第六幕 少年クリフ 蜜月(5)

 夜、書物の中に潜ませた小瓶を取り出すと、ひんやりとした感触が腕に伝わった。小瓶の中に入っているのは、透明で無臭の、水のような液体だ。しかしクリフは知っている。それが、人を永遠に眠らせ続ける薬であることを。

 ――今度こそは暗殺を成功させなければならない。そうしなければ、コレッタが処刑されてしまう。

 クリフは冷たい決意とともに、その小瓶を懐に潜めた。

 自分自身の意識が戻ったのは、事件から三日後のことだった。父はスープの染みたパンごと吐き出していたため、少量しか毒物を摂取せず、死に至ることはなかった。暗殺は失敗したのである。葛藤の末の暗殺計画であったため、その失敗はクリフをほっとさせた。父を殺害するということは、クリフの心に大きな負荷をかけていた。感情として、父を殺害したいはずがなかった。その後、クリフは父への殺意を、まるで悪い夢であったかのように、忘れようとしていた。

 しかし状況は一変する。犯人の疑いをかけられ、クリフから遠ざけられていたコレッタが、牢に幽閉されたというのである。

 なぜ、どうしてコレッタが? クリフは信じられずに父とコフに事の真相を聞き出そうとした。その答えはクリフを驚愕させた。コレッタは自らその罪を告白したのだという。

 「彼女は元修道女、恐らく、良心に耐えかねたのでしょうな」

 コフはそう冷静に言い放ち、

 「主君とその息子を殺害しようとするなど、もはや裁判を行う必要もあるまい」

 伯爵はそう断言した。

 クリフは涙を滲ませて叫んだ。

 「そんなはずがない、どうしてコレッタがお父さんや僕を殺そうとするのさ、その理由が分からないよ。コレッタは何ていっているの」

 そういって詳細を尋ね、コレッタに会わせてくれるように頼んだ。しかし、それは聞き入れられなかった。

 「その動機に関しては、一切口を噤んでいます。だが、彼女が捕まるのは、時間の問題だったのですよ。検出された毒物が、森に棲む呪い師の手になるものが判明していました。呪い師自身は森から姿を消していましたが、森へ入っていくコレッタの姿を、多くの人間が目撃しています。間の抜けたことに、途中の街で、今から森の呪い師の所に薬を貰いに行く、そう話していたそうです」

 ――そんな。コレッタは変装して誰にもばれなかったと言っていたはず……

 そしてクリフは気付いたのだ。コレッタが、最初から罪を被ろうとしていたことに。失敗しても、成功しても、全ての罪を被って自白するつもりだったのだ。だから、毒を入手するとき、それがばれるように振舞ったのだ。

 どうしても、コレッタに会いたかった、会って話がしたかった。クリフは父とコフに泣いて懇願した。彼女がそんなことをするはずがない、何かの間違いだ、と。しかしそれは許されることはなかった。それから、クリフは数日にわたって寝込むことになる、決して目を覚まさず、延々とうなされながら、夢を見続けた。その夢は、悪夢ではなかった。それは幸福な記憶。コレッタや、マルコ、母と戯れた、現実よりも遥かに鮮明な思い出であった。その中で三日間遊び続けながら、クリフは、目覚めるのを恐れ続けた。現実へと目覚めることを拒み続けた。しかし、再び目覚めの気配はやってきた。黒い雲のように、光り輝く世界を覆いつくしていく。闇から逃げようとクリフは三人の手を引いて走る。しかし、母が闇に飲み込まれ、マルコが捕まり、そして今や、コレッタが引きずり込まれようとしていた。

 びっしょりと冷や汗をかき、三日ぶりに寝台の上で目を覚ましたクリフは、コフから一つの結末を聞かされる。

 コレッタの処刑の日が決定したのである。

 それは、貴族連盟による盟主選出の会合が、このウロボロス城で行われた後、一週間後と定められていた。

 クリフは懐に潜ませた小瓶の重さをしっかりと感じながら、伯爵の寝室へと歩いていた。夜は更け、そろそろ父も就寝する時間である。父は、明日にどのような夢を見るのだろう。そんなことを考えながら、クリフは寝室の扉を叩いた。

伯爵の誰かを確かめる声がした。答えると、扉が開いた。伯爵は驚いた表情を見せ、すぐに部屋に招きいれた。

 「どうしたんだね、クリフ。お前がここに来るとは珍しい。体は大丈夫なのか」

 「うん、歩くぐらいどうってことないさ。ただ、ちょっと眠れなくて」

 「明日のことかい?」

 こくりとクリフは頷く。

 そう、明日、貴族連盟の議員達がこの城に集結することになっている。そこで伯爵は連盟の盟主として選出されるだろう。その地位は、血によって選ばれる王族を除き、王国での最高のものである。先日、伯爵はクリフに言ったのだ。

