第六幕 少年クリフ 蜜月(2)

 マルコやカサンドラとの幸福な思い出、それがクリフを悩ませる悪夢の正体だった。夜毎繰り返されるのは、殆ど同じシーンばかりであった。じゃれ合うようにあちこちを駆け回った親友、マルコとの誓いの場面、或いは、ときに鬱陶しいほどの愛情でクリフを包んでいた母との戯れの場面、今はもう失われてしまった二人との思い出が、クリフを苛んでいた。どんなに逃れようとしても、追いかけてくる過去、繰り返される演目。目を背けても、目をつぶろうとも、決して逃れることを許さない。この幸福な記憶が、いまやクリフを捉えて離さない悪夢となっていた。

 夢を見ることが怖いのではない。夢が覚めることが怖いのだ。いつまでもその瞬間の感情に浸ることができるのなら、夢を彷徨い続けることができるのなら、どんなにいいことだろう。しかし、それは叶わない夢。夢はいつか覚める。そして覚めたあとに待っているのは、マルコも母もいない世界。陰鬱な夢を具現化したような、ウロボロス城での毎日なのだ。クリフにとって、現実こそが終わらない悪夢を彷徨っているようなものだった。

 夢を見ている間のクリフは、苦しそうにうなされているのだという。しかし、それは夢に苦しめられているからではない。夢の中にいるとき、クリフは幸福だからだ。ただその夢が覚めるのが怖くて、また夢だと気付くのが怖くて必死に目をそむけようとしている。夢にしがみつこうと必死になってもがいている。それが、寝台の上でうなされているように状態になるのだ。夢であることに気付き、それが醒める気配を感じるとき、クリフはきらきらと輝く夢の世界が、暗黒の黒雲の中に飲み込まれていくような思いがする。世界が暗転した瞬間、クリフはウロボロス城のベッドの上で目を覚ますのである。

 どのような悪夢を見ているのですか、話せばきっと楽になります。

 お父様も、コレッタも、コフも、マリィも、クリフにそう尋ねた。

 でも、言えない悪夢だった。夢から覚めたくない、この城での暮らし、そして次代の領主として生きることが、いやなのだ。だが、そんなことを言えるはずがなかった。自分は伯爵の息子であり、その自分を守るためにマルコは逝ってしまった。母を抱きとめようとした自分を突き飛ばし、母の下敷きになった。

 マルコと母が同時に命を失った、そのきっかけは紛れもなく自分だった。その日の朝、クリフはマルコを誘い、入ることを禁じられていた中庭へと、鍵を開けて入り込んだ。普段は部屋に閉じこもっている母が、早朝、部屋の窓を開けるために日に一度だけ壁際に近づくことを、クリフはフランフランから聞いて知っていた。母が混乱するため会うことを禁じられてから、ただの一度もその姿を見たことがなかったクリフは、一目でいいから、元気に暮らしている姿を見てみたかったのだ。

 マルコを説き伏せ、見張りに立たせて中庭から塔の頂の部屋を見上げた。窓を開けた母の姿が見えた。一年ぶりに見る母は、記憶のままの美しさだった。けぶるような微笑を浮かべ、金色の髪が風に揺れるのを撫でながら、赤みのさした柔らかな頬を冷たい空気に当てていた。その両手に絵のようなものを持っていた。乾かそうとしているのか、窓に立てかけて風に晒そうとしているように見えた。

 懐かしさで瞳を潤ませるクリフの前で、母はふと下を見下ろした。はっとしたときには、隠れることもできずに、瞳と瞳がぶつかり合っていた。どういう顔をしていいのか、クリフはとっさに判断できなかった。

 そこから記憶はゆっくりと動き出す。窓に身を乗り出し、手から離れた絵画が地面に落ちてくる。そして母は緩慢な動きで、満面の笑みを浮かべると、両手を伸ばして飛び降りたのだ。僅かの躊躇いも見せない、それは奇妙な跳躍だった。頭を下にして、大地に、いや、自分に両手を差し出すようにして、真逆様に落ちてきたのだ。

