ラスト・スパーク
川上眞一
ラスト・スパーク
「そーちゃん!」
絞り出した声は、ガチャリ、というドアの音に遮られ、彼の元には届かなかった。やがて、分かたれた向こう側からエンジンを吹かす音が聞こえ、そのまま遠くなっていった。静かな住宅街の、何でもない平日の昼。玄関に残された私は、ゆっくりと壁に体重を預け、溜息を一つ吐いて、この状況を呑み込むことにした。最後の言葉は、宙に浮いたまま。
今日をもって、世界は終わるらしい。厳密には、今日から数日以内に、極めて高い確率で。こんな話、すぐには信じられなかったけど、正式な発表ではなくリークで広まったあたりがガチっぽくて、世界中の混乱っぷりを見ても、どうやらマジっぽい。政府も国連もちゃんと説明してくれないから、リークされた資料から要点をまとめてくれた誰かの言葉で理解するしかないけど、太陽の活動周期とその他電磁波がどうにかなって、最悪な条件が幾つか重なって、地球に届く熱がほとんどなくなるとのこと。早い話、氷河期の到来というわけだ。
一割狂って、二割が死んだ。残りの大多数はどうしたかというと、不思議と今まで通りの暮らしを続けていて、それが正常性バイアス(無意識的な楽観視)によるのか、はたまた荒れた人たちに対する免疫みたいな反応なのか分からないけど、なんとかやっている。犯罪率は急騰したけど、各地で自警団みたいなものが動いていて、何ヶ月か経って治安も落ち着いてきたみたいだし、世界的に経済は破綻したけど、日常的には食料や日用品が流通している。暖房器具や防寒グッズが売れ、保存食が売れて、それらが時間稼ぎにもならないことが分かってからは、痛み止めや睡眠薬の処方が増えた。でもそれ以外では、なるべく今までと変わらないような生活が、善良で積極的な市民によって支えられていて、人間の「捨てたもんじゃない」ところって感じがする。
「無人島に一つだけ持っていくとしたら何」に並ぶくらい人気のある、あるいはベタな問いかけとしてあるのが「世界が滅ぶ前にやりたいこと・食べたいもの」だと思う。不幸中の幸いというか、今回は発覚から「その日」まで割と時間があったから、(残った七割のうち)多くの人がそれを目指して生きていられたんじゃないだろうか。私も、色々やった。だからそう考えると、これはこれで綺麗な終わり方なのかもしれない。なのに、まさに終わろうとするそのときに、ただ「走るのを見る」なんて、意味が分からない。しかもこんな良い女を捨てるなんて、相変わらず損得計算のできない男だ、そーちゃんは。
私、石川ユミカと、そーちゃん、竹田総一郎は、高校時代の同級生で、何度かくっついたり別れたりした間柄、現時点のステータスは「元」恋人だ。卒業してから最近まで、ブランクを挟んで三年くらいはそういう関係だから、友人からは仲が良いと言われることもあるけど、正直、判らない。私たちはかなりタイプが違う。私は感覚が大事だけど、そーちゃんは理屈を重視する、かと思えば「筋」だの「道理」だの、明文化されてないルールを持ち出してくるし、私の出した理屈は解ってくれない。あと、ムダに熱くてウザい。愚直で、さらにまっすぐで、やっぱり馬鹿だ。互いの価値観に共感できないし、はっきり言って全く逆で、だからこそ惹かれたし、だからこそ合わなかった。会いたくなったら繋がって、それもすぐに冷める。でも、さすがに最後くらいは同じでいられると思っていた。
「え、嘘でしょ、ホントに行くの?」
思わず間抜けな声が出た。まどろみから抜けた途端、彼は打って変わって真面目な顔になって(それはちょっと面白かったけど)、慌ててベッドから降りて、いそいそと服を着出したのだから。
「言うたやろ、陸上の話。今、桜坂ちゃんと記録目指してるんやって」
そっぽを向いてパンツを穿きながら(変な格好で、でも真剣に)彼が答えた。太陽はとっくに高くなっていて、約束の時間を過ぎているからか、心なしか苛立った口調だった。私は裸のまま上体を起こし、タオルケットを引き寄せて、羽織り、少し呆けていた。
確かに、話は聞いていた。残り三日になった一昨日から(なぜか)母校に通っていて、そこで(なぜか)自己記録の更新を目指す後輩女子と出会い、(なぜか)挑戦の手助けをしていると。基礎トレーニングをしたり、タイムを計ったり、アドバイスをしたり。はっきり言って、この期に及んで過ぎた青春を取り戻そうとしているようで、やっぱり合わないなと思って、聞き流していた。それにしても最終日、それもこの享楽の直後にそれを選ぶなんて。
「でも、その子、無理なんでしょ?」
話を聞く限り、その後輩に記録更新はできない。これは私の推測じゃなくて、彼の言い方が、明言はしてないけど、ほとんどそう思っているような口振りだったから。
「できるとかできへんとか、それはやってみんと分からへんけどな」
若干の反感が込められた返事に、よく言うよ、と思う。
「それに、仮に自己ベストが出たとしても、さ」