 ――私が盟主に選ばれた席で、おまえを連盟議員たちに紹介することにしよう。彼らはお前の王位簒奪を補佐してくれる大切な同士となる、と。

 「僕、心配なんだ。だってぼくは小さくて体が弱いし、それに、もうマルコもいない。なんだか、明日が来るのが怖いんだ」

 「大丈夫さ、コフがお前を育て、支えてくれる。それに私もいるだろう」

 そう優しげに伯爵は諭す。クリフは用意していた決定的な質問を口にした。

 「ねえ、お父様。お父様は、明日が来るのが楽しみなの」

 その質問に伯爵は少し、考え込み、すぐに笑顔を浮かべてこういった。

 「もちろんさ。明日は、私の夢の第一歩なのだから。貴族連盟の盟主になり、やがてお前をこの国に君臨させるための偉大なる一歩が、明日刻まれるのだよ。お前の伝説は、そこから始まるのだ。私は今でもわくわくして眠れないぐらいさ。だからクリフ、不安になる必要などないのだよ」

 クリフの頭を撫でながら、伯爵はその優しげな眼差しを不安げな少年に注いだ。

 「わかったよ。なんだかほっとした。部屋に帰るね。今度は眠れるかもしれない」

 「そうとも、悪い夢などみることなく、ぐっすりとお休み」

 クリフは、ありがとう、お休み、そう一言を添えると、出て行く前に、ベッドから少し離れたところに設置された手荒い用の水盤に近づき、その傍らに置かれた、水差しとグラスを手に取った。

 「緊張して、少し喉が渇いたみたい。水を貰ってもいい」

 そういってグラスに水を注ぐと、ゆっくりと飲み干した。そしてこっそりと、袖から出した小瓶から、水差しに液体を注ぎこんだ。

 再び小瓶を懐中に隠すと、

 「じゃあ、おやすみなさい、お父様。いい夢を」

 と、けぶるような微笑を向け、クリフは部屋を後にした。

 クリフは知っている。父がベッドに入る前、決まって水差しの水を口にすることを。

 混入した薬は、あの奇妙な錬金術師に手渡されたものだ。彼はクリフの陰謀も、毒殺事件の真相も全てを明かした上で、私なら、君の夢を叶えることができる――そういって、その薬を手渡したのだ。

 ――これは、いつまでも夢を見続けることのできる薬さ。もしも君が、鮮明な夢の中で過去の思い出の中で永遠に目覚めることなく遊び続けたいのなら、これを飲めばいい。コレッタは処刑されてしまうだろうがね。

 そう、クリフはその薬を、自分に使うのでなく、父に使うことを決意したのだ。

クリフは父を暗殺すると決意したとき、死について考え続けたことがあった。

 父に、どのような死を与えればいいのだろう、死を恐れ、地獄に怯える父に、どのような死を与えることが救いになるのだろう、と。例えば、息子である自分を庇っての名誉の死、領民のために自らを犠牲にする名君としての死、神に命を捧げる敬虔な聖教徒としての死、王への忠誠を貫いての死、反逆者としての死……。錬金術師からその薬を手渡されたとき、クリフは父に捧げる死の形を定めたのだ。それはかりそめの死。いつまでも明日を夢見ながら眠り続け、決して死が訪れることのないという、架空の死であった。

 自分の部屋に歩みを進めながら、クリフは胸の中で、別れの言葉をささやいていた。

 お父様はもうすぐ、安らかな眠りを堪能するだろう。明日の朝日が待ち遠しい、そんな健やかな眠りに、お父様は包まれるだろう。そしてその眠りは、決して醒めることのない永遠の夢になる。

 ――お父様、僕が水差しに注いだのは、そんな薬なんだ。希望を抱いたまま、明日を夢見たまま、永遠に眠り続けることができる、夢をいつまでも見続けられる薬。

 そう、それが、僕がお父様にあげる、最後の贈り物です。

 夢に囚われていたとき、僕は毎晩怖かった。夜が訪れるのが。そして、朝を迎えるのが。毎日を怯えながら過ごしてた。今日も夜が来るのかな、明日も朝はやってくるのかなって。安心して眠ることが出来ないんだ。いつだって不安で、その不安からは逃げることが出来なかった。できることなら、眠らずにいつまでも太陽を追いかけていきたかった。それができないのなら、いつまでも眠り続けていたかった。

 毎日祈っていた。夜が来ませんように、朝が訪れませんようにって、でも、それを止めることなんて、誰にも出来ない。神様だってできやしないことでしょう。

 夢を見なくなって、僕は初めて気がついたんだ。安らかな眠りほど、素敵なものはないって。幸せって言うのは、明日を夢見ながら眠りにつくことだって、そうお母さんも教えてくれたもの。

 だから僕は、お父さんに最後にプレゼントをしてあげることにした。これは、僕からの最後のプレゼントさ。

 今夜、お父様は永遠の眠りに就く。生きたまま、醒めることのない夢を見ながら。贖罪の血に濡れた茨の冠も、黄金に輝く王の冠も、天使の光輪も、終わることのない幸福な前夜も、お父様、貴方にすべてをあげる。

 僕は今、ただ、朝を待っている。

 二人との誓いを果たし、お父様の野望を叶え、そして愛するコレッタを救うために。これが唯一の手段だった。

 僕にとっての前夜は、お父様、貴方の死とともに明ける。明日、太陽の目覚めとともに、僕は帝王への道を、その一歩を踏み出すだろう。この辺境の王として、ウロボロス城の城主として。やがてこの世を統べる太陽となるために。

如何なる死も、貴方にはふさわしくない。息子である僕から、安らかな夢と。祝福を、貴方にあげる。

 だから、おやすみ、そしてさようなら、お父さん。

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