第七幕 錬金術師ハイン フラスコの中の宇宙(1)

 息子が寝室を出ていってから数時間後、伯爵は名前を呼ばれたような気がして目を覚ました。眠りの最も深いときに起こされたようで、泥のように濁った睡魔が意識に纏わりついている。夢の中を彷徨っているかのような心地で、伯爵は錬金術師の声を確かに耳にした。気だるい気分のまま起き上がり、声にしたがって隣の部屋へと歩いた。足下が雲の上を歩くようにふわふわと心もとない。

 扉を開くと、小さなランプの灯りに、ハインの顔が浮かび上がった。

 盟主選出という明日を控えた大切な夜に起こされ、また奇妙なほどに苛烈な眠気へ抗って、伯爵は不機嫌に話しかけた。

 「いったい何かね、こんな夜更けに」

 「いや、すまないね、盟主への甘い夢を見ていたところを、無理やり起こすような形になってしまって」

 ハインは肩をすくめ、申し訳なさそうに謝ると、軽く頭を下げてから言葉を続けた。

 「しかし、最後に、君に挨拶をしておきたかったのだよ」

 「最後に?」

 ――いったいどういうことなのか。月の雫の精製はいまだ終わっていないはず。

 伯爵はそう問い返そうとするが、どういうわけか、自らの舌が動こうとはしない。焦って言葉を紡ごうとしても、吐息が喘ぎとなって零れるばかりである。そんな様子を見て、ハインはくすくすと笑みをこぼした。

 「そう、伯爵。貴方と話すのはこれで最後になる。そして貴方と会うのは、これが初めてとなるだろう」

 何をいっているのだ、これまでも幾度となくお前は私を呼び出し、ときに私の目の前にいきなり現れてきたではないか。それが、なぜ、これが初めての出会いなのだ。

 もどかしげに動かない舌を震わせながら、伯爵はいまだ状況が飲み込めずにいた。やはりこれは夢なのではなかろうか、どこか体の動きも鈍く、体の感覚もおぼろげだ。

 「夢ではないさ、伯爵。貴方が思う様に言葉を紡げないことも、その体が自分のものではないように感じられることも、そして操り人形のようにいつのまにかここに導かれたことも。全ては私が、そのように仕向けたことなのだよ」

 ハインは伯爵の目の前でそういった。そうしてひとしきり沈黙を楽しむと、

 「――さて、貴方への最後の餞に、種明かしをすることとしよう」

得意げにそう言い放つと、ハインはその手を自らの髭に当て、ゆっくりと髭を剥がし始めた。顔の半分を覆っていた髭が、鬢の部分からぺりぺりと音をたてて、きれいに剥がされていく。剃り残し一つ残さずに、皮膚ごとぺろりと剥けていった。耳から頬と鼻の下を埋め尽くしていた髭が失われ、つるりとした白い肌が灯りに照らし出されていた。

 そこに現れたのは、はじめて見る顔だった。

 「まだ誰か分からないのかね、私が。まだ思い出せないのかね、この顔が。貴方は私の正体を知っているはずなのだ。もっと近づいてみるといい。もっと私の側に来て、覗き込めばいい。私の顔を。触れてみればいい。この体に」

 伯爵が困惑し、立ち尽くしていると、勝手に自らの体がハインに向かって歩き始めた。少しずつ、目の前の見知らぬ男の姿が迫る。それでも、その男に伯爵は見覚えがなかった。眠りかけた意識で、言い知れない不安が湧き上がってくるのを感じた。

 男の目の前まで来ると、伯爵の右手が意思と関係なく勝手に伸ばされ、男の顔に触れようとした。男の顔に触れた感触が、伯爵の指に伝わってきた。冷たく、そして硬い。いや、これは……伯爵は両手で男の顔を掴もうとして、絶句した。手に触れたのは、冷たい平面の壁のような感触だった。

 ようやく伯爵は、目の前で起きている事態の真相を理解した。

 「気付いたかね、貴方が見ているのは、鏡。貴方の目の前にいる見知らぬ男は、あなた自身の姿なのだよ。そして変装していた神出鬼没の男、貴方がハインと呼んでいた錬金術師もまた、伯爵、貴方だったのだ」

