第六幕 少年クリフ 蜜月(4)
摂取した量が少量であったこともあり、秘蜜の効果は一時的なものであった。しかし、クリフの心には大きな澱が残されていた。秘蜜の摂取によって生み出されたイメージが、その心に鮮明に焼き付いていたからである。父の暗殺という一つの出口が示されたことで、クリフは更なる葛藤を抱えるようになっていた。夜毎に訪れるマルコと母との幸福な記憶、それから目覚めた後の陰鬱な城での生活。幸福な記憶は、そこから目覚めるたびにクリフを復讐へと駆り立てた。城での陰鬱な日々は、クリフを夢に逃げ込ませようとした。夢が心地よければ心地よいほど、城での生活が味気のない、欠落感に満ちた苦痛を伴うものとなった。目覚めたくない、永遠に眠り続けていたい、夢を見続けたい、そんな思いを抱くようになっていた。しかし、夢はいつか覚める、朝は必ずやってくる。クリフは夢から目覚めた後の喪失感、虚無感から、夢を見ることさえも厭わしく感じるようになっていた。夢さえ見なければ、このような絶望も、重圧も感じることはないはずなのだ。なのに、夢は夜毎、クリフを追いかけてくるのだ。
そしてクリフは不眠症へと悩まされるようになる。眠れない、いや、眠りたくないのである。コレッタの話では、自分は幸福な夢を見ているにも関わらず、ベッドの上では苦しそうにうなされているのだという。この矛盾こそが、クリフの心情を表しているといってもいい。幸福な夢はクリフに絶望と喪失感を与え、父の断罪という強迫観念を生み出した。それから逃れるために、クリフは夢を遠ざけようとし、眠りを拒むようになった。眠りは不安定になり、不眠症と嗜眠症を繰り返しながら、クリフの心と体はそのバランスを崩し、やせ衰えていった。
その日、クリフの前に食事を持って現れたコレッタは、見せたことのない沈鬱な表情をしていた。絶えることなく浮かべていた微笑が消え、唇は固く結ばれている。思いつめたその顔には、濃い影が落ちていた。
少年の促すような顔に、少し躊躇いながらもコレッタは懐から一本の小瓶を採りだした。コルク栓のされたそれは、粗雑な造りの土瓶であった。
「ありがとう、コレッタ。誰にもばれなかった?」
「ええ、城を出てから服は街娘のものに着替えて、帽子とスカーフで顔を隠していましたので、誰にも気付かれることはなかったと思います」
そううつむいて答えるコレッタの声も、いつものように弾むようなものではなく、消えてしまいそうなか細いものだ。
「呪い師に、使うときにはその量に注意するように念を押されました」
その薬を取りにいったときの呪い師を思い出し、コレッタは背筋が寒くなった。
街から離れた森の奥に隠れ住むその呪い師は、ぼろぼろの衣服を身にまとい、痘痕と皺で埋め尽くされた顔をしていた。目は痘痕に、口は皺に覆われ、もはや人の顔をなしていなかった。枯れ木のように細く、茶色く濁った色の腕がだらりと下がっていた。喉の奥底から搾り出すようにして、その呪い師は言ったのだ。
「どのような目的かは知らんが、使い方には十分に注意しなされ。といっても、毒薬の用途なんぞ一つしかないがの」
そういって皺を歪ませて震わせたが、老婆から発せられた言葉の衝撃に、彼女が笑っているのだとすぐには気付かなかった。
――毒薬?