自分めがけて落ちてくる母に向かって、クリフもまた両手を広げた。思考は殆ど停止している。ただ、母を抱きとめようとしていた。

 体を突き飛ばされたのは、母が落下してぶつかる直前だったと思う。一瞬、何が起きたのか分からなかった。母を抱きとめたショックで体を吹き飛ばされたのだろうかとも思った。しかし違った。自分を突き飛ばしたのはマルコだった。

 よろめきながら起き上がると、目の前に残されていたのは、横たわる母とマルコ、二人の体と、その傍らに落ちている一枚の絵画だけだった。起こったことを理解し、全身が震えた。二人に近づいた。血が流れていた。その顔を見た――そこで、クリフの記憶は途切れている。絵を抱えてそこから逃げ出したような気がする。ベッドに入り、がたがたと震えながら眠りに付いた。全てを夢にしてしまいたかった。夢だと思いたかった。

 起きたときは、悪い夢だったのだ、半ば本気でそう思っていたほどだ。もうすぐマルコが、寝坊した自分を起こしに来るはずだ。そんなことを考えていた。しかし、夢などではなかったと、ベッドの下を恐る恐る覗き込んで悟った。夢の中で持ち帰ったはずの絵画が、苦悶の顔を浮かべる自分を描いた一枚が、確かにそこには存在していた。

 マルコは自分を庇って死んだ。そう、彼はあの日の誓いを守った。

 ――今度は自分が、マルコとの約束を果たさなければならない。誓いを守らなければならない。そうクリフが考えるようになったのは、夜毎のマルコとの思い出に追われ続けた末のことである。なぜマルコが自分の夢に現れ、そして逃してくれないのか、そのことを、ずっとクリフは考え続けていた。終わりのない夢になぜ自分が捕らわれてしまったのか、悩み続けていた。そして気付いたのだ。

 マルコが、自分に伝えようとしているのだ。もはや自分が逃れられないことを。城での暮らしからも、用意された未来からも、どんなに抗い、駄々をこねようとも、受け入れるしかないのだ、ということを。

 誓いを果たさなければならない――クリフはそんな重圧に苦しめられることになる。その誓いとは、領地を遍く平和で満たし、領民たちの生きる喜びと笑顔を守り、そして苦しみや悲しみを分かち合うことのできる領主となること。それこそが、マルコの願いであったはずだ。

 「そうでしょう、マルコ。ぼくはきっと素敵な領主様になってみせる。そして世を照らす光となるんだ。暗闇を払い、みんなを悪夢から守るんだ」

 小さく、しかし固い決意を込め、クリフは自分の胸にそうつぶやいた。

 立ち上がり、大きな書棚の前にいくと、奥から一冊の書物を取り出した。『英雄論』、そうタイトルが記されている。帝王学を学ぶことになり、コフからクリフに手渡された最初の書物である。帝王学は、第一巻の『胎教論』から始まって、年齢に応じた書物がテキストとして使用される。そのうちの一冊であり、内容は物語集となっている。もはや読み終えて使うことのない書物であった。

 書物を開いた。ページを刳り貫かれたそこには、一個の小さな薬瓶が収められていた。


 コフによる帝王学が始まったのは、母とマルコの死の、四年ほど前のことであった。そのとき、クリフはまだ七歳だった。

 「これは現王府によって禁じられた学問。ですから、帝王学を学んでいることは、誰にも明かしてはなりません。知っているのは伯爵と、私、そして貴方の片腕となるべく、同様の教育を受けるマルコだけになります」

 「どうして禁じられているの、なぜ、ぼくがその学問を勉強しなくちゃならないの?」

 幼心に思ったことを、そのままコフに尋ねた。

 「王が帝王学を禁じたのは、新たな英雄、新たな王の出現を防ぐためなのです。今の王国は、ほんの一握りの王族と大貴族、豪商達の支配するもの。彼らの支配の下で、どれほどの民衆が苦しめられているか、私はこれまで何度もお話をしてきました。まだ幼いクリフ様には実感がないかもしれませんが。今の王国は、悪夢の蔓延る暗黒の世、一部の支配者が富を独占している。今の世界を象った王は、地図も、学問も、宗教も、その全てを統制して、彼らの言いように世界を造りかえた。世界が彼らに奉仕するように、世界を彼らの奴隷とするために。その体制を維持するには、新たな王の出現を防がなければならない。そのために、王を生む学問である『帝王学』を禁じたのです」

