第七幕 錬金術師ハイン フラスコの中の宇宙(2)

 私は自我を芽生えさせてから、貴方の書斎に無造作に投げ置かれていたアインの書物を盗み、鏡台の下に隠した。そして鏡の前に貴方が立ったとき、意識を奪って読みふけった。意識を乗っ取れる時間はわずかではあったが、少しずつアインの記憶が私の中に流れ込んできた。彼の思考、彼の過去が、きらきらと光る破片となって私の脆弱で空ろな自我に散りばめられていく。それは甘美な魅力を備えていた。

 鏡の前で貴方を私の意識化に眠らせていられるのはせいぜい一時間といったところだった。時間が過ぎ、無理やり眠らせていた貴方が目覚めると、私は貴方の影へと戻らなければならなかった。貴方の体を完全に乗っ取るまでは、私は自分が貴方の内部に存在することを悟られてはならなかった。そのため私は、貴方が眠り込んだ夜にひっそりと研究を重ねていった。それはアインの書物の解読が進むにつれて、少しずつ己の自我がはっきりと克明に象られていくのが分かった。やがて貴方が眠っている真夜中であれば、私は五体を操れるようになっていった。貴方が夢遊病者のようになって、ふと目覚めると寝台ではない別の場所にいることが幾度もあったろう。それは私が城を散策しているときに、貴方が目覚めてしまったからだ。貴方の頭に遠くから語りかけている振りをしたりと、私に気付かないかと、ひやひやしたがね。そのうち、鏡の前で意識のある貴方を眠らせておける時間も少しずつ長くなっていった。アインの自我が、論理が、記憶が刻み込まれていった。

 そして私は知ったのだ。この城に秘められた、アインの過去を。この城がアインの遺産であり、彼がこの城で壮大な実験を行っていたことを。そして二百年が経った今も、まだその実験は続いていることを。

 この城そのものが、アインの設計した巨大な実験装置だった。異次元の物質、月の雫を精製するための。月の雫とは、アインが発見した特殊な粒子の一種。目視することのできないミクロの物質だ。その物質は、満月の夜、人の体から微量に放出されるものだった。月の引力に引き寄せられるように人の体から放出された月の雫は、極小でありながらも重さを持っていて、地上へと舞い落ちていく。一夜の間に大地の表面にうっすらと積もる。そして朝の曙光とともに、消え去ってしまう。月の雫は陽光に弱い、闇の中でしか存在できない物質だ。

 かつてその奇妙な物質の存在を知ったアインは、それがどのような特性を持っているのかを調べようとした。しかし、それは容易なことではなかった。月の雫は余りに極小であり、また光に弱いことから、抽出することが非常に困難だったのだ。それは捕鯨用の網で一粒の砂を掬い上げようとするようなものだった。

 そこでアインはこの城を設計したのだ。この城は、月の雫を抽出するために建造されたのだ。古代の隕石の衝突によって、この街は巨大なすり鉢状の地形をしている。月の雫は下へと滑り降りていく特性を持っているため、人々の体から放出された月の雫はすり鉢を伝っていき、やがて底にあるこの城へと流れ着く。それからさらに、城の壁面に設けられた隙間から城の内部へと流れ込み、パイプを伝って地下へと落ちていく。そこは一筋の光の射さない空洞が存在する。その地底深くの貯蔵庫に、月の雫は溜め込まれていくのだ。満月の夜が訪れるごとに、少しずつ。

 それでも、月の雫が余りに微量であることは同じであった。彼の研究によれば、人一人から放出される月の雫は、その一生分を蒐集したとしても砂粒一つにさえ満たない。この城の設計者、そして奇跡の錬金術師として当時の領主の庇護を受けていたアインは、ここに街を建設した。斬新で発展的な養蜂技術を伝え、蜂蜜採取という産業の一大産地へとこの領地を育て上げた。

 城を中心として商業都市が発達し、黄金の液体と呼ばれた高級で上質の蜂蜜を求めて、多くの人間がこのすり鉢上の土地へと流れ込んだ。土地に住む付くもの、商用で立ち寄るものなど、夥しい人間がそれぞれの夢を抱いてこの地に滞在するようになった。各地から多様な職種の商売人がやってくる大市は必ず満月の日に開かれるようになっていた。そうすれば、効率よく月の雫を蒐集することができるからだ。

 そうして城の地下深くに注ぎ込まれた月の雫を使ってアインは様々な実験を行い、月の雫に関する研究を試みた。その物質の持つ不可思議な性質を解明しようとした。月の引力、その満ち欠けに応じて、月の雫がその性質を七色に変化させることを突き止め、また黄金色の蜂蜜に溶け込ませることで光を反射させ、消滅から免れることを発見した。高濃度の闇の中で熟成させることにより、半永久的に保存することに成功した。一定量の月の雫が人の精神や肉体に強い影響を与えることを人体実験から知った。月の雫を触媒とし、他の物質と混合させることで、それまで存在しなかった薬物、物質を精製させた。研究の過程では無数の悲劇や喜劇、或いは救済や奇跡が発生した。実験結果には無数の死が伴ったが、それを物語のように語ればきりがない。

