第29話 忠実な兵とプログラミングされた愛
影人の脳裏に、数年前の光景がぼやけた静止画のように何枚か映る。
やはり、拡張していない脳の記憶はあてにならない。
たった数年経ただけで、あれだけ深く自分の心に刻まれたと思っていた記憶すら、今ではもう抽象画のようにしか思い出せない。
その曖昧な記憶の残滓は、低画質の解像度のレベルでさえも、動画として脳内で再生することはもはやできない。
背景が赤く、血に染まっていて、人々が無数に倒れている静止画が頭に映ったところで、老人の声が耳に入り、脳裏の抽象画はふっと消え失せる。
「ですが・・・どうやって・・市民を兵に・・・私もその考えはありました・・しかし・・・」
老人は、身を乗り出して、顔をグイっと近づけてくる。
市民を兵にする、言うは易し・・しかし、それが簡単にできるのならば、苦労はしない。
顔中に深く刻まれたシワだらけの老人の苦々しい顔がそう語りかけていた。
この老人は、書物で、ケナスが傭兵に頼りきりになっていることを深く憂慮していた。
そもそも影人が有する傭兵にまつわる知識の大半は、老人が記したこの書物を読み、学んだものだ。
市民を訓練し、都市を守るという義務を芽生えさせて、自前の兵を持つことこそが、ケナスの長期的な発展につながると、老人はそう自身の書物で、権力者に提言していたのだ。
むろん、その結果がどうなったのかは、老人の、いまの顔が如実に物語っている。
権力者からすれば、農民あがりの無教養の市民たちが、傭兵に代わる兵となるなど、とても現実のものとして考えられなかったのだろう。
それに、市民たちが、武力を持つことは、権力者にとっては、諸刃の剣どころか、自らの首に向けられた片刃のように危険なものだ。
結局のところ、武力というものは、ある意味一番使い勝手のよい道具であり、それを持つものが、権力を手にすることができるのだから。
市民と結んだ傭兵隊長の反乱によって、ケナスと同程度の大きな街の権力者たちが文字通り、市庁舎の最上階から次々と追放されたということもあったのだから、彼らの恐怖はあながち被害妄想に過ぎるというわけではない。
このニザンにしたって、似たような経緯で、今の体制に至っているのだ。
「あなたのような優れた観察眼があれば、もうお気づきでしょう?この街には孤児たちがいないことを。私たちは修道院の協力のもとで、彼らを庇護しているのです。そして、彼らが、長じてこの街を守る兵となってくれているのです。まさにこうして、ニザンが繁栄を謳歌できているのも、神の恩寵のおかげです。」
手振りを混じえながら、聖職者のようにやや大仰に老人に語りかける。
老人は、目を白黒させながら、「孤児を・・兵にですと・・そんなことが・・・」と、唸りがながら、黙り込んでしまう。
老人の代わりに長身の傭兵が、我慢ならないとばかりに。会話に割って入ってくる。
「街の食い詰めどもを捕まえて、兵にするだと・・・あのゴロツキどもが、そんな素直に言うことを聞くとはとても思えないね。それに・・・兵の養成にはとにかく時間がかかる。その間のパン代は決して安くないはずだ。その金は、神の恩寵なんかではとても賄えない。それとも、ここの修道院の連中は、自らの教えを忠実に守って、善意で隣人を助けているとでもいうのか?」
この男も大半の傭兵と同様に、聖職者の類を毛嫌いしているようだ。
まあ・・盲目的に神を信じて、自身をその代弁者と思い込んでいる夢想家よりも、こうした皮肉屋の現実主義者の方が、仕事をする上では、役に立つ。
それに・・・男の指摘は的を得ている。
影人が先程老人に話した事柄は、嘘ではないが、人が自身の人生を記憶に参考にして、頭の中で物語として思い出す時と同様に大分脚色している。
街にいる孤児たちを、保護しているのは事実だが、その大半は、男の言うとおり、兵としては、役に立たない。
それに、ニザンの街がこの数年で除々に商業地として発展してきているとはいえ、大量の孤児たちの面倒をまともに見られるほど、財政は豊かではない。
だから、確かに孤児たちは、修道院で保護されるが、その環境は、道端での生活とたいして変わらない程度の劣悪なものだ。
結果として、孤児たちの大半は、一定の年齢に達することができずに、病気にかかり、命を落とすことになる。
だが、一部の孤児たちには、別の道が、待っている。
つまり、ナノボットの移植に適応できた者は、タリのように、強靭な肉体と疾病に対する耐性を持つことができ、命をつなぐことができるのだ。
そして、彼らは、長じて優秀な配下となり、ニザンの兵として、時には暗殺者として多いに役に立ってくれる。
ふと気づくと、傭兵の男の顔がみるみる青ざめている。男の視線の先に目をやると、自分の背後を歩いているタリが、男をジッと睨んでいる。
もういいですよと、タリに目配せをして、男の方を向き、
「確かに、カイさんの言うように、そう簡単にはいきません。残念ながら、うまくいかない場合も多い。ですが、この館にいる者たちやあなたたちが門で見た者たちのように立派な兵になるものもまた多くいるのです。」
掴みどころのない、どうとでもとれる内容を神妙な顔をしながら、話す。
この数年ですっかり、自分も政治屋になったものだ。
これも慣れというやつか・・
傭兵はなおも納得していない様子であったが、黙りこみ、せめてもの抵抗とばかりに、そっぽを向く。