そう、コレッタは呪い師に教えられるまで、それが毒薬だとは聞かされていなかった。コレッタが呪い師の所を訪ねるのは二度目であり、一度目はクリフから託された手紙を渡すためであり、今回は依頼した品物を受け取るためであった。深刻な顔をしたクリフは、コレッタに秘密にすることを約束させ、その頼みごとをしたのだ。その頼みごとが、人々から恐れられる呪い師への使いであると聞かされたとき、コレッタは驚き、怯えたものだ。そしていやな予感に、その手紙の内容を問いたださずにはいられなかった。しかしクリフは何も言わず、ただその手紙を届けて欲しいとだけ言った。そして二度目、クリフから一袋の金貨を手渡されて呪い師の元を訪れたコレッタは、金貨と引き換えに毒薬の小瓶を手渡されたのだった。
すぐにその小瓶を手渡すのを躊躇したコレッタは、尋ねずにはいられなかった。
「――クリフ様、これは毒薬なのですか?」
やつれ果てた少年の顔は、儚げな美しさを湛えていた。か弱い笑みでコレッタに語りかけるその顔が、微かに翳ったのが分かった。
クリフは一つ小さなため息を吐くと、ゆっくり頷いた。そしてそのままコレッタと視線を合わせようとはしない。
――いったい何のために。
そう声を上げそうになり、コレッタは言葉を押しとどめた。その答えが分かっていたコレッタには、その質問はただの確認でしかなかったからだ。
いつもクリフの側にいたコレッタには、その少年が毒薬を使う人物は一人しかいないことを知っていた。それは、狂気に侵された父、カタストロプ伯爵である。
クリフはコレッタだけには、自らの悪夢のことも、母の気が触れた真相も、父の収集している死の芸術のコレクションのことも全てを打ち明けていた。噂好きでゴシップの発信源だと言われるコレッタだが、彼女はクリフとの約束から、決して少年の告白を口外することはなかった。マルコを失ったクリフにとって、彼女はただ一人の信頼できる友人であり、そのことをコレッタも痛いほど分かっていた。
城中に満ちた甘美な狂気、その根源が少年の父であることをコレッタは聞かされていた。
口を閉ざしたまま、コレッタから毒薬を手渡されたクリフは、それを小さな木製のスプーンでほんの一欠けらだけ掬い取り、冷めてしまったスープに入れた。驚きで顔を歪ませるコレッタの前でそれをかき混ぜる。
「大丈夫、これぐらいじゃ死なない。今のうちに、毒に体を慣らしておくんだ」
泣き出しそうな笑みを浮かべ、コレッタに自分の計画を話し始めた。
クリフの体がやせ衰えていくのは、悪夢にとりつかれて眠りが不安定になったからだけではなかった。彼は、食事のたびに毒を摂取していたのだ。ほんの少量ずつ。最初の頃は、食事をしても気分が悪くなって吐いてしまうことが多かった。しかし徐々に毒にも慣れてくる、体に耐性が付き始めたのである。すると、少年は毒の量を僅かだけ増やす。また食事を吐き戻すということが続く。それを何度か繰り返すうちに、少年の体はやせ衰えてしまったのである。
コレッタは、自分の目の前で少年が弱り果てていくのを、悲しみに耐えながら見てきた。肌の艶が失われ、枯れ枝のような肌になっていく。彼女は心の中で悲鳴をあげ、自分のことのように苦しんでいた。いったい何度、少年の秘密を告白し、その計画をやめさせようとしたことか。しかしそれは決してできなかった。確かに少年に固く口止めされていた。自分だけに全てを告白してくれている、その信頼を裏切るわけにはいかない。だがそれだけではない。その誰にも言えない秘密を、愛らしい高貴な少年とたった二人だけで分かち合っている、そのことが、コレッタに言い知れない快感をもたらしたのだ。それはまるで自分が物語の主役になったかのような陶酔感であった。分かち合った秘密に、コレッタは酔いしれていた。
クリフから打ち明けれられた計画は、毒薬を用いて父親を殺害する、というものだった。大切なのは、気付かれずに食事に毒を混入する、ということ。そしてもう一点が、父が死んだときに、誰も犯人だと疑われない、或いは疑われたとしても、誰にも不可能であったという状況を作り出すこと、であった。領主殺害はいうまでもなく死刑である。クリフはその罪を誰かが被るということを恐れた。そして自らも、次代の領主として生き残らなければならなかった。己の罪を暴かれるわけにはいかなかった。
誰にも毒物の混入が不可能な状況を作りながら、毒物を入れること。そんなことは不可能である。少年が考えたのは、毒物を入れるのは自分で行うということ、そして自分が疑われないために、自分自身も毒物を摂取するという方法であった。少年はそのために、自らの体に少しずつ毒物を取り込むことで、自らの体に毒物への耐性をつけようとしていたのだ。
