第六幕 少年クリフ 蜜月(3)

 母と親友を失い、父が心の病に侵されたクリフに、最後の心の拠り所として残されたのは、侍従のコレッタだけであった。元修道女であったこの年上の娘を、クリフは気に入って自らの侍従にしたのである。天真爛漫で快活なこの侍従の笑顔は、陰鬱な空気を振り払ってくれる煌めきを持っていた。クリフ自身は気づかなかったが、少年はコレッタに、ほのかな恋心を抱いていたのである。

 安らぎを失った城での生活の中で、コレッタだけがクリフをほっとさせてくれる存在であった。二人を失ってからというもの、クリフの心身は衰弱し、寝台の上を離れることができなくなっており、コレッタはその世話係であった。快活ではあるものの、おっちょこちょいで失敗の多いコレッタは、一緒にいて気の安らぐ相手であった。他の召使い達のようにかしこまるそぶりを見せず、屈託なく接してくれるただ一人の侍従であった。話し好きで噂好きのコレッタは、その日の城での出来事や、召使いの間の噂話、街で新たに仕入れたゴシップなどを、食事をするときに実に可笑しそうに話すので、それを聞いていると陰鬱な気持も和んでいくのであった。

 しばしば街に使いに出るコレッタは、街の風俗や移ろいゆく様子にも敏感で、その報告係としてクリフに重用されていた。当初は街での明るい話題や、ちょっとした事件、流行や噂などの新鮮な情報を、クリフはコレッタを通じて得ていた。それはクリフにとっての楽しみの一つであり、どこそこで赤子が生まれたといってはコレッタと喜び、どこそこの家で盗みがあったと聞いては、その犯人の事情を探り出そうとした。クリフはコレッタから聞かされる些細な出来事から、街の人々の声や喜び、そして苦しみ、不安、悲しみ、それらを分かち合おうとしていた。そしてコレッタの語り口は、街の人々の苦しいながらも生き生きとした日々を、実に鮮やかに語り聞かせてくれた。どこか微笑ましい可笑しさを滲ませながら、優しい眼差しで語られる市井の人々の話に、クリフは笑い、泣き、喜んでいた。クリフは街や村に生きる人々の生活や事情をコレッタから教えられた。コレッタはすばらしい語り部だった。

 コレッタから流れてくる市井の情報に、クリフの傷を刺激する不穏な噂が混ざっていた。それは、領地の街々に蔓延し始めた、奇妙な薬品に関するものであった。その薬品は、甘い香りとともに、街の路地裏や貧民街、或いは豪商の館の寝室や、地下室から流れ出したという。その香りの拡大にともない、犯罪が増加し始め、各地の教会の告戒室へは行列ができるようになった。不気味なことに、己の罪を告白者達の顔が、快楽に満ちているという話である。人々の心から良心という最大の箍が失われ始め、無法地帯と化した裏路地や通りも増えていた。それらの狂気は伝染するかのようにその領域を拡大しているのである。

 人々を狂わせているのは奇妙な薬品だという。その薬品は不純物を混ぜ込まれ、蝋燭や御香などに姿を変え、街中で流通し始めている。人々はどこからか手に入れたその薬品の香気にやられてしまい、さらにその香りを求めて街中を空ろな表情で彷徨い始めている。かつて大麻が流行ったように、その香りは瞬く間に人々の間に広まっている。しかも、その人を狂わせる香りは、本人の意思に関わらず、知らないうちに虜にしてしまうのである。目に見えない香りは、何処からかいつの間にか漂ってくるのだという。まるで忍び込むように、或いは背後からそっと後をつけるように、人に近づくのである。そして気付いたときには、すでに香りにとりつかれてしまっているのだという。

 香りに狂わされた人々の様子を聞いて、クリフは言葉を失った。それが父と全く同じ症状を示していたのだ。情緒過多によって喜怒哀楽が激しくなり、その変化と落差が極端になる。心のバランスを失い、感情の発露を行動として表さずにいられなくなる。それは他者への暴力や自傷行為と結びついたし、財産の喜捨や寄付、聖職者への罪の告白などにも繋がった。その時期を過ぎると、伸びきって弛緩したゴムのように心が無反応になり、強盗や殺人という犯罪か、或いは自殺へと行き着く。

