第七幕 錬金術師ハイン フラスコの中の宇宙(4)

 聖堂の窓から月明かりが射している。傍らには自らが先ほどまで納められていた棺があり、黒が艶やかに映えている。静寂のなか、石畳にこつこつと足音を響かせながら窓際に近寄ると、ハインは清清しい思いで満ちた月を仰いだ。

 月と星の位置から正確な時間を計測したハインは、仮死の薬が精妙な持続性を持っていることに満足した。今頃、城の住人達は深い眠りについているだろう。死者を弔うために霊朝に奉納されていた特別な蝋燭は、ハインが前もって製造したものである。その蝋燭には、半ばから眠りの霊薬が溶かされており、少しずつ蝋燭が短くなるにつれ、下半分に溶けた霊薬が香りとなって城に広がり、やがて充満していくように計算されていた。

 眠りの香気をを吸い込んで眠り込んだものは、揺り動かそうとも目覚めることはない。今や城中が重く深い眠りに包まれ、起きているのは密閉された棺の中で仮死状態にあったハインだけであった。

 広大な城でたった一人、自由に夜を闊歩するハインは、己の実験を成し遂げようと歩みを進め、城の地下、奥深くへと螺旋回廊を降りていく。細長い塔のような回廊を降りると、大量の蜂蜜樽が収められた広間に出る。辺りにはすでに、地下から月の引力によって染み出した月の雫の粒子が漂っている。それらが蜂蜜に少しずつ溶け込み、やがて秘蜜へと変貌するのだ。その広間の中央の床には鋼鉄製の網が円形になって嵌め込まれている。月の雫は光に弱い。ランプを灯すことのできない濃い闇の中でハインは一切の視界を奪われていたが、記憶した設計図によって正確に自らの位置を理解していた。闇の中で、鋼鉄の網の上に立ちながら、更なる深い奈落を覗き込んだ。設計図によれば、城の底は巨大なフラスコのようになっている。精密な球形の部屋は、実験時に生じる強烈な圧力にも耐えうるような構造になっており、大地の重みがその支えとなるように計算されていた。フラスコの内部には、二百年分の月の雫が不純物とともに溜め込まれている。

 一切の混じりけのない、完璧に純粋な月の雫を抽出するためには、これほどの巨大で大掛かりな装置と、そして二百年という時間が必要だった。しかしそれも、一人の人間を尺度としてのことだ、そうハインは思う。月の雫がもたらす秘蹟によって、そんな小さな尺度は意味をなさなくなる。月の雫は、人間をして、個としての人智を超越した存在へと昇華させるのだから。

 実験装置の修復と準備は全て終わっていた。後は、歯車を回す最後の火を点火させるだけだ。フラスコの中にある炎を入れることによって、城の全てが稼動し始めるように設計されていた。無論、炎は一般的な炎ではない。錬金術師が発見し、操ることを可能にした火の新種。多種多様な炎の中でも、その扱いが難しく、希少な種である『劫火』という黒い炎でなければならない。その炎は暗黒の小恒星であり、熱、温度といった尺度では測れない炎の亜種、飢えた炎である。あらゆる物質を消滅させ、後には灰一つ残さない、虚無へ飲み込むだけの炎。その煙に呑まれた空間内の物質を消滅させる。劫火は志向性のある炎であり、空気と空間、そして光を目指して流れていく。周囲の壁を伝い、出口を求めて彷徨う煙のようなものである。光を喰らうその炎は、闇を発生させ、辺りを夜へと変貌させてしまう。

 奈落の底を覗き込むと、ハインは劫火の火種が封じ込まれた袋を懐から取り出した。その袋は絶滅種である火竜の胃袋で作られたもので、熱と闇を完璧に遮断し、保存することができる。その中に、劫火の火種が燻っていた。

 あらゆるものを焼き尽くし、無という暗渠に引きずり込んでしまうという地獄の炎。それこそが、月の雫を純化させる唯一つの手段だった。劫火は、月の雫以外の物質を無へと還すことができる。夜の産物である月の雫だけが、劫火の闇と虚無に晒されてもなお存在し続けることができるのである。

 火竜の胃袋の口を開き、鉄の網の間からそっと落とし入れる。闇の中、劫火の火種が微かに弾ける音を響かせながら落下していった。後は劫火の火種がフラスコの中で燃え上がり、月の雫以外の物質を焼却してくれるのを待つだけだ。球体の中で温度は灼熱になり、天井知らずに高まっていく。空気を求めて劫火は少しずつその水位をあげていき、地の底から月の雫を押し出していく。闇の斥力に圧縮された月の雫は無数の粒子を結合させていき、一垂らしの液体となって結晶化される。そうしてようやく、月の雫をこの世へと留まらせることができる。月の雫とは夜から搾り出された光の変種。夜の闇に象られなければ形質を保てない不安定な光。それを物質化するためには、劫火による超高密度の闇に晒さなければならない。

