第30話 楽園への帰還を夢見て
だが、それだけだ。
影人は、沈みゆく太陽が地平線につくる赤く染まった空を見つめる。
影人は未だに、元の世界に戻るための情報の欠片すら見つけていない。
この地方一帯の都市に赴いたが、どこへ行っても同じ光景が広がっているだけだった。
疫病、飢餓、戦争、強固な身分制度に宗教的迷信、どの王国でも都市でも程度の差はあるが、それらの社会の状況は同じだった。
身分の差に関係なく、全ての人々が、みな手前勝手に目を覆いたくなる行為を繰り広げている。
多くの場所を訪れて、この世界について、知れば知るほど、影人の心には絶望だけが広がっていった。
そして、数年経った今では、ずっと前から思っていた想い、うすうす気付いていたが、見て見ぬ振りをしていた暗い想いが、心の中で、染みのように広がっていた。
この世界は、影人がいた世界とはまるで異なる。
一見すると、異世界のようだ。
だが、それは現代の世界と異なるだけで、数百年以上前の人類が暮らしていた世界とは驚くほど似通っている。
この世界が、元いた世界と全く異なる世界だとはどうしても思えない。
過去にタイムスリップしたのか・・・という考えが一瞬だけ浮かんだことがあるが、そんなことはすぐにありえないことに気づく。
自分のことは特別だと思っているが、物理法則を捻じ曲げた現象が突然自分の身の上におきたと信じられるほどに、特別だとは到底信じられない。
確率的に考えて、もっともありえそうなこととなると、答えは一つしかない。
この世界は、仮想世界で、何故かは不明だが、自分はその世界に接続している。
それが、もっとも妥当な答えだろう。
誰が、何の目的で、この世界を作り上げたのかは、ちょっと考えただけでも様々な理由が浮かんでくる。
社会研究のために、現実の歴史に似たシミュレーターとして作ったのかもしれない。
あるいは、リアルさを極限にまで追求したゲームの類なのかもしれない。
いずれにせよ、創造者たちの目的は、たいして重要ではない。
問題なのは、何故、自分がこんな仮想世界に入り込んでしまったのかということだ。
少なくとも残っている記憶の限りでは、自発的に参加した訳ではない。
もっとも、記憶など、いかように操作できる代物だから、あてにはならない。
もしかしたら、記憶を自ら消して、望んで、この世界に来たのかもしれない。
あるいは、何らかの刑罰の一種として、記憶を消されて、この世界に強制的に送られたのかもしれない。
結局、自分がこの世界にいる理由を考えても、堂々巡りだ。
そんなことをいくら考えても、一歩も前に進むことはできない。
この世界は仮想世界だということを、影人は相当程度に確信している。
神、魂、が存在しないのと同じ程度の確信を持って、そう思える。
だが・・・それでも、あらゆる事実は決して100%正しいとは証明できない。
そして、人は自分に都合のよい物語を常に探している生き物だ。
だから、コンピューターのアルゴリズムが、人の思考をいとも簡単に再現できる世界に生きているにも関わらず、人間は決して失うことのない至高の魂を持つ存在だという物語を・・・宗教や神という物語を・・・未だに根強く信じている者たちがいるのだ。
地球という星には、数十億の人が現時点で存在している。
そして、地球は、天の川銀河の数千億ある星の一つに過ぎないこと、その天の川銀河くらいの規模の銀河系が宇宙にはまだ数千億ある。
宇宙の誕生から現在まで、100百億年以上の時間が流れ、人という種が地球に登場してからの歴史はわずか数十万年だ。
これらの情報は、影人が生まれる前から、世界の誰もが一瞬で調べることができた。
だが、それでも、多くの人は、宗教、運命、魂といった神話をつい最近まで信じていた。
例えば、この宇宙を創造した神という存在がいて、その神が地球という一つの星に生息する数多の生物の中の一つに過ぎない人という種を見守り、数十億いる人の中の一個体である自分という存在を見ており、さらにその人の判断が一定の価値観に照らして正しいかどうかを常に観測しているという・・・そして、そのスコアにより、死後に行き着く場所が決まるという神話を。
あるいは、人には決して機械などによって分析できない意識、勘、インスピレーション、自由意思といった人独自の崇高なものを持っているという神話を。