 粗い月の雫の粒子を僅か数粒溶け込ませた蜂蜜は、その香りを嗅ぐだけで人々の心のバランスを狂わせ、強烈な官能を呼び起こした。もたらされる恍惚感は他の薬品にも類を見ないほどで、一度味わってしまえばもはやその余韻から醒めることはできない。過ぎ去った『瞬間』の虜になり、逃れることができなくなる。秘蜜に溺れていた貴方には分かるはずだ。とりつかれたように秘蜜のことしか考えられなくなり、再びその刹那を味わおうと躍起になって思いを馳せる。薄れていく恍惚感の後には、圧倒的な虚無感が残されるだけだ。それを埋めるために、人は再び月の雫を求めるようになる。アインはいまだ完成に至らない不純物の混合した月の雫を、秘蜜と名づけた。純粋な月の雫が数百万分の一にまで希釈され、不純物で汚濁した未完成の物質がそれだ。

 アインは研究を進め、月の雫の性質を明らかにしていく中で、一つの目標を抱くようになる。それは混じりけのない純粋な月の雫の精製である。研究して判明したのは、月の雫はそもそも、触媒として何かと混合しなければ自然界には留まることのできない異次元の物質、この世では存在を許されない、矛盾した存在であるということだ。存在するはずのない、存在してはならない、全ての理を覆す可能性のある物質。全く異なる理によって創造されたもう一つの宇宙、そこから月の引力と隕石の作用によって漏れ出した物質だった。

 その物質は精神と肉体の境界を失わせ、物質と空間の境界を剥ぎ取り、彼我の境界を消し去り、天と地の境界を破壊し、未来と過去の境界を侵し、森羅万象の境界を曖昧にしてしまう。この世の理を否定する物質だったのだ。

 アインは考えた。月の雫こそが、自身が求める究極の物質なのではないか、と。そう、究極の物質の精製こそが、アインの最終到達点であった。究極の物質が如何なる物質で、どのような性質を持ったものであるのか、それは到達者であるアインしか知らない。私が継承した記憶の断片にも、その正体は含まれていなかった。各地に残る錬金術師の伝説の中で、アインが精製した物質の名が残されている。海の原液、彫刻宇宙、風の化石、虹の源、火の絶滅種……。しかし、それらのどれが究極の物質なのか、今となっては誰も知らない。

 分かっているのは唯一つ、アインは究極の物質を完成させたということだけだ。

この城に残されたアインの書物には月の雫に関する記憶が封じられていた。しかし書物には紛失したページも多く、三分の一程度しか現存していなかった。そのため記憶は断片的であり、そして途中で途切れてしまっていた。

 アインは理論上においては月の雫の性質を解明し、その純物質の精製法も完成させていた。彼は突き止めたのだ。一定量を越える月の雫が、触媒として特定の有機質に奇跡を引き起こすことを。その有機質とは、人間だ。彼は錬金術式において証明したのだよ。月の雫が、人間という存在を、神の領域に超越させる霊薬であることを。

 だが彼自身はそれを現実に生み出すことはできなかった。なぜならば、その精製にあまりにも時間が必要であったからだ。純粋な月の雫を抽出し、触媒として十分な量を精製するには、この城という錬金術の精華を注ぎ込んで建造された巨大な実験装置、カタストロプ領という巨大な円形闘技場のような奇跡の地形をもってしても、二百年という時間が必要だからだ。

 アインはウロボロス城という装置を眠らせたまま、この地を去った。彼が去った後も、この城には満月の夜ごとに月の雫がこの城の底へと注ぎ込んでいた。二百年という時間をかけて、少しずつ溜め込まれていた。そしていつか誰かが自らの意思を継ぎ、彼の理論を実証することを祈って、この城の隠し部屋の書庫へ、一冊の書物を残したのだ。

 私はアインの書物に没頭し、決意した。アインの完成させた理論を実証することを。到達者といわれるアインさえも辿り着けなかった領域への挑戦。月の雫によって、人間を超越した存在へと跳躍することを。

 貴方の奥方が大量の秘蜜によって狂気にかられ、鏡の間と呼ばれる部屋を去ってからは、私はそこを自らの実験室としていた。貴方の部屋の隣にあるため自在に行き来でき、化粧品は無数にあり、変装用の鬘もあった。無数のドレスを切って自らの服を仕立てることもできた。何より、鏡の間と呼ばれるだけあって、あの部屋は全面が鏡張りとなっている。あの部屋の中にいるとき、私は貴方という上位自我の支配から逃れられた。

 貴方の妻に大量の秘蜜を摂取させたのはね、この私なのだ。彼女に地下への入り口を教えたのは、この私なのだよ。彼女の部屋が私は欲しかったのだ。あの等身大の鏡が散りばめられた部屋、その中にいるとき、私は自由でいられたのだから。それに彼女は、私の存在にも気付き始めていた。

 主人を失った鏡の間で私は自らの顔を造り上げることにした。鏡の制約を抜け出すため、自らの顔を象ることにしたのだ。部屋へと貴方を呼び出し、その意識を乗っ取ると、奥方が使っていた様々な化粧品や鬘などを用い、皺を描き、影を象り、髭を生やし、特製の蝋を皮膚に塗りこめ、私は私の顔を造形した。

 私の顔が象られたとき、私の目に映し出されるのはもはや伯爵、貴方ではなかった。伯爵の顔を自ら造形した仮面で覆い、その意識と肉体を自らのものにすることに成功したのだ。その変装を施している一定の時間は、夜でなくても、貴方が眠っていなくとも、鏡の前から離れ、自在に城内を徘徊することができるようになったのだよ。

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