 ハインは奈落から顔をあげると、闇の中に背を伸ばし、その瞳に光を宿した。表情は喜悦に歪み、口も瞳もにんまりと細い月を描いていた。

 ――時は満ちた。月の雫が垂らされる場所へ行こう。きっと、彼もそこで待っている。

 ハインは闇にマントを翻すと、地の底から闇が這い上がっている音を聞きながら、螺旋の回廊をあがっていった。

 地下から這い登る劫火は出口を求めて彷徨い、修復によって密閉された回廊を巡り始める。回廊のあちこちに仕掛けられた鏡には、月光が反射して劫火を導くようになっている。燃やすための光と空気をたどり、劫火が這った後には一切の物質が残らない。そこには完全な真空が、無が生まれる。やがて城中の回廊を駆け巡った劫火は、最後に残されたある一点に向かって流れ始める。煙突と呼ばれる城の尖塔へ、月の雫を圧縮しながら注ぎ込むのだ。

 吹き抜けの尖塔は巨大な煙突のような形状をしており、その頂には明かり取りの窓が付いている。窓にはガラスがはめ込まれていて、そこから光が差し込むようになっている。今宵、満月がその真上に来るとき、月の光が塔の最下層まで差し込む。

 次第に細くなっていくその尖塔の頂に、最後の光を求めて劫火は殺到する。無数の頭を持った炎の大蛇となって、貪欲に生贄を求めるように最後の空間へと襲い掛かる。月の雫が精製されるのは、その瞬間である。劫火の全ての圧力、熱量が、尖塔の内側、くぼみ、鋭く尖っていく一点に向けて凝縮される。満月の引力が最大限に発揮され、感応した月の雫はその形質を活性化させる。降り注いでいた月光は月の雫に吸収され、遮られる。劫火は閉ざされた空間の内部、降り注ぐ月光の全てを食いつくし、燃やし尽くしていく。

 と、光と空気という生贄を失った劫火は一転して衰えていく。食べるものがなければたちまち餓えてしまう劫火は、瞬く間に掻き消えていく。

 残されるのは、尖塔の頂、明り取りのガラス窓の裏側に張り付いた月の雫の結晶だけだ。

 劫火のルートから逃れるため回廊からひとたび脱出したハインは、石壁に耳をそばだて、劫火が過ぎ去っていくのを聴いていた。空気と光が燃やし尽くされる瞬間の轟音が過ぎ去った後には、真空の静寂だけが広がっていく。そうして回廊の外側から劫火が過ぎ去る音を確かめながら、少しずつ尖塔へと近づいていった。十分な時を経て、ハインは劫火が餓えて消え去ったことを確信すると、尖塔の入り口の前に立ち、その脇に備え付けられた、鋼鉄のリングを回し始めた。今、尖塔の内部は完全な真空状態である。このままでは空気圧によって扉を開くことはできない。内部に空気を送り込まなければならず、その鋼鉄のリングは、尖塔への空気穴を開閉する手動式スイッチだった。

 尖塔の内部に空気が送り込まれ、風が塔内に流れ込んでいく音を微かに聞いた。空気圧によって固く閉ざされていた尖塔の扉が軋み、手をかけることなくゆっくりと開いた。急激な勢いで流れ込んだ空気が塔の内部で風となって荒れ狂い、扉を押し開いたのだ。

 尖塔の内部に入ると、ささやかな月明かりの中で、劫火の余韻がそこかしこに漂っていた。それは気配といってもいい。色も匂いも手触りも、一切の現実感が削ぎ落とされた空間が遥かな高みにまで広がっていた。壁に触れてみる、しかし一切の手触りが伝わってこない。固さも、冷たさも、肌に触れているという感触さえも、何一つ感じられなかった。

 ハインはその感触に身震いした。完璧な無に自分の意識が落とし込まれたときのことを想像し、恐怖を覚えた。あらゆる世界から拒絶され、五感を遮断された世界。全ての関係性を剥奪され、痛みすら存在しない虚無。死の存在しない生、永遠という果てしない牢獄。その鮮明なイメージに全身に鳥肌が立った。

 ハインはそのイメージから逃れるように、螺旋回廊を上っていった。見上げると、頭上には月の光を存分に湛えた月の雫が、波打つ光を放っている。二百年分の月の雫、月の光の純粋な結晶が、ハインを誘う星のように輝いている。