もちろん、これらが神話であることは、現代に生きる人々ならば誰もが嫌でも気付いているだろう。
そこらの型遅れの十年前の端末だって、膨大な自身のデータを瞬時に分析して、自由意思に基づいた自分の判断よりも、よっぽど正しい人生の道筋を提示してくれるのだから。
マトモな神経の持ち主ならば、今日食べたものや話した内容によって、心理状態がコロコロと変わるような不安定な自分の意思を拠りどころにして、人生の重要な選択を決めたくなどない。
生まれた時から、機械が、本人すら気付いていない趣味、趣向、性格に基づいて、自身の進むべき道を優しげな声でアドバイスしてくれる。
そして、その機械が下す判断は決して外れることはない。
その素晴らしい現実に直面した時、人の崇高な自由意思といった神話など嘘っぱちだと、知性ある人間ならば嫌でも気付いてしまうだろう。
そうした機械は、自分の思考を完全に理解し、再現できるのだ。
その機械と、自分の親や子供が、たとえ話しをしたとしても、いつまでたってもそれが自分ではなく、機械だと気づくことはない。
それは、神という神話がその少し前に先進諸国で、除々に衰退していった経緯に驚くほど似ていた。
遺伝子、生態技術の革新的な発展により、人体の強化、寿命の延長、脳の神経系への介入による幸福感の人為的な創出、これらが容易にできるようになったことで、先進諸国では死も病気も不幸も遠い存在になった。
神話の神が創出した楽園よりもはるかに幸福な社会で、神を信じる者が少なくなるのは当然だ。
人の叡智は今や神の奇跡を誰の目から見てもはるかに凌駕しているのだ。
それでも、人はいまだに、自分を特別だと信じるための神話にすがっている。
だが、そんなことどうでもいいではないか。
自分が、取るに足らないそこらの石ころや砂粒と同じで、何らの役割も運命も持たない存在だとして、何の問題があるのか。
幸福なのだから。
仮想世界で、自分を特別視してくれるAIと楽しむのも良いし、現実世界で脳をちょっと刺激して、幸福感に浸るのもいい。
そう・・本当に・・・影人が生きていた社会は、幸福だったのだ。
結局のところ、楽園への帰還の方法はもう判明しているのだ。
この仮想世界での生を終わらせれば、おそらくもとの世界に戻れるはず。
だが、影人はその選択を取ることがどうしてもできなかった。
たとえ、もとの世界に戻れる可能性が高いとしても、自ら死を選ぶというのは、あまりにも本能的に受け入れがたい行為で、そんな勇気などなかった。
この世界が本物だという確率がわずかでもある以上、不可逆な死という行為を選ぶことはできない。
それに・・・自分でも意外なほどに影人はこの世界を・・・いや・・この数年一緒に過ごした人々の存在を無視することができなくなっていた。
太陽は完全に地平線に沈み、あたりは真っ暗になっていた。ニザンの街がある場所にわずかに光らしきものが見える。
・・・たとえ偽物であっても・・・タリは・・・アニサは・・・街の人々の想いは・・・
この世界は、どうしようもなく暴力、死、混沌がそこら中にあふれている。
だが・・・それでも・・・わずかでも、前に進めることができるのならば・・・
脳裏にタリの顔が浮かぶ。
確かに、あの世界は楽園だった。それは、間違いない。
今でも戻りたいという強い想いがある。
だが、その楽園の記憶は徐々に風化し始めている。
この世界が影人にとっての現実になり始めている。
人の記憶はいい加減で、感情もうつろいでゆくものだ。
だからこそ、こんな世界でも、影人は生きていきたいと徐々に思い始めていた。
そして、この世界を変えていきたいと・・・
間違いなくとてつもない時間がかかるだろう。
だが、それでも・・・既に自分は成功例をこの目で見ているのだ。
人は、数万年の混沌を経て、叡智を積み重ねて、地上に楽園を作り上げた。
一度できたことなら・・・次もできるだろう。
物語がなければ、人は生きていけない。
この物語を信じて、この世界で生きていこう。
未来に住む一般人が、リアルな異世界に転移したらどうなるか。 kaizi @glay220
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