絵本と擲弾
雨
絵本と擲弾
おもちゃでごちゃついた部屋の中、私の娘は熱心に本を読んでいる。
5歳の娘は私の視線に気づき、満面の笑みを浮かべた。
「パパ」
自分の元に駆け寄ってくると、あどけない笑みを浮かべて持っていた本を読んで、と せがんで————
「おじいちゃん」
少女の凛とした声に、彼の意識が現在に戻る。「すまない。ぼーっとしていた」ぼんやりとした口調で彼女謝った。
この少女は、私の娘とよく似ている。それが初対面の印象だった。
おじいちゃんと呼ばれた彼は、元は
凛とした声をした少女は、10歳程度の子供に見える。彼女は深くニット帽を被り、黒いミラーレンズのゴーグルをかけている。
時刻は明け方で外は仄暗いが、二人の居る室内はLEDランタンによって照らされており、互いの表情を読み取るには十分明るい。コンクリートで できている床に、二人は隣り合って座っていた。
「おじいちゃんは何歳? 」
「67」
「思ったより若い」
「何歳くらいに見えたんだい? 」
彼の質問に、少し考える素振りを見せてから少女は悪戯っぽく笑う。
「100歳」
「そんなに老けてはないよ」
こんな冗談が言えるのか、と内心彼は驚いた。男の反応に少女は得意げだ。
「今の冗談が面白くて、驚いたでしょ」
「いや、あまり面白い冗談じゃないから驚いたよ」
彼女はきょとんとした顔をする。
すると、男の表情が緊張したものに変わった。
「何か、まずいことを言ったかな」
男がそう訊ねても、少女はまじまじと男を眺めたままだ。
その沈黙が、男にとって怖かった。ほぼ丸腰の状態なのだから。
次の瞬間、彼女はむぅ、と頬を膨らませたかと思うと、大きく息を吐き出して ————
「今の冗談、面白くなかったかー! 次の冗談は面白いから! おじいちゃん、もっと話そう! 」
少女は興奮気味に男に顔を近づけた。彼女の感興は、10歳の年頃よりも幼い。
男の、我が子と重なるには十分過ぎるほどに。
「わ、わかったよ」
男の返事に、少女はあどけなく笑った。
「
「
午前4時53分……。
二人が話し始めて、50分経った。
合図はまだだが、これ以上の待機はできない。
「
あれから、50分は経っているだろう。
男は頭の片隅で思っていた。
「いつも朝に ママはスクランブルエッグ作ってくれるんだけど、とっても美味しいんだよ。私は毎日美味しいって言うんだけど、パパは何にも言わないで食べちゃうの。だからね、ママがいない時にパパに聞いたの。『ママのスクランブルエッグ、美味しくないの? 』ってそしたらね。美味しいけど、ママにそう言うのが恥ずかしいんだって。だから、私ね、『なんで? 』て聞いたの。そしたら————」
今から39分前までは男に冗談を言っていたが、その内に、少女が一方的にたわいもないことを話すだけになっている。
それに、男はただ相槌を打つ。
5歳の娘と話していた、あの頃を思い出しながら。
しかし、少女は急に黙り込んだ。
「どうしたんだい? 」
「きみ……」
「ん?」
「気味が悪いでしょ」
その言葉に、男はぎくりとする。
「いいの。隠さなくて大丈夫だよ。おじいちゃん」
そういうと少女はおもむろにゴーグルを取った。
ゴーグルで隠されていた白目のない黒い瞳が露わになった。
ただの黒ではなく、緑や黄色などの色を含んでいる瞳。
その次に、ニット帽を取ると側頭部に機器の
「私の名前はKP-Iin5403。すごく単純に言うと生物とロボットの融合体兵器の1体」
少女が立ち上がった瞬間、男は身体を震わせた。
「そんなこと言わなくてもわかってるよね。おじいちゃんは、私を捕獲するチームの1人だもの。殺処分も兼ねているのもわかってるつもりだよ」
抑揚のない言葉だった。
少女 —— KP-Iin5403は男に近づき、見下ろす。
男はただ見上げる。
瞳孔が拡大し、心拍、血圧が上昇し、肌が立毛し。
KP-Iin5403は、男が恐怖している状態であることを見通しながら、手を伸ばした。
「おじいちゃん」
彼女は男の頬を両手で挟んだ。
「私は、自由という状態を知りたくてあの施設から出たの」
「それが理由で、脱走を……? 」
男は渇いた声で訊ねた。その脱走で多くのものが消失したと男は聞いている。もちろん、その中には多勢の命もあったとも。
「うん」
淡々とした口調で答えた。
「そう思ったのは、ある本を読んだからなんだ。読むと言っても、プラグからコンセントに流された様々な文献情報の中の一つ。その中に、ある絵本があったの。とっても面白い本だった。周りから虐められてる猫が主役の絵本で、
彼女は男から目を離した。
「わたしも、あんな風に自由になりたかったな」
KP-Iin5403は男の頬から手を離す。そうすると、男は震え出した。しかし、先程の男の状態とは違うと、KP-Iin5403は気づく。
彼女が今まで見た人間のどれにも当てはまらない。初めて見る状態の人間だった。
———— 興味のある状態だけど、時間切れ。
KP-Iin5403は窓際へと歩を進め、彼女は外から見える位置に立った。
「じゃあね。おじいちゃん」
言い終えた瞬間、窓が割れた。
姿を現すのを待ち構えていたスナイパーが放った銃弾によって、割れたのだ。
しかし ————
「おじいちゃん、どうしたの?」
銃弾を放たれる瞬間に、KP-Iin5403は男によって腕を掴まれ避けさせられていた。
そのまま彼女は死角に引きずり込まれて男に抱き寄せられる。
そして
「おじいちゃん? 」
死角に引きずり込まれたKP-Iin5403は首を傾げた。
この男が自分を助けて得られるのはメリットより、デメリットの方が圧倒的に多いと彼女は思っているからだ。
—— それとも、何か裏がある?