 この奇妙な心の病は、いまやカタストロプ領だけでなく、同時多発的に各地に蔓延し始めているという。教会と王宮も、政治体制と宗教組織が麻痺し、腐敗してしまう前に、その原因を突き止めようとしているのだという。

 クリフもまた、父を狂わせた奇妙な薬の正体を知ろうとした。伝染病のように蔓延り始めた心の病、その悪しき感染源を独自で突き止めようとした。このまま放っておけば、領民の全てが心の病に罹り、程なくしてこの城にの住人達も飲み込まれてしまうであろう、そんな危機感があった。自らの領地を侵し始めたその病を、次代の領主としての責任感から根絶しようとしたのである。

 だが、偶然見出された真実は、クリフにとって残酷なものであった。感染源の正体を知ったクリフは、戦慄で体が震えた。それは、被害者であると思っていた父、カタストロプ伯爵だったからである。

 秘蜜という奇妙な薬品を製造しているのが自分の父であると知ったのは、チェプストー司祭と父の密会を見たときのことである。司祭が以前から父へ秘密の贈り物をしていることに、クリフは気付いていた。それが何かを突き止めようと、夜半、教会の宝物庫に忍び込もうとしたクリフは、司祭と父が話をしているのを聞いてしまったのだ。

 教会に入ってきた二人に気付き、クリフはとっさに告戒室の中に隠れた。その部屋の隣で、父と司祭は話し始めたのである。息を殺し、告戒室に入ってこられないかと気が気ではなかった。しかし、二人の話はそんな心配などどこかへ吹き飛んでしまうような話であった。司祭が城や街の人々の秘密を明かす代わりに、父は司祭に秘蜜の溶かし込まれた蝋燭を手渡していたのだ。さらに、同じ品物が今や王国の各地の教会へと流通し始めていることが、司祭から報告されたのである。

 「各地で少しずつ、狂気の水位があがっているようです。やがて誰もが秘蜜に溺れるようになり、秘蜜なしではいられなくなるでしょう」

 「そう、そして秘蜜と引き換えに、全ての秘密は聖職者達を通し、この城へと集められることになる。この城に、この私の頭の中に、人々の持つありとあらゆる秘密がコレクションされるのだ」

 コレッタの蒐集した情報で、薬品を摂取した人々は、秘密に固執し、蒐集するようになるという症状があった。巷では秘密依存症と呼ばれるその病に、伯爵は確かに侵されているのが分かった。しかしかつては名君と呼ばれた父が、世に不穏な病を振り撒いている本人だとは、クリフには信じられないことであり、また信じたくないことであった。クリフにとって父は、尊敬すべき領主であり、目標とする統治者であった。クリフは父の背を見て、次代の領主となることを夢見たし、その背の大きさ、人々が向ける眼差しに憧れたものだった。

 憤りを抱えたまま、クリフは自分に何ができるかを考え続けた。そして、人々を狂わせる秘蜜という蜂蜜を探し出そうとした。父の暗殺を決意したのは、その秘蜜を探して地下深くの部屋に潜入したときのことだ。その部屋で、クリフは、父の狂気がもはや止められないことを知り、そして何より、父こそが全ての元凶だと気付いたのである。

 フランフランの話から、母が秘蜜の甘い香りに気付いていたことを知り、クリフもまたその香りをたどろうとした。そして隠し階段を発見し、秘蜜の甘い香りを伝って、地下深くの秘密の部屋へと辿り着いた。