 「じゃあ、僕は王になるための勉強をしなくちゃいけないってこと」

 「そうです。今の暗黒の時代を終わらせ、世を遍く光で照らし出す新たな王。クリフ様、貴方はこの世の太陽となるのです」

 聡明であるといっても、いまだ七歳の子供である。父の後を継いで領主になるのだろうとは、幼いながらもぼんやりと理解していが、コフのその言葉はどこか他人の物語を聞いているようなものだった。ただ「王」という言葉の響きが、少年の心をくすぐった程度でしかなかった。

 コフによって帝王学のカリキュラムが組まれ、日々その講義を受ける中で、自分の中に新しい世界のビジョンが育つようになっていった。そのビジョンは、クリフ一人で描いたものではない。ともに帝王学のカリキュラムをこなしながら、マルコとともに夢見たものだった。帝王学について、新たな世界について、王について、マルコとともに語り合い、学びあう中で、クリフの統治者としての思考論理は構築されていったのだ。それは言葉だけではない、血肉の通った、躍動的な夢として、小さな羽根を羽ばたかせようとしていた。

 しかし、帝王学教育と期を同じくして、城に不穏な空気が漂い始めた。それはクリフの父、カタストロプ伯爵の変調を始まりとしていた。心を病み、無気力になって城に篭るようになった。一時的な気鬱病であり、しばらくすると治った。だがそれは回復ではなく、今度は天秤が逆に傾いたように、心のバランスを崩してしまったのである。

 父がその心を病み、少しずつ異常な兆候を示し始めていることに、クリフは気付いていた。かつては母や自分の前でさえ感情を表に出すことのなかった父が、情緒が不安定になり、喜怒哀楽が激しくなっていた。城仕えの人たちを怒鳴りつけることが多くなり、大口を開けて笑うことが増えた。かと思えば子供のように突然泣き出したり、喜んではしゃぎだすこともあった。

 その領土統治が狂い始めたのも同じ頃である。領民に重税をかけるようになり、土地代官や裁判官、森林提督、荘園主、聖職者たちへ積極的に賄賂を要求しはじめた。傭兵団を雇い入れての軍事訓練が頻繁に行われるようになった。城内にいながら、クリフとマルコはコレッタの伝手によって、それらの情報を仕入れることができた。

 城に漂い始めた奇妙な甘い香り、その中で、城仕えの者たちの心もまた淀み、濁っていった。彼らの瞳から輝きが失われ、濁った薄い膜が貼り付けられているようになった。そしてどこか底冷えのする冷たい光が宿り始めたの。

 誰もが鼻をひく付かせながら、どこからか漂ってくる甘い香りを夢中で嗅いでいるようだった。城の住人たちの間で、聞くに堪えない噂話、陰口が蔓延し、誰もが声を潜めがちに会話をするようになっていった。かつては清涼な風が吹き込んで笑い声が絶えることのなかった城が、いまや笑い声は嘲笑という嘲りの笑いになり、人々をつないでいた互いに対する敬意が、他人の粗探しと非難、際限のない嫉妬へとすりかわっていった。

 それらの陰鬱な空気が甘い香りとともに広がっていくのを、少年達は敏感に感じ取っていた。彼らにはどうすることもできなかった。日々の帝王学のカリキュラムに終われる中で、互いに明るく振舞い、夢を重ねあうことで、その陰鬱な空気を払おうとしていた。二人で城仕えの者達に悪戯をしかけたり、冗談を言い合ったりすることで、ともすれば体に纏わり付いてくる嫌な気配を、必死に振り払おうとしていた。

