第七幕 錬金術師ハイン フラスコの中の宇宙(3)

 城の地下に溜め込まれた月の雫は、高濃度に圧縮されて閉じ込められている。しかし満月の夜には僅かに膨張し、微かに城内へと漏れ出すようになっていた。私は地下の一室に蜂蜜樽を設置し、蜂蜜の中に微量な月の雫を溶け込ませ、秘蜜を精製させた。秘蜜はかつて聖教会が布教する際に利用され起爆剤となったものだ。私はまずそれを用い、伯爵、貴方を秘蜜の虜としたのだ。

 この城は二百年の間に幾度かの戦乱を経ており、城主も何人となく代わっている。その間に勝手な改築や増築が行われ、或いはところどころが綻び、純粋な月の雫を精製する最後の機能が失われていた。私は数年という時をかけ、アインの書を解読しながら、この城の装置としての機能を理解し、修復しようとした。大掛かりな実験装置はいくつかの部位に分かれており、それら全てが完璧に機能しなければ、精製は失敗してしまう。本番はたった一度きり、失敗は許されない。そんなことになれば再び二百年後を待たなければならない。

 私は秘蜜という月の雫の出来損ないを用いて様々な実験を幾度も繰り返した。そうするうちに、秘蜜が外部に漏れ出し、城の住人達に影響を与えるようになった。いや、そもそも、秘蜜は地下で二百年の時を経て、飽和状態にあった。私が実験を前から、少しずつ漏れ出していたのだ。私は秘蜜によって人々が変わりゆくその様を、実に興味深く眺めていた。伯爵、貴方を含めて、秘蜜で狂わされていく人間を眺めているのは実に面白い実験だった。アインもまた、二百年前、月の雫を研究する過程で滑稽な人間劇を目にしたことだろう。自分の体が思うようにならない私は、貴方が秘蜜を広める過程で得た人々の秘密を弄ぶことで飢えを満たしていたのだ。秘密というファクターを通して人間を覗き見れば、実に如実にその所有者の人格を知ることができる。他人の人生を鮮烈に味わい、体験することができる。秘密とは所有者の人生のエキスのようなものだ。貴方の肉体と切り離された精神である私もまた、僅かではあるが、秘蜜の影響を受けていたのだろう。秘密から垣間見える人の生は、実に生き生きとした生々しい感情に満ちていて、甘美な快感をもたらした。

 やがて私は、貴方と同じように他者の秘密に飢えるようになっていった。そしてある日私は、月の雫がその欲望の延長線上、欲望を極めた果てに存在することを解読したのだ。

 この世に生きる無数の人間。国境を越え、大地を越え、海を越えて住む無数の人間達。彼らの人生を味わいたい、全く異なる土地で、社会で、世界で多様な生き様を晒す人間たちの生を味わいたい――そんな果て無き、叶うはずのない夢想。月の雫はそれを現実のものとすることができる。

 月の雫は、人の精神において時空を超越させる霊薬。一個の肉体から解き放たれ、時の頚木から逃れ、空間の制約を越える作用を引き起こす。分かるかね、伯爵。理論上では、誰もが一個の生を、一個の魂を体験することしかできない。しかし一定量の月の雫を摂取した人間は、その心を異次元の存在に変質させる。肉体から分離した心は、その瞬間、世界中のあらゆる人間の心へと放散する。その一瞬を生きる、全ての人間の生を体験することができるのだよ。考えて見て欲しい。人は己の伴侶であれ、友人であれ、自分以外の人間がどのようなことを考えているかは分からない。それぞれの過去、道程も未来も全く異なるものだ。しかし月の雫はその境界を失わせる。その一瞬、それぞれの人間の「今」と同化し、過去も未来も含めて追体験することができる。数億という人間の人生を、その瞬間を定点として体感するのだ。