 暗闇の底に落ちていくような眩暈が伯爵を捕らえた。

 「さあ、伯爵、この体は私のものとなる。お別れだ。最後に私の記憶の断片を見せよう」

 遠ざかる意識の片隅で、伯爵は自らの内から発せられるもう一人の人格の声を聞いた。

 鏡に映し出された自分に、己の驚愕は表情として全く反映されることはなかった。いや、そもそも、そこに写っているのが自分であるという実感が全く存在しなかった。そこには、見知らぬ男が一冊の書物を手に取り、満足げな笑みを顔中に湛えていた。


 伯爵、そもそも私が貴方の中に一個の別人格として胚胎したのは、十年前、貴方が一冊の書物を読んだときのことだ。君は覚えてはいないだろうな。見たことのない文字で記されたその書物を、君は読むことができなかったのだから。それは一般に言われる書物とは全く異なるものだった。書物という言葉ではない、全く新しい名が必要だと思われるほどに。その言語を理解することができないにも関わらず、君は貪るように文字を追い、ページを捲り続けた。その新種の言語が放つ魅力、それは、美女の体、瞳、香り、肌、美貌、仕草などに宿る美、五感と本能を刺激する官能に近いものだからだ。

 言語とは不自由なもの。不鮮明で曖昧なもの。女の美貌を言葉で余すところなく表現できうるはずがない。言葉での表現から、逆にその美女の細密画を描くことなどできはしない。芳香や感触など体感できるはずもない。言語から描き出されるのは、現実の美女とはかけ離れてしまう。

 しかし、その書物は違った。そこに記された言語は違った。君は五感で感じたはずだ。

 その書物こそ、この世にたった一冊、自我を持った書物なのだ。

 書物とは総じてレプリカを有する。模倣され、筆写されることによって、無数に分裂していくものだ。文字という共通の解読コードがある限り、その鮮度も、明度も減ずることなく、存在としてどこまでも増殖していく。しかし君が見つけた書物は違う。世界でたった一冊だけしかない。その文字を僅かの狂いもなく完璧に摸写したとしても、その書物は何の意味もなさない、何の法則性もなさない、ただの奇妙な抽象画でしかなくなってしまう。その書物とレプリカの違い、それは例えば、一個の卵とそれを完璧に摸写した卵の絵画ほどの違いだ。どれほどその絵がモチーフに忠実であろうと、現実の卵とは全く異なるものでレプリカであるとは呼べないだろう。匂いを嗅ぐことも、食べることも、艶々とした表面を撫でることはできない。次元が、異なるのだ。

 書物を著したのは、到達者アインだ。彼によって生み出された新種の文字によって編まれた書物には、彼の記憶と思考、そして強烈な自我が記されていた。アインという人間の断片が封じ込められていた、そういったほうがいいだろう。なぜならその書物を読んだ人間は、自らのうちにもう一人の人格を宿すことになるからだ。書物を読んだものはアインを胚胎させ、萌芽させる。アインを目指し、やがて自らをアインだと思い込むようになる。彼らはアインの模倣者、レプリカとなって、アインに近づこうする。

 そう、その異次元の書物は、一人の人格を複製する機能を備えているのだよ。

 アインが己を封じ込めた幾つかの遺産、その一つが、貴方の手にした書物だったのだ。

 その書物は自我を持ち、読むものを自らの意思で選び出す。まるで抗えざる運命が人間を選ぶように。選ばれなければ、その書物は何の意味も持たない奇妙な文字列でしかない。書物によって選ばれたものだけが、自らの内部にアインを宿らせることができるのだ。

 伯爵、貴方は覚えていないだろう。鏡に映る自分の姿に、強い違和感を覚えるようになったことを。鏡に映っているのが自分だと思えず、まるで知らない別の人間としか思えなくなったことを。その記憶は、貴方から削げ落ちてしまっているはず。その頃から私は、貴方の中で育ち始めていたのだ。私のいまだ定まらない自我が、貴方の心に知らず知らずのうちに影響を与えていたのだよ。

 私が『私』という自我をはっきりと自覚したのがいつだったかも、貴方は分からないだろう。しかし、私は覚えている。空ろな想念、切れ切れの記憶の断片としてたゆたっていたものが、星座が結ばれるようにつながり、神話のように物語が紡がれ、己という一個の人格として生まれた瞬間を。きっかけは貴方だった。

 貴方は鏡の中の見知らぬ自分に向かって、問いかけたのだ。

 ――お前は誰だ、と。

 そう、その瞬間だ。それまで貴方の中でまるで他人事のように鏡を覗き込んでいた私は、鏡に映っているのが他ならぬ『自分』だと気付いたのだ。書物に編みこまれた記憶の断片から、私は自らをアインの破片であると知った。

