閉幕 神の相貌

 月が満ちている。草原がさらさらと鳴る音が聞こえてくる。六頭立ての大きな馬車が、月下に照らし出された夜を滑るように走っていく。

 馬車の中、黒いソファにすわり、マリィはハインと向き合っていた。ハインはその膝に、美しい装飾と色彩が施された木箱を乗せている。片腕をその上に乗せ、もう片方の手を窓枠に持たせて、月明かりに広がる風景を眺めている。その箱の中にあるのは、自らの名を騙った男の最後の顔をデスマスクとして象ったものである。

マリィが耳を塞がれ、視界をマントで覆われたあと、ハインの背後には、かつて伯爵だった男が動きを止めていた。マリィにはいったい何が起こったのか分からなかった。彼が飲み干した月の雫という霊薬が、彼にどのような作用を引き起こしたのか、マリィは知らなかった。

 ハインはマリィに、目を閉ざし続けるようにいうと、その背で男の姿を隠すようにして立ち尽くす男に近づいていった。

 「ねえ、伯爵はどうなってしまったの」

 マリィは背後からそう尋ねた。

 「もう、彼はここにはいない。もはやこの世の何処にもいない。過ぎ去った『今』に取り残されてしまった。いや、永遠に引き伸ばされた『一瞬』に、自らの意思で留まったのだ。全ての人々の刹那を、その生を味わいつくすために。私達は時間を遡ることはできない。彼は私達から遠ざかり続けるだろう。彼が残したのは、この最後の表情、あらゆる人間の一瞬、感情を味わい尽くした瞬間に浮かべた、このデスマスクだけだ」

 そう答えると、ハインはその場で伯爵の顔を蜜蝋によって精密に象り、剥がした仮面を箱の中に入れた。それが終わると、懐から新たな一枚の仮面を取り出した。そこには、精妙な伯爵の顔が象られていた。その仮面を、ハインは伯爵の顔にはめ込んだ。そこには、瞳を瞑り、幸福な夢を見ながら、安らかな眠りを貪る伯爵がいた。その体を一人で抱えて運ぶと、聖堂の棺に戻したのだった。

 二人は塔を降りると、城を出て市街へと向かった。眠り込み、倒れ付した衛兵達を横目に門を開け、外へ出た。そこにはすでに迎えの馬車が着いていた。御者であるリンツという少年が二人を待っていた。彼もシャルラタンの団員であり、夜の興行師の一人だ。

 ハインが手にした箱を見て言った。

 「これが、世界の姿、神の相貌だね。見てもいい?」

 団長が手を振ってリンツを妨げた。

 「やめておくことだな。お前の幼い好奇心と引き換えにするには、代償が大きすぎる」

 不満げに口を尖らせるリンツを一瞥すると、団長はマリィを馬車に乗せ、それから自らも乗り込んだ。そしてリンツに命じて夜を駆け始めたのだった。

 あらゆる生を一瞬に味わった男が、どのような表情を浮かべていたのか、マリィは想像することさえできなかった。歓喜、悟り、愉悦、悲哀、或いは絶望なのか、いや、それらの全てを味わいつくした人間は、如何なる表情を浮かべるのだろうか。いや、彼は、『何か』に辿り着くことができたのだろうか、ふとそんな疑問が浮かんだ。

 マリィは、耳を塞ぐように言われたことを思い出し、再びハインに尋ねた。

 「伯爵は何かを叫んだみたいだったけど」

 それは断末魔、呪詛、快哉、苦痛の呻き、それともただの悲鳴?