何にもならない、と言葉にするのは抵抗があったけど、私の言いたいことは分かっているみたいだった。反感を言葉で処理できないからか、履いた靴下の踵の位置を気にして、ごそごそと調整している。
新記録が出ても、全く、何にもならない。ごっこ遊びだ。「良い思い出」として振り返る未来はやって来ない。そりゃ、その場の達成感はあるだろうけど、それで人生が終わって良いくらいの、貴重な残り時間を費やすだけの価値なんて、絶対にない。
「傍から見て価値がなくても譲れない。いわゆる『やりがい』ってやつ?」
少し嫌みを放ってみたけど、反応はなかった。そうだ、この男には直球じゃないと通じないんだった。あまり強い言い方は好きじゃないんだけど、仕方ない。
「そーちゃん」
彼は引き出しに向かい、シャツを取り出している。ベッドから顔は見えない。
「そーちゃんはさ、ダメだったじゃん。記録会の前に、故障しちゃってさ」
後輩に自分をどう見せているかは知らないけど、彼は在学中、高校記録を更新できなかった。三年生の一番良い時期に怪我をして挑戦できず、その後バイク事故を起こして、卒業を待たずに競技から身を引いた。新記録の目標も、実業団での将来も、全部消えてなくなった。楽しげな様子も、悔しそうな顔も、悲痛な声も、覚えている。そしてきっと、彼の胸には今も燻ったままの青春が残っている。
「報われないよ、そんなことしても」
彼が今やっているという「挑戦の手伝い」は、一見、美しい行為に思えるけど、実は自分の情熱を発散させるために後輩を利用しているに過ぎない。
「燃え残った思いを他人に重ねても、そーちゃんの過去は救えないよ。そーちゃんの青春は、もう終わったんだよ」
部活で描いていた夢は卒業と共に終わるはずで、青春が含んでいた熱はその景色に閉じ込めておくものだ。私も彼も、卒業して、成人して、段々と大人になって、間もなく大人として死ぬ。彼がやっているのは、子供みたいな、悪あがきだ。
「何にもならない、ムダなことに時間を使って、そのまま消えるなんて。そんな終わり方で、そんな人生って、意味、ないでしょ」
シャツを着終わったところで、彼の動きは止まっていた。私の言葉はちゃんと伝わっているみたいだ。もう一押しかもしれない。沈黙のまま、そっと、そっと近づいて、
「ね、もっと、しよ?」
そーちゃんの手を取って胸に押し当てる。好きなの、知ってるよ。もう片方の手で、優しく包んであげて、いっそう体を近づける。。この鼓動も伝わっているかな。
「いっぱいしよ? メチャクチャになろ? 色んなこと忘れて、抱き合って、最後の最後まで、一緒にいよ?」
横顔をじっと見る。
深呼吸を一つして、彼はようやくこっちに向き直った。お馴染みの硬い表情で、意思の強い瞳で、見つめ返される。
「ユミカ、すまんな」
なぜか謝罪され、きょとんとする。手をどけられて、胸が涼しい。
「色々思ってくれて、言うてくれたんは、ホンマありがたいなって思ってる。それから、お前の言うてることは、たぶん正しいんやと思う」
今までにない慎重な言葉遣いで、ただ受け入れるしかなかった。
「けどな、そっちが正しいんかもしれんけど、そっちの方が有意義かもしれんけど、行くわ。これが何になるとか、意味があるとかないとか、そんなんは分からん。損得勘定できへん、って言われてたしな、俺。結局、この行動に価値なんてないんかもしれん。何も得られんと終わるかもしれんし、得た直後になくなるんかもしれん。でもな、そういうのを超えて、ここでやっとかなあかん、って思うねん」
ふいに呼吸が合う。
「世界がこんなんなって、壊れた人も自棄になる人もおったけど、俺らはマトモやったやんか。世界中が混乱しても、うまいこと回してくれる人たちがおったやんか。あんま大っきいことは言えんけど、誠実でいたいとか、美しくありたいとか、そういう気持ちは、理屈やないんとちゃうかな。部活かて、青春かて、そうやろ。それが将来何になるとか、進学のためとか就職のためとか、そんなんどうでも良かったやんか。ただ面白そうで、ただ目の前の壁を破りたくて、力を合わせて乗り越えたくて、そういうのが原動力やったやろ? 今、それやねん。そんな歳ちゃうけど、残りの時間で何したいか言うたら、それやねん。何ていうか、情念とか情熱とか、炎みたいに燃えるんは、何かを手にするためやなくて、ただ輝くためとちゃうか。なんやかんや、人が生きるんも、輝くためなんちゃうかな」
名調子に頭が追いつけていないけど、なんとなく解る。私の理屈と違うところに彼の理屈があって、それは活き活きと脈打っていて、もう止められないということを、必死に納得しようとした。
「知らんけど」
シリアスな雰囲気が苦手なのか、気を遣ってか、彼は急にひょうきんになって、
「ほな、そういうわけで」
上着を手に取って廊下へ進み出した。
「ちょっと、待ってよ!」