彼女はあらゆる可能性を考え出そうとした時、男は静かな、しかし はっきりとした口調で言った。
「逃げなさい」
男は恐怖している状態だが、混乱はしていないようだ。
「おじいちゃん、とても怖がってるのに、何故そんなことを言うの? おじいちゃんが、わたしを逃すことで何かメリットがあるの? 」
「ない」
彼女が検知した限りでは、男が嘘をついている可能性は低い。
「じゃあ、なんで? 」
「君はなんで窓際に立ったんだ?」
「わたしの質問に答えてな ———— 」
「なんで死のうとしたんだ」
KP-Iin5403は男が怒っている状態だと検知する。
男が何を思って怒っているのかわからないが、彼女はその質問に答えることにした。
「いくら逃げても隠れても、わたしの身体に仕組まれている追跡チップですぐ居場所がわかっちゃうからだよ。いつまでも追いかけられるのはね、疲れるんだよ。チップは脳の中枢神経に近い所にあって、取り外すのは無理なんだよ」
「たしかに、追跡チップを取り外すのはできないな」
「でも」と男は言葉を続ける。
「追跡チップの無力化はできる」
男は少女の首筋に針を突き刺した。脊椎の隙間に針が入り、シリンジに入っている液体が一気に注入される。
KP-Iin5403は声すら出せない苦痛に襲われたが、かろうじて意識を保つ。
痛みが引いてくると、彼女は胡乱な目で男を見る。
「手荒なことをしてすまない。今、君に打ったのものは、君の脳を製造したある研究者から略取したものだ。そいつは組織を裏切って君を別の組織に売り払おうとしてたんだが、それには追跡チップが邪魔だったらしい……。数分以内に追跡チップは役割を果たせない状態になる。逃げなさい」
時間がない。そろそろ偵察と攻撃を兼ねたドローンが飛ばされただろう。
「なんで、そこまでわたしを助けようとするの?」
「それを話している時間はない。早く行きなさい」
KP-Iin5403は動かない。ただ男を見つめるだけだ。
「猫のエメルドみたいに、自由になりたいんだろう。行け! 」
男は彼女を突き飛ばす。
彼女は、一瞬 驚いた表情をしたが、すぐ無機質な表情に変わる。そして彼女は走り出した。
間もなく、割れた窓からドローンが侵入した。男を見つけると、ドローンは男に照準を合わせる。
「これはどういうことか説明しろ。アダム・オルコック」
ドローンのスピーカー越しに伝わる人の声は、冷然としていた。
男 —— アダム・オルコックは黙って、ドローンを見据えるだけだ。
「この場に留まって突入チームと合流しろ。君には、色々と聞きたいことがある」
ドローンの機体に格納されていた銃器が出て、それを向けられる。
他にも、ドローン越しにチームの司令塔は話を続けているが、男の耳には入らなかった。
彼は思い出していた。
自分の娘が楽しそうに笑っていたあの日々を。
血だらけの娘が自分の腕の中で冷たくなっていったあの日を。
そして、KP-Iin5403と初めて会った時のことを。
たしか、彼女の脳と
私はバイオニックボディを制作したチーフメカニックの護衛としてそこに立ち会っていた。
一体化に成功して、君が目を開けた。その時の君が、どういうことか亡くなった娘と重なって見えたことを今でも鮮明に覚えている。
見た目は娘とは全く似ていないのに。
それでも、娘を思い出したのは、きっと、あの絵本を好きになる子だったからに違いない。
ふと気付くと、突入チームが男の部屋の中へとゆっくりと足を運んでいた。銃口は男に向けている。
碧眼の目に涙を溜めて、アダム・オルコックは微笑みを浮かべた。
————————
KP-Iin5403は建物内からの脱出を図っていたが、包囲から逃れるというのは、そう簡単にできるものではない。しかも、今回は相当厳しいようだ。
—— 人質をとっても、人質ごと撃ち殺される。私を捕獲しようとする彼らの人権は、無いに等しい存在だからだ。
一瞬でも、別の場所に注意を向かせるのが一番最良の手かもしれない。
彼女は 脱出の手立てを考えていると、なぜか、先程まで話していた男が頭に浮かんだ。
あのおじいちゃんは、いったい何者なのだろうか。
少なくとも彼女がわかったのは、おじいちゃんはあの絵本を知っているということだ。
主人公の猫の名前を知っていたからだ。
しかし、
わたしは、その理由が、とても気になっている。
もし、またおじいちゃんに会えるとしたらわたしは、なぜあの絵本を知っているのかを訊ねよう。
そうしたら、答えてくれるだろうか。
衝撃と音が響く。
この建物内で何かが爆発したのだ。音からして旧型の
爆発した方向は ————
彼女は走り出した。
包囲を抜ける為に、外を目指す。
「おじいちゃん…… 」
わたしは、今もたくさんの物を、人を、壊している。
これからもそうしていくだろう。それしか、生きる術を知らないから。
でも、もし、なにも壊さなくても生きていくことができたのなら。
デジタルではない、あの絵本を買って読みたい。
そうしたら、なぜ おじいちゃんが わたしを助けてくれたのか、理由が分かるかもしれないから。
絵本と擲弾 雨 @rain-and-sun
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