 ハインはマリィに視線をうつし、その目を見つめていった。

 「彼は最後に、一つの言葉を口にしたのだよ」

 「何と?」

 「その言葉を知るには、君はまだ早すぎる。それに、その言葉を知ったからといって、君がその言葉に辿り着いたことにはならない。想像するにとどめておきなさい」

 「なによ、もったいつけちゃって」

 「どうやら私も秘蜜に酔ってしまったようだ」

 そういって微笑を浮かべると、ハインは再び窓の外を眺めて物思いに耽り始めた。

 馬車がするすると音もたてずに草原を走っていく。

 マリィは思い出していた。クリフと最後に出会ったときの場面を。

 それは、コレッタが処刑される日が決定した直後のことであった。

 クリフが悪夢に悩まされなくなったのである。それまでクリフを捕らえて放さなかった悪夢が消え去り、マリィの『子守唄』がなくとも安らかに眠れるようになったのである。そのことがマリィには意外だった。あれほど信頼していたコレッタが毒殺未遂の犯人であり、しかも処刑されるというのである。それが決定したとたんに、悪夢から解き放たれるというのが、不自然に思えたのだ。

 悪夢を克服したことを喜びながらも、訝しげな表情をするマリィに、クリフはいった。

 「ねえ、マリィ、僕が悪い夢に悩まされなくなったのは、マリィの教えてくれたことが、なんとなく分かったからだと思う。だから、マリィのおかげさ」

 「私がクリフ様に、何かお教えしましたでしょうか」

 「心の炎の話さ。大切なものは、決してなくならない。それは自分の心の炎を燃やし続けるって話だよ」

 マリィは思い出した。少年に、心の炎の扱い方を少しだけ教えたことがあったことを。

 「ぼく、大切なものが何か、ずっと考えてた。そしたらある日、心の中の炎に気付いた気がしたんだ。そうしたら、マリィが言ったみたいに、暗闇が怖くなくなったんだ。その炎がいやな夢を追っ払ってくれた。炎の輝きで、真っ暗な闇が消え去ってしまったみたいだった。ぼくは、その炎が消えないよう、強くなるように祈るようになったんだ。なんだか胸の中があったかくなってくるんだ。そうしたら、いやな夢を見なくなったのさ」

 「……それはよかったですね」

 そう微笑を浮かべて言いながら、マリィは少年の心のうちを察しきれずにいた。コレッタの処刑は近く、伯爵の狂気は進む一方だというのに、少年は晴れやかな表情を浮かべていた。確かに、目覚めのすがすがしい笑顔は、彼が悪夢を見なくなったことを表していた。だがマリィには、彼の心の中で起こった炎の変化が、まったく理解できなかった。

 マリィは心を解き、少年の心の炎を視た。

 かつて視た、幼い脆弱な炎ではなかった。それは、灼熱の炎だった。その余りの熱気に、瞬間、マリィは心を結んだ。その輝きに瞳が潰されてしまったようで、視界が真っ白になったまま、しばらくマリィの視力は戻らなかった。その炎には、到底少年のものとは思われない、確固たる決意が秘められていた。無限のエネルギーをその内部から放出し続ける小恒星のような炎が、先日まで風前の灯火であった少年の心に宿っていたのだ。

 それが、コレッタを救い出すため、伯爵の暗殺へと結びついているとは、想像できなかった。その炎は、憎悪でも、復讐でもなく、殺意でさえない。あえて言葉にするなら、使命感、そのような炎であった。

 マリィには、この城で起こった事件の全貌を知ることはできなかった。心の炎を視ることでおぼろげながらも真相を掴むにはいたったが、それもウロボロス城を後にし、ハインから話を聞いてからのことだ。

 月明かりの下、枯れ草で覆われた大地を眺めながら、マリィは少年の未来に思いを馳せていた。あの小恒星のような炎は、いったいどこへ行くのだろう。その光で、この世を遍く照らし出し、その熱気で温めるのか、或いは、余りの眩さに影さえも消し去ってしまい、大地を焦土と化すほどに焼き尽くしてしまうのか。

 旅人であるマリィは、自分が去った後、あの奇妙な城で新たに始まるであろう物語を想い、祈らずにはいられなかった。少年がその炎の扱い方をあやまらないように。自らの心ごと炎に呑まれてしまわないように。

 ふいに、コレッタのふっくらとした天真爛漫の笑顔を思い出した。

 微かな胸の高鳴りを聞いた気がした。

 いつか彼女の口から新しい物語を聞きたい。

 私が去った後の、この城の、コレッタ自身の物語を。

 きっと彼女なら、素敵な語り手になってくれるだろうから。

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シャルラタンの劇薬 八咫朗 @8ta

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