 階段を上がるにつれ、その結晶の輪郭が明らかになっていった。ほんの小さな、親指の爪ほどぐらいしかない宝石が、幾重にも光の輪を放っていた。近づいても光は強くなることはなく、いつまでもささやかで、むしろ柔らかな優しさを増しているように感じられた。

 やがてハインは尖塔の頂への扉へと辿り着いた。階段の終わり、天井に鉄の扉があった。閂をはずし、扉を押し開けて外にでると、そこには夜が広がっていた。風が頬に心地よく、肌寒さが堪らなく嬉しかった。見下ろした城は巨大で精密な箱庭のようで、ちらちらと篝火の灯る街は青ざめた風景画のように見えた。

 満月の光が強く、星々は色褪せていた。自分は今、夜の底に立っているのだ、ハインはそう思った。すり鉢上の地の底で、満月を頭上に冠した夜を、自分が支えているような錯覚を覚えていた。

 月光を浴びながら、ひとしきり自らの想像を楽しむと、ハインは円形をした塔の中央へと歩み寄り、はめ込まれたガラス窓に手をかけた。窓の内側からは結晶化した月の雫が光を放っている。鍵を外し、窓を内側に開いた。美しい球形をした月の雫が、しっとりと濡れるようにしてガラスに張り付いていた。思わず陶然とし、深いため息がこぼれた。実験は成功していた。これこそ紛れもなく月の雫、その純粋結晶。アインに到達し、アインを超越する究極の物質なのだ。懐から実験用の手袋を取り出し両手にはめる。さらに小瓶を取り出すと、ガラスの栓を外して傍らに置く。そっと結晶を掴むと僅かな弾力性をともなっていて、その表面に漣が立った。 注意深く、掬い上げるようにして掌に載せる。ガラス窓からきれいに剥がれるようにして掌に包まれた。そのまま口元に運び、啜りこんでしまいたい欲求に駆られる。しかし、まだ早い、まだ彼が姿を現していない。二百年待ったのだ、もう少し、この瞬間を楽しもうではないか、そう自分に言い聞かせる。月の雫は掌の中で丸くなり、ふるふると震えている。まぶしくはない。光はささやかに波を打っている。

 掌からそっと、転がすようにして小瓶の中に入れる。小瓶の口からとろりと注ぎ込まれた月の雫は、小瓶の中でやはり円く形を整えて納まった。

 立ち上がり、小瓶を満月にすかして見る。天上の月と雫が重なる。

 夜に月が満ちている。夜の隅々までを照らす月が、地上に降り注いでいる。

 この月の下に、いったい幾つの夜があるというのか、如何なる眠りが、夢が、夜達に湛えられているのか。

 夜を照らし、また夜に照らされる月にこそ、私は焦がれる。数多の星々をその懐に侍らせ、従える夜、夜を遍く象りドレスとして身に纏う月。夜を穿ち、覗き穴のように人の世を見下ろすその地こそ、私が超越者として望む場所。私は今宵、たった一つの太陽ではなく、見上げる人の数だけ存在する無数の月となって、それぞれの夜を輝かせるのだ。

 ハインが月から小瓶を外し、視線を下の落とすと、そこに二人の人間がたっていた。一人は背の高い、見たことのない男だった。男が傍らに従えているのは、ハインも知っている召使い、魔女マリィだった。

 忽然と音もなく出現した二人を見る。ハインは驚くようなそぶりも見せず、にやりと満足げな笑みを浮かべていった。

 「待っていたよ、ハイン」


 滴り落ちそうなほどに満ちた月の下に、二人の男が対峙している。

 少女を従えた一人は黒い鍔広の帽子を目深に被り、やはり黒い外套ですっきりと長身を覆っている。帽子からは金色の髪が無造作に波打っている。垂らされた前髪の隙間から、片目だけが僅かに覗いている。青白い肌が月に映え、透き通りそうなほどである。歳は三十ほどだろうか、いや二十歳のようにも見える。顔の輪郭は美しい曲線を描いており、柔らかな雰囲気を醸している。瞳と眉も髪と同様に金色の光を集めている。まっすぐ鋭く整った鼻の下に綺麗に整えられた口髭があり、唇を隠している。どこか人形めいた若い美貌の紳士、対面の男はそんな印象を抱いた。