少年は、人体と毒物のそういった特性を帝王学の書物で知った。コフはある日の講義でこう説明した。
「薬も毒も、その根源は同じなのですよ。単に化学式の組み合わせが異なるだけのものなのです。それが人体に悪影響を及ぼすものを一般に毒と位置付け、病を治したりするものを薬と呼びます。しかしそれは呼び名が異なるだけのこと。病を主格におけば、薬とはすなわち病を殺す毒のこと、毒とは病を活性化させる薬のこと。毒を持って毒を制するなどの言葉があるように、毒とは時に薬となりうるものなのです。その境界は紙一重というより、紙の裏表のようなもの。かつては森の呪い師が植物など煎じて様々な薬品を精製していました。彼女達は長い時の中、森に棲む人々に間で培われ、受け継がれてきた知恵を備えていた。彼女達の薬とその処方作法は経験に裏打ちされたもので、実際によく効いたものです。前もお話したことがありますが、かつて呪い師たちは人々に尊敬される尊い存在だったのですよ。蔑まれ、森から出ることを許されない今では信じられないことですが」
確かに今では呪い師たちは法の加護さえ受けられない流民と同様、いや、得体の知れない人外の魔物として恐れられ、憎悪されているという点では、流民以下の立場にいる。
――なぜ昔は人々から敬われていたのに、そんなことになってしまったの。
そうクリフが尋ねると、コフはこう答えた。
「かつて呪い師たちが担っていた役割を、聖教会が背負うようになったからです。背負うというのは違いますね。聖教会が呪い師から聖性を剥ぎ取り、その衣をそのまま羽織ったのです。呪い師とは、森や自然、宇宙といった深遠なる未知に覆われた存在と、我々人間を結びつけるものでした。だから敬われる一方では恐れられてもいた。今では国境を越えて勢力を伸ばし、かつては王府さえもその権力下に置いていた聖教会ですが、四百年前は数多ある宗派の一つであり、少数派でしかなかった。そんな彼らが文字を使い、言葉を使い、呪い師たちを実に巧みに貶めたのです。かつては人々の不安や恐怖、無知や自然の驚異への緩衝剤、精神安定薬としての役割を担っていた呪い師たちを、人間という種への毒として煽り立てた。そして聖教会自身は己を薬だと名乗ったのです。薬と毒がその呼び名を変えただけのものである以上、言葉と文字を支配下に置いた聖教会にとってその地位を奪い取るのは難しいことではなかった。むしろ、呪い師たちを対極の存在として位置づけることで、聖教会のイメージは人々の心に鮮明に焼き付けられた。人間はその増大した脳から本能として不安を感じ、あらゆる物事を黒と白に色分けしたがるもの。聖教会は実に巧みにその作用を利用したのですよ。呪い師から聖性を曝露した衣を奪い、言葉と教義の上から被ったのです」
無神論者であるコフは辛辣にそう言い放った。聖教徒が殆どを占めるこの王国で、こんなことを堂々と口にするのは城でもコフぐらいである。
「聖教会は人の精神に影響を与える薬と毒の使用法と効能に、実に長けていたといっていいでしょう。だからこそ呪い師たちを森へと追いやり、無数の教会を国境を越えて建てることができたのですよ。その力は無視できるものではありません。クリフ様、貴方はいずれ帝王として世に君臨するお方。毒も薬も、聖も俗も、その器に注がなければならないのですよ」
コフはその場で帝王学の辞書の一巻を紐解き、毒という言葉の項目を探し出すと、その一節を読み上げた。
「体や精神に影響を及ぼす薬の一種。薬の使い方を学ぶためには、毒としての側面、効用も学ばなければならない。必要毒という慣用句が古くから伝えられているように、不可欠な毒というものが存在する。その特性を学ぶことが帝王の器を確かなものとする――」
その言葉は微かな嫌悪感、恐れとともにクリフの中にしっかりと刻み込まれていた。
森の奥に一人の呪い師が棲んでいることは知っていた。クリフは名前を伏せた手紙と、対価として金貨を添えてコレッタを森へと使いに出し、目的の毒薬を手に入れたのである。
寝台から起き上がることが困難になっていたクリフは、いつも一人で食事をするようになっていた。ある日、体調が若干よくなったこともあって、広間で父と二人で食事をすることになった。そのときが、クリフが待ち望んだ暗殺決行の時だった。クリフが久しぶりに食欲を覚えたこともあって、料理人は東洋風蒸し鶏のスープを初めとする、クリフの好物ばかりを作っていた。
スープは大なべで温められたもののほんの上澄み、澄み切った部分だけを、注ぎ口と蓋の付いた銀のポットへと入れて供される。冷めるのを防ぐためである。それを食事する直前に自らの皿に注ぎ入れるのである。その他にも前菜やパンなどの品々が並び、父と息子での久しぶりの夕食が始まろうとしていた。