 例えば、妻の愛を信じて疑わない男と、こっそり不貞を働いている妻、母親の秘密を知っている息子、不倫相手である隣家の男、彼らの感情を同時に体験できる。今まさに死刑を執行されようとしている革命家と、その首を落とそうと斧を構えた執行者、それを壇上で眺める王、密告者である革命家の友人、シュプレヒコールをあげる群集、彼らを押さえつける衛兵、それぞれ異なる視線で同じ光景を目にする者たちの思いを、余すことなく感じる。奴隷と支配者、父と子、妻と夫、師と弟子…、ありとあらゆる人と人との繋がりを、それぞれの立場に立って味わいつくす。

この瞬間、地平の果てで羊を放牧させながら鼻歌を歌っている人間もいれば、小鳥の声に清清しい朝を迎えるものもいる。判決を待って衰弱しきった人間もいれば、子供のために朝食を作っている母親もいる。到底語りつくすことのできない、書物になど著すことのできない全てが、いま、まさにこの瞬間も紡ぎだされている。

 伯爵、考えたことはないかね。もし神がいるとしたら、いったいどのような顔をしてこの世をご覧になっているのだろう、と。神が全能の叡智であり、神の似姿だとされる我ら人間にその眼差しを等しく、そして遍く捧げているとするなら、人間のあらゆる喜び、哀しみ、怒りを感じているはず。感情という『痛み』を、自らの表情に映し出しているはず。

 私は思うのだよ。

 神とは全ての人間の『痛み』を体現したものではないか、と。

 遍く宇宙を見渡し、我ら人間の心と体を持って、無数に偏在するこの世を余すことなく体感するものこそ、神と呼ぶにふさわしいのではないか、とね。

 月の雫とは即ち、人を神へと昇華させる物質なのだ。

 月の雫は人の心を『一瞬』に留まらせる。時間の流れを止め、人から人へと『今』を受け継いでいく。摂取したものは永遠に、『今』という瞬間に遊び続けるのだよ。

 どうだね、伯爵。想像するだに甘美なことではないかね。

 このように煩わしい化粧品や醜い鬘で造形した顔など、所詮は仮初のものでしかない。

 全ての生を味わいつくす、無力にして全知の神、その顔こそ、私のマスクにふさわしい。

 月の雫を手にしたとき、私はアインさえも到達できなかった高みに跳躍することができる。そのときこそ、私は他のアインの後継者達を凌ぎ、到達者を越えた超越者としてこの世に君臨することができるのだ。


 私は鏡の前で幾度も顔を造形し直し、自分の顔を、心とともにアインに近づけていこうとした。記憶の中ではっきりとした輪郭を持たないアインは、掴めそうで掴めない月のような存在だった。方向ははっきりとわかっているのに、どれだけ歩いても、全く距離は縮まっていかない。いつまでも遥か彼方に輝き続けているのだ。自我がはっきりとしてくるにつれ、自分とは誰で、何者なのか、そんな思いが私を空虚にするようになった。

 変装をして貴方の心を眠らせていても、城仕えのものに見つかっては、不審者として捕らえられてしまう。変装がばれてしまえば、私は貴方に意識化に永遠に封じ込められ、一生を影として、観客として生きていかなけれならない。私が自由に城を移動し、実験装置である城の修復を行うには、どうしても城の住人達への認知が必要だった。城主である貴方に、客人としての後ろ盾をもらわなければならなかった。といっても貴方に城の住人達の前で私を紹介できるはずもない。体は一つしかないのだから。私は一計を案じ、貴方に紹介状を書いてもらった。貴方の留守中にこの城を訪れるという筋書きでね。

 この城の客人となった私は、神出鬼没の錬金術師として気味悪がられながら、城の住人達と接触を試みた。彼らと話すのは実に楽しかった。私は私という人間を演じることに言い知れない喜びを覚えていた。私は自分という人間を探しながら、アインに近づこうと、記憶のイメージを頼りに、何人も人格を演じてみせた。数十という人格を統合させようと、アインの心をなぞるように振舞った。知っているだろう、城に住む者たちの見た私の外観が、人によって異なっていることを。私は神出鬼没なだけでなく、幾つもの仮面を使い分けながら城の住人達の前に現われたのだ。