 しかし生まれた自我は脆弱で不自由なものにすぎなかった。そもそもこの体は貴方のものだからだ。心の宿る魂とその器である体は、不可分の一対。その間に割り込むことは難しかった。体は自由にならず、五感と心は分断されていた。私は体を通しては何も感じることができず、ただの心となって貴方を眺めているしかなかった。私は光の射さない暗闇の中で眠り続けていた。そして貴方の夢を見続けていた。主役どころか、舞台に上がることさえできず、一人の観客となって見ていることしか許されなかった。私がどれほどもどかしかったか、君には分かるまい。このまま観客でしかいられないのではないか、自分の意思では指一本動かせず、視線をずらすこともできない。言葉を発することも、思いを表現することもできない。私は牢獄に繋がれているような思いだった。

 そんな自分が特定の時間だけ、ほんの僅かな間ではあったが、暗闇から目覚め、己自身に光が当たり、五感と心が繋がるときがあった。それは、貴方が鏡と向き合ったときだ。

 貴方が鏡の前にたち、見知らぬ人間と向き合うときだけ、私という自我は暗闇から抜け出すことができた。貴方が鏡の中に姿を映しているときだけ、世界は鮮やかに色づき、私の前に広がっていくのだ。肌に触れる衣服の感触も、鼻をくすぐる香しい芳香も、その部屋の煌びやかな光景も、貴方が鏡と向き合っているときだけ、私の心と五感は繋がって感動を引き起こした。貴方が不思議そうに鏡に映った『誰か』に小首をかしげている間だけ、私はこの体の支配権を手にすることができた。鼻をひくつかせ、視線を巡らせ、息を吸い込み、腕を掲げ、足でステップを踏むことができた。しかしひとたび鏡の前を離れれば、再び世は闇に包まれ、一切の感覚は失われてしまう。小指の先一つ曲げることができなくなってしまう。貴方が鏡を覗き込むときだけ目覚める自我、鏡の中だけに棲む人格。私とは鏡の中に宿っていたのだ。

 牢獄を抜けて外へ出てはみたものの、やはりそこにはまた別の牢獄の中であることに変わりはなかった。なぜなら、私は鏡のない場所には移動できない、鏡から離れることはできなかったからだ。貴方が城内を移動して鏡の前に立つごとに、私の意識は五感を伴って立ち現れた。しかしその場所も限られている。一時期、貴方が鏡を遠ざけ、その多くを壊し、或いは撤去していたからだ。鏡が置かれている場所から場所へ、時間を空けて気まぐれに出現することしかできなかった。しかもその選択権は、あくまでも伯爵、貴方に握られていたのだ。

 この体の主導権、支配権を握りたい、私はどれほどそう切望しただろう。貴方という頚木を逃れ、鏡を抜け出したい。自らの五感を自在に遊ばせてみたい。自らの足で自由に歩き、走り、心地よい疲れを感じたい。この手で様々なものにふれたい。何も感じられない暗闇の中で、私は痛みにさえも焦がれていた。

 貴方が鏡の前に立ち、見知らぬ人物を眺めているときだけ、私は五感を奪い取ることができた。貴方の体を自在に動かし、言葉を発し、貴方という人格を眠りにつかせることができた。しかし、鏡の前を立ち去ろうとその場を離れると、たちまち眠っていた貴方は目覚め、私という人格をその意識下にねじ伏せてしまう。

 私は気付いた。貴方の網膜に映し出される、鏡の中の見知らぬ自分。彼だけが、私を存在させるのだと。貴方の体を借り、鏡に映る貴方の姿を見ているときに悟ったのだ。

 鏡に映るのは所詮、伯爵、貴方の顔でしかない。鏡に映る自分を不可解な顔で見つめる貴方を眺めながら、貴方が見知らぬ人間の幻像に囚われているように、私もまた伯爵の相貌に囚われていることに気付いた。鏡の前に立って五感を支配しようとも、目の前に貴方が存在する限り、その網膜からは逃れられず、その楔を断ち切ることができない。だから私は鏡から抜け出すことができないのだ。

 そう、私は私の顔を知らない。

 私には顔がないのだ。

 造り上げなければならない。自分の仮面を。伯爵を消し去り己を出現させるオリジナルのマスクを。

 そして私は、『自分』を知るために、アインの書物を読み解き始めたのだ。

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