにヴィヴィが座っている。悠護がどこからともなく現れて、キッチンに直行するサトルを見つけて後を追ってきた。

「何を作るんだ? カイリのお目覚めか」

「起こしてきた。パンケーキを作るから……ちょうどいいな、悠護。生クリームを泡立ててくれ」

「……なんだよ、これ」

 電動式ではない泡だて器を渡されて、悠護が不満げに顔を歪めた。

「電動は壊れたんだ」

「本当だろうな」

 いぶかしがりながらも悠護は、生クリームと砂糖の入ったボールを受け取って素直に攪拌を始めた。

「意外にうまいな」

「意外は余計だよ」

 リズミカルな音を聞きながら、トッピングの果物を切っている間に、アロハシャツに短パンを穿いたカイリがやってきた。濡れた髪は申し訳程度にドライヤーで乾かしたのだろう。まだ半乾きで、それが服装と相まって海から帰ったばかりのようにも見えた。

「おっ、生クリーム」

 味見しようと伸びてくる指からボールを守った悠護に追い払われて、カイリは仕方なくソファへ方向を転換した。

「おはようさん」

 声が聞こえてくる。視線をちらりと向けると、ヴィヴィとはす向かいに座るところだった。

「おはよう、カイリ」  

 気だるげなリタの拙い日本語に重なって、朝の挨拶を交わしたヴィヴィの声がそのまま続く。

「昨日、サトルとの話を聞いていたんでしょう?」

「サトルから聞いたんか」

「ええ、そうよ」

 優雅に話すヴィヴィの声は美しい。反省が声色に表れているだけに、いっそう柔らかく耳に優しかった。

「二人の間のことに口を挟むなんて、失礼なことをしたわ。リタにも怒られたのよ。日本で暮らすサトルのことを何も知らないのに、ごめんなさい」

 サトルのいる場所からは、カイリの声が聞こえるだけで顔は見えない。

「いや、ええよ。別に。俺も、いろいろと考えるきっかけをもらったようなもんやしな」

 カイリはいつにも増してさっぱりと答えていた。そうでなくても、女性には基本的に優しいのだ。

「雑誌のお抱えカメラマンなんて辞めて、パリへいらっしゃい」

 ヴィヴィの声が微笑んでいる。

「一流にしてあげるわ」

 その一言に、サトルはナイフを置いて振り返る。

 それは俺の楽しみなんだと言おうとしたが、思わずカイリと視線がぶつかって黙った。

「いや、ええんや」

 ヴィヴィに向き直ったカイリはことさら明るく答える。

「ヴィヴィ。おおきにな。俺にはサトルがおるからな。うちのパトロンはやきもち焼きやし。焼き始めるとめんどくさいから、まぁ、ぼちぼち一流になるしな」

「腕は一流よ。あとは売り方次第なのよ。私ができることがあれば、最大限利用してね」

「罪滅ぼしにか?」

 屈託のないカイリの言葉に、ヴィヴィが声を立てて笑う。

「いいえ。私があなたの写真のファンだからよ」

「ありがとう。そやけど、昨日、重要なことをひとつ決めたばっかりやから、また時間を置いて考えるわ」

「そうね。そうして」

 ヴィヴィが陽気に笑い、サトルの横でひたすら生クリームを泡立てていた悠護が二人を眺めて首を傾げた。

「おまえも、モテるよな」

「ヴィヴィとは終わってる」

「男相手じゃ、お前が一番のまんまだよ」

 サトルは答えずにパンケーキを焼き始めた。

 それは知っている。知っていて、ヴィヴィもサトルもお互いには一度も言葉にしたことはない。別れるとか別れないとか、そんな付き合い方でもなかった。

 それでも、ヴィヴィはあの後でしばらく激しく男関係で乱れ、最終的にはすべてと手を切ってリタと付き合ったのだ。

 サトルには火遊びだった。その火に焼かれたのはヴィヴィだけだったことは、口にしてもしなくても、男をすべてひれ伏せさせた美女には思い出したくもない記憶だろう。

 それなのに、消し去れずにいることが一番彼女を傷つけているはずだ。それは、今でも。

「無視すんなよ」

 肘で小突かれる。振り返らずに答えた。

「どう言えばいいんだよ。俺はモテるよ? おまえの知ってる通りだな。男も女も選び放題だ。で?」

「で? って返すな。あ、すごい、うまそう」

「うまいよ。おまえの分も焼くから」

「腹減ったー。一枚かじらせてや」

 気配を消して近づいてきたカイリが、悠護の後ろから手を伸ばして、生クリームを盗み食いした。

「あっ!」 

 悠護が睨みつけると、軽い足取りでサトルの手元にあるパンケーキを一枚盗んでいく。

「カイリッ!」

「熱ッ」

 かじりついたカイリが悲鳴を上げた。

「当たり前だろ、焼きたてなんだから。戻すな」

「カイリ、昨日、どうして先に帰ったんだ。ヴィヴィが嫉妬にかられて嫌がらせしたか」

 泡立て終わった生クリームのボールをキッチンの作業台に置いて悠護が聞くと、カイリは皿に戻すのを止められたパンケーキをもてあそびながら視線を一度、サトルに向けてからニヤリと笑った。