この城に住む者たちは誰もが秘蜜の影響を受けている。地下に溜め込まれた秘蜜は、今や飽和状態に近い。満月の夜ごとに微量ながら城に漏れ出し、甘い香りを漂わせる。秘蜜に侵された人間は少しずつ精神のバランスを狂わせていく。貴方を含めて、その様を眺めるのは実に興味深い実験だった。中でも、司祭であるチェプストーは滑稽であった。彼は秘蜜がこの城の地下で精製されることを突き止め、その事実を教会に漏らそうとしていた。だから君に気付かれないように、私が月の雫の実験台として使わせてもらった。それまでの数千倍まで濃度を高められた秘蜜を一気に摂取した彼は、自我が肉体を突き破り、悶死してしまった。そのときの表情が、実に興味深かった。彼は永遠にも引き伸ばされた『今』の一瞬で、数十年分の感情、快楽、苦痛を一気に経験したのだ。その顔には、その全てが反映されていた。私は蜜蝋によって型をとり、デスマスクにしてその実験成果を採取した。そして月の雫の完成が近いことを確信したのだ。

 誤算だったのは、何者かが伯爵、貴方を、つまりは私を殺害しようとしたことだ。私達は偶然にも一命を取り留めた。しかしこの城の城主を、親子ともども殺害しようと明確な意思を持っているものがこの城にいたのだ。しかもこの私も殺害計画に全く気付かなかったのだから情けないことだ。月の雫の完成も近いというのに、その前に殺されてしまうわけにはいかない。城の住人の誰かが犯人であることは疑い得ない。一度目は幸いにも失敗したが、いつ、どのような手段で命を狙われるか分からないのだ。

 そこで私は、犯人を探り出すこと、実験を成し遂げること、この二つの役割を果たす絶好の人間を思いついた。それが、人々の秘密を蒐集する中で知った少女、魔女の遺伝子を持つマリィだ。

 その少女が人の心を読むことができるらしいという情報は、複数の豪商たちから得ていた。それが犯人を突き止める役に立つと考えた。またその黒髪は、城の住人達の、不審者である私への視線を反らしてくれるとも考えた。そしてもう一つ、彼女はこの実験を記録させる『観測者』をおびき寄せる呼び水になって貰おうとしたのだ。

 観測者、それは、私の最後の実験を観察、観測し、記録として残してくれる人物だ。錬金術が廃れてしまった今でも、アインの遺産は各地に存在し、新たなアインの後継者を生み出そうとしている。私が所有している一冊の書物のようなアインの破片が、世界中に散らばっているのだ。彼らはアインの伝説を巡り、足跡を辿り、その破片を探し出そうとする。破片を巡って争い、時に協力して究極の物質の謎を解き明かそうとする。そして誰もが唯一無二の存在であるアインに到達しようとし、越えようとするだろう。

 月の雫を摂取することで、私はアインを超越する。アインさえも到達できなかった高みへと跳躍する。だが、錬金術師である私自身が、最後の実験対象となってしまうため、もはや客観的な記録として残すことができない。私の最後の実験を記録し、伝える人間が必要だった。新たに到達者になろうとする錬金術師に、アインを越えた人間が存在したことを知らしめなければならない。自らの実験成果を後継者に受け継がせる、それがアインの継承者としての最後の務め。私の実験はそれをもって完成するのだ。

 私は貴方の記憶から、一人の錬金術師の名を知っていた。伯爵、貴方も知っているはずだ。夜を纏い、暗闇にまぎれて各地を流離う奇妙なサーカス団と、それを率いる錬金術師のことを。シャルラタンと呼ばれる闇の興行師達。彼らは国境警備をものともせず、神出鬼没に出現しては事件を起こし、煙のように消え去ってしまうという。彼らには、各国の公式、非公式な組織、数十団体から懸賞金がかけられ、その総額は莫大な金額となるという。しかし誰も彼らの消息を掴めず、捉えられずにいる。そして奇妙奇天烈な団員達を率いる団長が、一人の傑出した錬金術師だという。