タオルケットのまま、慌てて追いかける。彼は足早に歩き、止まることなく玄関まで辿り着き、雑に靴を履いた。何を言おうか、どうすれば良いのかアイデアはなかったけど、とにかく引き止めたかった。ドアノブに手をかけて、出ていく直前で再びこちらを向いて、彼は言った。怒りじゃないけど、どこか険しい、相変わらず熱っぽい目だった。
「お前も、諦めんなよ」
諦める? 何を? 意味が解らなくて、言葉が出ない。それを承諾と見たのか、彼は振り返り、ドアを押し開け、そのままするりと出て行った。
「そーちゃん!」
精一杯の声が、彼に届くことはなかった。
とりあえずのシャワーを終えて(そういえばそーちゃんは体も拭かずに出ていったけど)、ぺたぺたと音を立てながら、寝室に戻ってきた。勝手に借りたバスタオルにくるまって、脱ぎ散らかした服を探す。ここは彼の家だから、そーちゃんは違う服を選べたけど、私は昨日のものを着るしかない(下着も)。ちょっとテンションが上がらないけど、全裸で死ぬのもどうかと思うし、仕方ない。まあ最後だから、別になんだっていいんだけど。
彼を見送ってから(あるいは彼に捨てられてから)一眠りしちゃったし、もう時計は見てないけど、学校にはとっくに到着しているはずだ。あっちはあっちで、大団円を迎えるのだろうか。
「いなくなっちゃった」
つぶやいてみて、見事に悲劇のヒロイン気取りだったから、失笑した。そんなの、柄じゃない。考えていた予定が狂っただけで、別に悲嘆しているわけじゃない。彼を説得できたことなんて一度もないし、予定はともかく、目的はほとんど達成できた。ただやっぱり、最後に選ばれなかった感じというか、捨てられた構図になっているのだけは、なんだかな、って思うけど。
――諦めんなよ
そーちゃんとは何度もすれ違ったけど、やっぱり最後も解らなかった。何のことだろう。何かがあったとして、今更、間に合わないけど。例えば、「悔いのない人生」を? 私は、その時々でいちばん自分に合う選択をしてきたし、そのせいで「移り気」だとか「風見鶏」とか言われたことはあるけど、後悔なんてしていない。それとも、いわゆる「幸せ」ってこと? 幸せなんて、味わった快楽の合計値でしょ。それなら、私は自信がある。誰よりも、私は「幸せ」だった。
――人が生きるんも、輝くためなんちゃうかな
この状況で輝くと言われても、どうやって、って感じだ。私はもうやりきっていて悔いはない。そもそも彼の言う「輝く」っていうのが、イマイチ解らない。ああいった熱血風味を指すとしたら、私には縁のない話だ。
さて、服は着るとして、メイクと髪はどこまでやろうかな。さすがにこのままってのは無いから、多少直しはするけど、やったところで何にもならないのに、バッチリ仕上げるのもな。
――美しくありたいとか
「美しさ」っていうのは、共感する他人がいて初めて意味があるものだから、私一人のこの世界では、単なる自己満足にしかならない。
――傍から見て価値がなくても譲れない。いわゆる「やりがい」ってやつ?
あるいは「こだわり」ってやつ。そんなものはない。ただの自己満足に価値なんてない。価値がないなら、やらない。疲れるだけだから。いいよ、もう。充分エンジョイしだし。私の人生はここまで。めでたしめでたし。
アウター以外の装備が済んで、またぞろベッドに寝転がる。皺になるかもしれないけど、そんなのもう、どうだっていい。
――報われないよ、そんなことしても
「報われ」って何だっけ。最後の手元に、今この胸に何が残っているか、それのことだったら、得たいものを得てきた私は、こうして満ち足りている私は、報われている。そうういうことになる。でも、何でだろう。あんなに笑って、感じて、美味しくって、楽しかったはずなのに、今、振り返っても、大して何も出てこない。昨日だって、そーちゃんの熱を感じたくなって、押しかけて、いっぱいもらって満たされたはずなのに。一夜であっても、身も心も、充実したはずなのに。今ここに、彼はいない。
――そんな終わり方で
ギシ、と家鳴りがする。たくさんたくさんもらったのに、もう空っぽだ。私って、欲深いのかな。だから早く足りなくなって、すぐにお腹が空いちゃう、みたいな。たくさん味わっても、長くは保たない。それって、プラマイ、どうなんだろう。私の、人生のプラマイ。ここにあるのは、空っぽの家、空っぽの私。なんだかな、って思う。それって、私って、これで良かったのかな。
ギシ、と家鳴りがする。少しして、ぶる、と肌が震えて、止まらない。急いで布団を被り、身を縮める。ダメだった。冷気が綿を貫いてきて、じわじわ体温が漏れ出ていく。ああ、始まったんだ。直観する。誰かがまとめた情報通り、今日、世界は凍りつくんだ。
――そんな終わり方で、そんな人生
寒い。寒い寒い寒いさむいさむい!
――意味、ないよ
そーちゃん!
ラスト・スパーク 川上眞一 @s_kwkm
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