「そういう段取りだったんだよ。……サトルと一発決める」

 目を丸くした悠護が次の瞬間、大声で笑い出す。

「騒がしいわ、悠護さん」

 ゲストハウスにようやく戻ってきた小百合が眉をひそめてキッチンを覗き込んだ。

「いいところに来た。皿にパンケーキを配ってくれ。カイリは一枚少なくていいのか」

 サトルが呼び寄せると、小百合がキッチンの中に入って来る。カイリは冷めて来たパンケーキにかじりつきながら、忙しく首を振った。

「あかん、あかん! 俺も食べる」

「いま、食べただろう」

「味見しただけや」

「よく言うよ。じゃあ、もう一枚追加で焼くからな」

 じゃれあうような会話を微笑みながら眺めていた小百合が、パンケーキを取り分けながら悠護を見た。

「何を笑ってらしたの」

「カイリがさー、昨日抜けて帰ったのは、サトルと逢い引きするためだったって言うから。悪い冗談だなって、思って」

「どうしてですの? 悪い冗談なんかじゃないわ」

「え?」

 間抜けに聞き返す悠護がカイリを見た。

「マジ?」

「サトルさまはカイリさまのアパートにいらっしゃったのよ」

 小百合は上機嫌にさらりと言う。

「二人がデキてるって、すぐ忘れる……」

「どうしてですの?」

「さっきから、そればっかりだな」

 笑う悠護が、ふいに思いついたように言った。

「今日、暇だったら、銀座にでも行こうか」

 いつも、決まってそうするように、ごく自然に誘う。小百合が断ることを知っているから、悠護は会うたびに決まって挨拶のように 繰り返す。

 ただ、今日は違っていた。

 ちらりと悠護を見た後で、小百合はカイリを振り返った。

「いいんちゃうん。行って来たら? なぁ、サトル」

 カイリに同意を求められてサトルがうなずくと、困ったように笑って悠護へとまた視線を戻す。

「カイリさまがおっしゃるから、従いますわ。ご一緒します」

「ホントに?」

 思わぬ返事に、悠護の声が裏返った。

「ご冗談でしたら、お断りしますけど」

「いや、本気! ヴィヴィ、リタ! 久しぶりに小百合がデートしてくれるって、聞いたか。もう、よりが戻るかもなー」

 浮かれてキッチンを出て行く背中に向かって、小百合は決して重くない息をつく。

「困った人」

「ええやんか。ええヤツやで」

 カイリが笑うと、苦笑を浮かべたまま小百合は静かに首を振った。

「カイリさま……、私、まだサトルさまのおそばを離れるわけにはいきませんから。ご心配なさらないで」

「あいつなら、小百合が五十になっても六十になっても待ってるから大丈夫だ」

 リタとヴィヴィ相手にフランス語でデートプランを考え始めた悠護の浮かれ声に笑いながらサトルが言う。

「しつこい人ですこと」

 ふざけて笑う小百合の目は、どこか熱っぽく潤んで見えていた。

「イマドキは別居婚ってのもあるんやで?」

 サトルが渡した袋にクリームを移しながら、カイリは誰もが切り込まないところへ平然と踏み込んでいく。小百合は微笑むだけで答えない。

「なぁ、サトル」

 仕方なく話を振って来られ、少し思案してから言った。

「同性婚できる国もあるよ」

「お前が言うと、冗談に聞こえないねんけど」

 カイリが眉をしかめる。

「あら、別居婚も冗談でしたの?」

「冗談やで」

 あっさりと返して、カイリは肩をすくめて作業に戻る。

「結婚しようか、カイリ」

 パンケーキを焼き終えて、コンロの火を消して背中に寄り添うと、うっとうしそうに肘で突かれる。

 負けずに腰を抱いた。