 彼をこの城に呼び寄せなければならない。では、各国の追跡網にも引っかからず、幻のように影さえも踏ませない彼を、どうやってこの城へと招くのか。そこで目をつけたのが噂で耳にした一人の魔女だ。シャルラタンの団員に魔女がいることは分かっていた。しかしそれがあの少女であるかどうか定かではなかった。私は彼女を所有していた豪商から話を聞き出し、マリィが団員であることを知った。あの召使いを雇ったのは、この城にアインの遺産を継いだ後継者がいることを、居所の分からない彼に伝えるためだったのだ。錬金術師であるならば、アインの遺産に興味がないはずがないからだ。

 全ての実験装置は整い、月の雫が精製されるのは、もはや明日の満月を待つばかりだ。明日の夜、城の地下に満ち満ちた月の雫が月の引力を受けて膨張する。そのときに城という装置を起動させることによって、二百年分の月の雫が、純粋な結晶として精製される。明日は二百年というときを待ち続けたこの城の最後の一日となる。

 あの召使いにはすでに計画の全貌が漏れている。私が意図的にもらしたものだが、観測者になってもらう団長とやらにも我が意思は伝わっている。差出人不明の手紙が先日届けられただろう。全く読めない文字が記されていて、貴方がすぐに捨てたあの奇妙な手紙さ。そこには錬金術師にしか読むことのできない文字が記されていた。団長よって、闇に紛れこの城を訪れることが記されていた。いや、すでにこの城の何処かに紛れ込んでいるやもしれない。

 伯爵、貴方が殺害未遂の犯人として幽閉したコレッタという召使いがいるだろう。実は彼女は犯人ではないのだ。真の犯人は、君の実の息子クリフなのだよ。侍従であるコレッタは、貴方の息子をかばって自ら罪を認めたのだ。なぜ息子が君の命を狙ったのか分かるかね。少年は知ってしまったのだ。君が秘蜜に溺れ、罪悪感を快楽として得るようになってから、すでに取り返しの付かないほど狂気に染まっていることを。彼は君の奥方と同じく、地下の地獄絵のコレクションを見てしまった。そして自らの母親の気が触れた真相も知ってしまった。

 息子は、貴方を止めるために、殺害しようとしたのだ。そしてこの城の城主となって。自らの意思で領地を治めることを幼いながら決意した。あのコフという家令が信奉する帝王学という学問を知っているだろう。帝王学には、帝王を生み出すという方程式がある。感情を伴う経験としての秘密の七項、それが帝王たる器を完成させるというものだ。その一つが、『父親殺し』だ。あの家令の策略により、クリフは誘導され、貴方を殺そうと試みた。一度は迷いながら実行に移し、失敗してしまった。しかしコレッタが処刑されたと聞き、ついに決意したのだ。

 そう、貴方がさっき飲んだ薬さ。泥に纏わりつかれるような眠気を引き起こしているのは。息子の手で渡された水差しに含まれた薬が、今貴方を眠りにつかせようとしているのだ。あの薬は私が調合した仮死の薬、心を殺してしまう薬さ。感情や興味を失わせ、生きる気力も、生存本能も、全てを虚無へと貶める霊薬。心が生きる意志を失うと、体もそれにならう。鼓動はゆっくりとなり、神経は途切れ、冬眠状態になる。やがて呼吸も止まり、体温が下がると、完全に死と同じ状態になる。あくる朝、侍従が貴方の遺体を見つけるだろう。医師にもそれが仮死状態だとは分からない。君の息子は、自らの計画が終わったことを知るだろう。君は仮死のまま聖堂の霊室に収められ、葬儀を待つことになる。

 明日、満月の夜、聖堂の中で私は仮死から目覚めるだろう。そしてそのときには、この体は私のものとなっている。秘蜜の大量摂取と禁断症状で弛緩しきった貴方の心は、私の調合した薬によって永遠に虚無へと貶められるのだ。

では、さよならだ、伯爵。明日を夢見たまま眠り続けるといい。それこそ、貴方の息子が最後に与えた祝福なのだから。

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