 そんな中、伯爵の異変に引き続き、クリフの母、カサンドラが心を病んでしまった。それまでクリフを溺愛し、鬱陶しいほどの愛情を注いでいた彼女が、行方不明の末、意識不明の昏睡状態で発見され、目覚めたときには、現実と虚構の区別が付かなくなっていた。息子であるクリフを人形だと思い込み、肖像画を本物だと認識するようになっていたのだ。

 母親を塔の頂上の部屋に幽閉され、会うことを禁じられたクリフを、マルコは慰め、支えようとした。少しでもその寂しさが紛らわされるように、以前にも増して献身的に尽くし、側に付き添うようになった。二人はその絆を深めながら、さらに二年という歳月を過ごした。そしてマルコが騎士として認められる儀式を控えたある日、親友と母を同時に失うという悲劇が起こったのである。

 自分めがけて塔から飛び降りた母、それをかばって命を失った親友、そして傍らに落ちた絵画に描かれた、翼を折られ、血に塗れ、苦痛に顔を歪ませる自分自身の姿。クリフはその絵画を持ち去り、その場を逃げ出した。その絵画が予言じみたものに思え、まるで自分自身の罪を暴くかのように思わせた。なぜ母が自分を見て跳躍したのか、その理由も分からないまま、少年は二人の死を自らの責任だと思い込むようになっていた。

 自分がその場に居合わせたという事実を隠す一方で、その罪をどうやって贖えばいいのか、クリフは悩み続けていた。マルコの母であるフランフランにどんな顔をしていいのか分からず、彼女を見るたびに逃げ出してしまいたかった。マルコが夢に現れるようになったのは、そんな時であった。それは、悲劇が起こる数日前の出来事、二人が誓いを交わす場面であった。

 その夢を見た朝に、クリフは決意したのだ。マルコとの誓いを果たそう、マルコの忠誠に、一生をかけて応え続けるのだ、と。

 そしてまた、自分の部屋に隠した、地上に倒れ、血に汚れた自らの肖像画を見るたびに、クリフはなぜ母がこんな絵を描いたのか、なぜ塔から飛び降りたのか、考え込まずにはいられなかった。その瞬間の母の思いを知りたかった。母は確かに、微かな笑みを浮かべていたように見えた。それは錯覚であったのではないか。母が自殺をしたのは、絶望したからではないのか。地獄のイメージに怯え、楽園の絵を描き続けた母は、この絵を描きながら絶望してしまったのではないのか。そう考えるようになった。その死の瞬間が絶望であった――その想像は、クリフの心をきつく締め付けた。そして、思ったのだ。フランフランも同じように、なぜマルコが死んでしまったのか、その死の瞬間にどんな思いであったか、苦悩し続けるに違いない、と。クリフはマルコとフランフランへのささやかな償いのため、全てを隠してフランフランの前で演技をした。生涯残るであろうフランフランの心の傷を、少しでも治したかった。

 フランフランがクリフの嘘を暴いたのは、それから三ヵ月後のことだった。

 ――あの方はクリフ様に、王として遍く地上に楽園を創造してくれることを願っていたのです。

 フランフランはあの絵を解き明かし、そうクリフに言った。母の死の跳躍に明確な結末を見出せなかったクリフにとって、それは真実となった。その真実はマルコへの償いと重なり、クリフにとって揺るぐことのない道標となったのである。そのときから、クリフは帝王学に没頭するようになった。マルコの死によって一度は廃虚となった夢のヴィジョンに、帝王学という学問を用いて受肉させていく。そのことに日々を費やすようになった。

 クリフは自らの内に育てていった。夥しい言葉で綴られた帝王学という緻密で膨大な理論体系によって、一度は廃墟と化した夢を、夢の残骸を。この世で最も壮麗で美しい、血肉の通う生ける建造物として復活させようとしていた。マルコとともに夢見た世界、分かち合った思いを元にしたその想像上の建造物、空中庭園。それは二人の掛け替えのない人間の死とともにその存在理由を変えた。かつては未来そのものであったものが、クリフにとって、過去への憧憬、母と親友に捧げる墓標になっていたのだ。

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