 「なぜ私の名を騙ったのだね」

 黄金の髪の男がそう尋ねた。声は小さいが明瞭で、真っ直ぐ頭に響いてくるようだ。

 「貴方の気を惹くため、いや、貴方に見つけてもらうためさ」

 そう、男は自らの自我を伯爵の内部に芽生えさせたとき、自らに名前を付ける必要があった。彼の自我は『アインのレプリカ』『アインを目指すもの』であり、名前は彼にとってただの記号でしかなく、何でもよかった。思いついたのが、ハインという有名な錬金術師の名であった。生きながらにして伝説であり、子供達の御伽噺にも登場するその人物は、しかし、その存在の有無さえ定かではない幻の存在である。伯爵の中に生まれた新たな自我は、伯爵の記憶からそのことを知った。そして観測者として彼を呼び寄せるため、その名を騙ることにしたのだ。

 「無数の伝説、物語に彩られたハインという名の錬金術師。もしも自分がその名を騙り、新たな伝説を生み出そうとすれば、その名を汚されることを恐れた貴方が私の前に現われてくれると考えたのだよ」

 そしてその目論見は成功した。私は計画通り、このように貴方の使いである少女と、あなた自身を誘き寄せることができたのだ――ハインを騙っていた男は、計画の完成を目前にし、口の片端をゆがめて笑みをこぼした。貴方の目の前で、ハインとしてこの実験を成し遂げることで、貴方の伝説、貴方の物語の全てを私は継承するのだ。

 ハインの名を騙った錬金術師は、月の雫の入った小瓶を顔の横に持ち上げ、愛しそうな視線を向けた。

 「この月の雫こそ、アインが理論上は完成させながら、時の制約により、ついに精製しえなかった究極の物質。この霊薬を飲み干した瞬間、私はアインの継承者として全てを受け継ぎ、そして彼をも超越する。全ての物語は下僕としてひれ伏し、我が一部として従属するだろう」

 名を騙られた男は、哀れむように答えた。

 「貴方は継承者ではなく、ただの剽窃者だ」

 「その二つがどう違うというのだね。現象としては全く同じことではないか」

 男は得意げに突き放す。

 「では、その月の雫がどのような効果を発揮するのか、本当に分かっているのかね」

 「無論だ。自我が肉体から解き放たれ、時空を超越して一瞬に溶け去る。その瞬間、私は全ての人間の『今』を味わうことができる。貴方も錬金術師の端くれなら知っているはずだ。世界は人の数だけ存在することを、『世界』に向ける視線、眼差しこそが、世界を象っていることを。この月の雫は、あらゆる人間の視線を己のものにする。その一瞬、この世の真実の姿を見ることができるのだよ。世界の一隅にしか過ぎなかった『私』という一つの物語は終わり、無限の物語達が始まりを告げる。永遠に訪れることのない明日を夢見て、私は夜を彷徨い、照らし続ける」

 「だが果たして、それでアインを超越することが可能だろうか。貴方は全てが自らの計画通りに進んだと思っているだろう。だが、実はそれさえも数百年前にアインの描いた筋書き通りに踊らされているだけなのだよ。ハインにも、ましてやアインにもなることはできない。残されるのは、一瞬に溶けた君のデスマスクだけだ」

 「そんなことは解っている。だが、私もまた秘蜜に取り付かれてしまったのだ。自分ではない他人の生というものへの尽きせぬ興味に溺れてしまったのだよ。もはやこの誘惑に抗うことはできない。誘惑を断ち切った瞬間、私という自我は生ける屍として消滅してしまうだろう」

 「そうか、ならば何も言うまい。飲み干すがいい。その霊薬を」

 男はその言葉に頷き、歓喜に震えながら小瓶を傾けた。そして満ちた月に向かい、吼えるように、最後の言葉を叫んだ。

 「見るがよい、そして記憶に焼き付けるがよい。私は今こそ一瞬に溶け、その瞬間、全ての人間の生を味わいつくすだろう。そしてその刹那に、私の顔は『神の相貌』を為すのだ。お前が観測者だというなら、アインの正統な末裔だというなら、語り継ぐがいい、神の相貌を。我がデスマスクを、象るがいい。永遠に残るように精緻な彫像にして、模倣するがいい、量産するがいい。

 今、この瞬間、私は神となる――」

 男は月の雫を飲み干した。

 刹那、対峙したもう一人の男は、傍らの召使いの前で黒いマントを翻してその顔を隠すと、少女の耳元で小さくささやいた。

 ――顔を見るな、耳を閉ざせ、マリィ、心を壊されてしまう。

 男の背後で小瓶が落ちて割れる音がした。少女の耳に男の掌が被さる。少女は静寂のさなか、何かの声が聴こえたような気がした。一瞬のことだったが、その声の残滓は余韻となって夜に響いていった。後には不快な耳鳴りと、再び静寂に包まれた夜が残されるばかりであった。

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