重要な話しをするのは、本当の仲間になった後でいい。それまでは、嘘でもなく本当でもない適当な話しをしておけばいい。
館の中を一通り案内しながら、当たり障りのない話しをする。そして、配下の者に引き継ぎ、手配していた宿まで、彼らを案内してもらう。
今後の話しは明日以降にするということで、今日は、これでお開きにしてもらった。
館の庭に出て、空を見上げる。
日は既にやや沈みかかっていたが、まだいくらか時間がかかる。
「ちょっと出かけてきます。」
そうタリに言うと、「では、私も・・」と当然のように付いてこようとするので、「いや大丈夫です。いつものところなので」と、その申し出を断る。
タリは不服そうな顔をしていたが、半ば日課のようになっているから、一人で行きたいということは理解しているようなので、それ以上は何も言ってこなかった。
影人は、街の門まで小走りで移動する。
馬を使って移動する距離でもない。
門を出る時、影人のことに気がついた兵の何人かが、一瞬少し驚いた後、やや嬉しそうな表情を浮かべて、黙礼をしてくる。
それに曖昧な頷きで応えて、門を足早に出る。
街道沿いをしばらく歩くと、地面はやや勾配を帯びてくる。
ここから先は小高い丘になっている。
街道からややそれて、丘陵地帯を歩き、手近な大きさの石に腰掛けて、街の方を見る。
視界には、ニザンの街の全景が広がっている。
小さな街だ。
だが・・・今の自分にとってはここが全てだ。
自分が置かれた状況を具体的に見せてくれるこの場所は、影人の思考を整理する・・・肥大化した自意識に冷水を浴びせる・・・ためには、好都合だった。
人は、頭で理解していても、自分を客観視することができない。自分を特別な存在だとどこかで思っている。
それは、影人も同様だ。
ましてや最近では、この街の統治者になったものだから、なおさら自分の力を過信していまいがちだ。
だから、この誰もいない静かな場所で、自分が置かれている状況を客観的に観察する必要がある。
影人は、ふうと大きな深呼吸をして、いつも頭の中にある目標について思索する。
元の世界に帰還する、それこそが、影人の唯一にして最大の目標だ。
その方法を探すために、この世界でより大きな権力を得て、各地のあらゆる情報を集める。
そう・・・この数年間、一歩一歩、やれることをやってきたのだ。
ナノボットを多くの人間に移植して、配下の兵を増やし、この街の権力を掌握した。
とはいえ、適応者の人数はたかが数十人の規模でしかない。
少人数の兵しか持たないにも関わらず、影人が既存の権力者を駆逐できたのは、もちろん適応者の強化された身体能力によるところが大きいが、それだけではない。
彼ら、彼女らの士気、忠誠心が強いこともまた重要な要因だった。
はじめはそれらの忠誠心は自然に芽生えた感情だと思っていた。
なにせ、最初の適応者はタリだったし、彼女とはあの死病騒ぎ以来、ずっと互いに密接な関係を築いていたのだから。
だが、タリの影人への態度は明らかに異常とも言えるものだった。
人の感情は、曖昧で移ろいゆくものなのに、タリの影人に対する振る舞いは、不自然なほど一貫していた。
変わらない愛、友情、忠誠、そういうものは、現実の人の歴史では滅多にお目にかかれないものだ。
現実では叶わぬからこそ、人はそういう物語に憧れる。
タリの自分への忠誠心が変わらないのを見て、こう思うようになった。
これは、愛情、感謝、尊敬といった自然なものではなく、人為的な感情操作による結果に違いないと。
実際、タリの行動は、まるで仮想現実のAIの振る舞いに驚くほど似ていた。
それらは、しばらく一緒にいても、機械のような不自然さは感じない、人間と何ら変わらずに振る舞う。
唯一人間と違うのは、決してこちらを否定しないし、裏切ることがないことだけだ。
影人にとっては、ナノボットの移植がもたらす副作用は嬉しい誤算だった。
いくら配下の兵が強力な身体能力を手にしたとしても、いつその者たちが、裏切るかわからならいのならば、気が気でない。
そう思っていたからこそ、影人は、なかなかナノボットの移植をタリ以外の人間に試すことができなかった。
だが、その懸念が払拭されたため、影人は他の人間にたいしても、ナノボットの移植を試してみたのだ。
それは、全ての人間が適応するというほど都合のよいものではなかった。
むしろ、その確率は、年齢が若い場合であっても、数%ほどだ。だが、それでも十分だった。
なにせ、適応者はタリと同様に、その程度に差はあるとはいえ、必ず自分に忠誠を誓ってくれる。
自分を決して裏切らず、そして、その身体能力は通常の傭兵よりはるかに強化されていて、しかも病気にもかからない兵たち。
そんな、兵が数十人いれば、体制を揺るがす力になる。
ましてや、当時の街は、死病騒ぎで、権力の空白状態が生じていた。
それに、もともと街に一定の影響力を持っていた修道院に、適応者がいたことも、幸いした。
明確な目標を持ち、結束力が高く、能力に秀でた者たちが、数十人いれば、数千人規模の有象無象の大衆の上に容易に立つことができる。
それは、ニザンの街の権力を奪取する過程で、学んだ重要な教訓だ。
実際、影人はさしたる抵抗もなく、あっけなくこの街の新たな支配者に納まることができた。
だが・・・
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