 そこにあるのは、父が蒐集したコレクションの数々であった。ランプの炎に映し出されたのは、無数の地獄絵、そして精妙に人の顔を象った仮面であった。そこにはあらゆる無残な死が描かれていた。悲しみと苦しみが永遠に封じ込められていた。心の底から恐怖がせりあがり、がくがくと全身を揺らした。そこから逃げ出そうとしたクリフは、階段を下りてくる足音に気が付いた。微かな光が階段の上から漏れ出していた。とっさに壁に立て掛けられた絵画の後ろに身を隠し、息を潜めた。灯りが強くなり、空気の流れが変わったのが分かった。ねっとりとした甘い香りが鼻腔へと侵入してきた。気持悪さに、クリフは吐き気を催した。その香りから逃れようと首を回すが、鼻先に纏わり付いてくる。這い蹲るようにして顔を床に近づけて、ようやくその香りから逃れることができた。生ぬるい香りは煙のように上へと立ち上っていくようだった。

 と、聴こえてきたのだ。奇妙な、背筋の凍るような声が。初めはそれが、笑い声であるとは分からなかった。いやそれどころか、人が発しているとも思えなかった。それは人とは異なるものの声。人ではない何かが、狂ったように不気味な、甲高い笑い声をあげていた。ただ伝わってくるのは、歓喜に溺れ、悦楽の感情を貪るように声を発し続けているということ。心が凍てつき、全身に鳥肌が立っていた。ただただ不快な、どこまでも心を不安にさせるその声を聞くのがいやで、怯えながら耳を塞いだ。

 階段から下りてきたのは何なのか、頭の中に浮かんでいたのは、地獄絵に描かれていた悪魔の姿であった。全身を黒い毛で覆われ、耳元まで裂けた口を持つ悪魔が、今、絵の中から出てきてしまったのだろうか。そう本気で考えていた。

両耳を手で塞いだまま、そっと絵画の後ろから覗き込んだ。蝋燭の薄明かりに照らし出されたその顔に絶句した。そこにいたのは父であった。悪魔の鳴き声だと思っていた声を発して笑い続けていたのは、カタストロプ伯爵だった。父が、無数の地獄絵を前にして、笑い声を上げていたのだ。

 クリフは父の醜く歪んだ笑顔を信じられない思いで見ると、すぐに頭を絵画の後ろに隠した。動悸はおさまらず、その鼓動が聞こえてしまうのではないかと恐れた。しばらくすると、笑い声はおさまり、絵画の裏側へと漏れ出す灯りが小さくなっていった。それとともに、甘い香りが薄れていき、全身に圧し掛かるような圧迫感が弱まっていくのを感じた。足音とともに光が遠ざかっていき、部屋が再び暗闇に覆われると、完璧な静寂が訪れた。

 絵画の裏から這い出しすと、再びランプを灯した。微かな灯りによって、周囲を埋め尽くす無数の地獄絵がぼんやりと浮かび上がる。父はこの絵の中で笑い続けていたのだ。この絵を見ながら、あの狂気の笑い声を上げていたのだ。クリフは戦慄した。父は完全に狂気に囚われている。この地獄を地上へと出現させるつもりなのだ。

 そして同時に、少年は悟ったのだ。母の気が触れた、その真相を。母は塔に閉じこもり、そこから降りてくることができなくなっていた。降りようとすれば、「地獄が、地獄が」と半狂乱に怯えるようになっていた。母はこの部屋を見つけてしまった。この部屋に描かれた地獄を見てしまったのだ。

 その考えに辿り着いたとき、クリフは自分の頭の中で何かが弾けたような気がした。それは禁断の思い。母の発狂へのやり場のない思い、マルコとの誓いに対するくすぶり続けていた思い、そして二人の死への罪悪感、全ては、長い間、出口を求めてクリフの中で荒れ狂っていた。いま、全ての悲劇の原因となった一人の人物が、一つの出口として現れたのだ。

 行き場を失っていた全ての感情が、光射す出口を目指し、その人物へ奔騰となって流れ出す。

 ――全ての根源は父であったのだ。

 父の暗殺……爆発するかのように燃え上がったその決意に、クリフはどこかしら清清しい快感のようなものを得ていた。それが秘蜜という霊薬の効果であることには気が付かなかった。

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