毒の混入は、クリフ自らが行うことを決めていた。ポットは目上である父から回ってくる。伯爵は、熱いスープを幾度も継ぎ足して食べるようにしていた。クリフは自分の前と父の前を行き交うポットに、予め細工をしていた。クリフは城の住人達が寝静まった夜半、部屋を抜け出して厨房へと行くと、銀食器の蓋の裏に、固形化した毒を塗りつけておいたのである。その毒は高温でなければ溶けないようになっていて、水に晒しても溶けることはない。スープを入れられてしばらくすると、その熱と蒸気でゆっくりと溶けていくようになっていた。
スープは厨房で注がれ、持ってくるまでに蓋の裏側の毒が溶け出し、水蒸気とともに水滴となってスープと混ざり合うように計算されていた。ポットそのものに毒を塗りこまなかったのは、銀のポットは幾つもあるため、どれを使うかが分からなかったからである。蓋だけは、父のとの会食で使われるものが一つしかないことをクリフは知っていた。スープ用の蓋は、蒸気を逃がし、香りを漂わせるための小さな穴が開いているものだけだったのだ。
毒は即効性のあるものであるが、口にしてすぐに効果が出るものではない。体内に入って五分から十分ほど経つと、全身が痙攣し始める。やがて筋肉が麻痺し、三十分後には呼吸が止まってしまう、神経性の毒物である。無味無臭で、かつては鼠の駆除などにも使われた強力なものだ。
塗りこんだ毒の量は、スープの一掬いで致死量に達するほどであった。一口啜れば、三十分後には命を失う。ただ毒に体を慣らしていたクリフだけは、それに耐えられるようになっていた。それだけではない。クリフは食事の前にすでに体内に大量の肉と水を詰め込んでいた。そうしておけば、体内に取り込まれるまでに時間がかかり、気分が悪くなったところで全てを吐き出せば、致死量に至ることはないからである。
父とともに食卓に付き、スープが父の皿に注がれた。それはクリフの前に回され、クリフも湯気の立つスープを注いだ。緊張を悟られてはならない、自然に振舞わなければならない、そんな思いで、逆に自分がぎこちない動きをしているような気になった。スープが少し冷めるのを待つ間、クリフも伯爵もパンに手を伸ばした。すると、その日のパンはたまたま焼き立てのものではなく、昨日に焼き上げた固い黒パンであった。黒パンは一日も経てば固くぼそぼそになってしまう。伯爵はそのパンを好まないが、クリフは固い黒パンのほうが噛み応えがあって味が出るので好きであった。そのことを配慮した料理長が、あえて固い黒パンを出したのである。
と、伯爵が固い黒パンを手にすると、黒パンを千切り、スープの湯気に当てたのである。湯気でパンが少しずつ柔らかさを取り戻していくが、それもまどろっこしくなったのか。伯爵はパンを半ばまでスープに浸してしまった。パンが見る見るスープを吸っていくのを、クリフは横目で動揺しながら見ていた。パンをスープに浸して食べることは普通であるが、伯爵はそのことを好まなかったからである。しかしその日に限り、固くなった黒パンを柔らかくしようとしたのである。
クリフは何食わぬ顔でパンを食べ、スープを啜った。一口、二口とスプーンを口に運び、生野菜と羊肉のソテーを速いスピードで交互に食べていく。毒の回りを遅らせるために、無理に詰め込んでいった。
父は数切れのパンをスープに浸して口にしたが、それきり他の料理を食べている。確かに致死量のスープを飲んだはずである。どこか麻痺したように痺れる意識の片隅で、クリフはそう確信していた。
それでも、先に気分が悪くなったのはクリフであった。体が小さかったからであろう。クリフは猛烈な嘔吐感に襲われた。とたんに脂汗が吹き出し、侍従や料理番が怪訝な顔する、声をかけるまもなく、クリフは吐き戻した。胃の中がぐるりとひっくり返ったような強烈な違和感とともに、大量の水と、食べた料理の一切を吐き出した。毒に体を慣れさせていたとき何度かもどしたことはあったものの、この気持ちの悪さに慣れるということはない。
慌てて侍従たちがクリフの元に駆け寄る、父も驚いて立ち上がる。クリフは意識が遠のいていくのをはっきりと自覚した。視線の端で、立ち上がった父が震えだし、胸を掻き毟って倒れていくのがゆっくりと見えた。視界を僅かに滲ませた涙が激しい嘔吐によるものか、それとも悲しみのせいなのか、理性が押し殺していた感情が胸の奥底から湧き上がってくるのを感じながら、クリフは意識を失った。
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