「小百合ちゃんが見てるやろ」

「見てたらダメなことがあるか? この家に住んだら、いつもいるから慣れろ」

「アホか。セックスは絶対に見せんなよ」

「そんなこと言ってもなぁ」

 セックスの後始末をさせたぐらいなのにとうっかり口を滑らせそうになって、サトルはぐっと押し黙る。

「あの頃とは違うからな。俺も本気、おまえも本気。あの時とは別の意味でな。そんなん人に見せんな。やる気が失せる」

「……」

 肩越しに振り返ると、申し訳なさそうに小百合が頭を下げた。

 あの時も小百合が家にいたと、カイリはもう知ってしまっているのだ。

「わかった」

 それでも、思わず習性で首筋にキスしてしまう。カイリもそれは拒まず、自然に首を傾けた。

「あ、それからやで」

「まだあるのか」

 生クリームを移し終わった袋をカイリの手から取り上げて、小百合に渡す。パンケーキへと手早く搾り出していくのを、魂が抜けたようにじっと見つめていたカイリが我に返って身体を反転させた。

「ビデオも、撮んな」

 睨みつけられ、視線をそらした先で、小百合も驚いた顔で手を止めた。

「そんなものはないよ」

 すかさず否定したが、

「ご存知でしたの」

 カイリに心を許しすぎた小百合の一言でごまかしは利かなくなった。

「やっぱりな」

「申し訳ありません。つい……」

「あの頃もあるんか」

「ない」

「ありませんわ」

「……あるんやな」

 カイリが重いため息をついた。

「ほんっとに、おまえ、鬼畜すぎるで」

「ない、って」

「おまえがないって言うときはあるねん」

「じゃあ、ある」

「じゃあって、なんやねん。まぁ、人には見せへんやろうからええわ」

 あっさりとあきらめたように言って、カイリはサトルの腕から逃れて冷蔵庫を開けてチョコレートソースを取り出す。

「そんなん、後で見てどうすんの?」

「冷静に眺めるんだよ。おまえを」

「変態もええとこやな!」

 カイリが取り落としたソースの容器を小百合が拾い上げる。

「変態や、小百合ちゃん、こいつはほんまの変態やで!」

「最中は落ち着いて眺めている暇もないんだから仕方ないだろう」

「そういう一過性のものに儚さを感じたりせえへんのか」

「カイリさまはロマンチックですのね。……サトルさまは、そういう情緒はお持ちでないように思いますわ」

「小百合ちゃん」

 よろけたカイリを抱きとめて、サトルはぎゅっと力を込めて抱きしめた。

「愛しているよ」

「やっぱ、いやや。おまえみたいな変態!」

 と言いながら、額に、まぶたに、頬に押しつけるくちびるを押しのけようとはしない。

「どう思う? 小百合ちゃん」

 抱きしめられたままで、カイリが問いかける。

 小百合はチョコレートソースを生クリームの上に回しがけていた手を止めて、にっこりと微笑んだ。

「お似合いの二人だと思います」

 カイリが息をつく。

 サトルは最後にくちびるを奪った。

 短いキスで離れると、カイリのくちびるが名残惜しそうに追ってくる。

 もう一度、今度は長いキスをした。

 春の風が、開け放ったドアから吹き込んで来る。

 サトルの腕の中でカイリが甘い吐息を静かに漏らした。


《終わり》


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テイスト・オブ・ハニー 高月紅葉 @momijiyahonpo

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