第六幕 少年クリフ 蜜月(1)

 麗らかな春の日の昼下がりである。枯れた色の草原がなだらかな傾斜で広がっている。時折強く吹く風に枯れ草が舞い上がり、風下へと運ばれていく。その風を吸い込むと、クリフは胸をそらし、抜けるような青空に顔を向ける。暖かい陽光を浴びながら、芝生に寝転がった。しなびた草の柔らかな感触が首筋をくすぐる。長いまつげが眩しさに揺れる。

 しばらくそうしていると、心地よい眠気がやってきた。大きく欠伸をする。と、光を遮るようにして、見知った顔がクリフの顔を上から覗き込んだ。

 「クリフ様、遅れてすいません」

 中腰になったマルコが人懐っこい笑顔を浮かべて笑いかけた。

 「遅いよ、マルコ、退屈で眠っちゃうところだったよ」

 クリフは口を尖らせ、冗談っぽく非難するようにいった。

 「いいではありませんか。眠っても誰にも叱られないのですから。私など、コフ様の講義で眠ることも許されないのですよ」

 クリフはくすくすと笑った。コフの講義が科によっては退屈極まりないものであることを、少年は知っている。いつもマルコから「まるで催眠術をかけられているようです」と話も聞かされていた。

 「今日は五回も咳で注意されてしまいました。それも、全部調子の異なる咳です。また新しいコフ語を覚えましたよ。今日の新しいコフ語は、『背筋を伸ばしなさい』です」

 そういうとマルコは引きつった咳をしてみせる。

 「へえ、じゃあ、コフ語辞典の完成も近いんじゃない」

 「少なくとも『荘園管理論』や『森林裁判法』の勉強よりはずっと進んでいます。余りに咳が頻繁で激しいので、コフ様の体調が心配になるぐらいです。お体でも悪いんですか、と。コフ語で話しかけそうになります」

 その言葉に、クリフもマルコもいつものように笑い出した。

 コフ語とは、マルコとクリフの教育係で、ウロボロス城の家令でもあるコフの発する多種多様な咳を、言葉として意訳したものだ。コフは無口であり、必要以上の言葉を発することはない。それどころか、必要な言葉さえも、咳によって代用し、言われたほうを困惑させるので有名であった。本人は、「叱られるほうに自分の頭で考えて欲しいため、私は必要以上の指示は出さないのです」とのことだが、城の住人たちはコフの咳が聞こえるたびに、自分は何か失敗をしでかしたろうか、何かやり忘れた仕事があったろうかと首をひねり、自問自答しなければならないのは、何かと面倒くさいことであった。

 その咳の翻訳は最初、マルコが叱られて落ち込むクリフのために冗談ではじめたことであったが、語彙が次第に増えるにつれ、ほんとうの言語のように意味を表せるようになった。それは二人の間での暗号のようになり、コフ語を交えた会話をこなすまでになっていた。

 それからマルコは、コフの咳払いに頭を悩ます城の住人たちのため、咳を聞いてはその通訳をして回っていた。ある召使が「こんな咳を私に向かってしたんですけど」といってマルコの前でコフの咳を真似してみせたことがあった。

 「ああ、多分、こうでしょ」マルコは軽く二つ咳払いをしてみせた。

 「ええ、そうです、そんな感じで二回咳をして、私の方をじっとみるんですよ、いったいどういう意味なのでしょう」と首を傾げる召使い。

 「この咳は、『袖まくりをして拭き掃除をしていると風邪をひくから気をつけなさい』ってことだよ。そのとき、雑巾で窓の拭き掃除をしていたんじゃない。それを心配していったんだよ。別に叱ったりしたわけじゃない」

 その言葉に召使は、確かにそのとき腕まくりをして拭き掃除をしていました、と納得し、「心配して下さっているなら、口でいってくれりゃあいいのに」と苦笑を浮かべて愚痴をこぼした。

 「コフは恥ずかしがりやなのさ」マルコも苦笑しながらそういったが、「恥ずかしがりや? 冷徹で、厳格で、埃一つ見落とさない、あのコフ様がですか?」召使はそう聞き返しながら、思わず噴出してしまった。

 コフは荘園管理者としても裁判の調停人としても名高く、荘園の帳簿管理も、代理人の不正などもたちまち見破り、厳罰を課すことで知られていた。とかく厳格、塵一つ許さないほどの完璧主義者として、領民と城の住人たちからは恐れられていた。その怜悧冷徹な家令と、恥ずかしがりや、その言葉があまりにかけ離れていたからだ。この話は他の召使たちの間でも爆笑を呼び、しばらくは物笑いの種として使われていた。コフ様の咳は、あの方が「恥ずかしがりや」だから、と。

 コフ自身は、小言がわりの咳が人々の笑いを誘うようになったことに、しばらくは小首を傾げることになった。

 コフ語辞典とは、コフ特有の台詞を冗談半分で体系化したものである。マルコなどは講義そっちのけでコフ語の解読に取り組み、二人とも厳しいコフの講義に音を上げそうになったとき、この暗号での悪ふざけを思い出しては、胸の中でこっそりと笑みを浮かべるのだった。またマルコは、コフ語の通訳係として城の住人たちの間を飛び回りながら人々の笑いを誘い、厳格なコフのイメージを一新させることに成功していた。かつて城に仕える住人たちの間に流れていた、どこか陰鬱でぴりぴりした空気が、清涼でどこか可笑しげなものに変わっていった。コフから発せられていた重苦しい威厳や、城仕えの人々に対する無言の視線の圧力が、かりそめではあったかもしれないが、微笑ましい眼差しを通したものへと変わっていた。全てはマルコの意訳が源であった。マルコは鬱陶しがられていたコフの咳払いを、善意とジョークによって意訳して回った。

 例えば、かつては「埃が残っていたので掃除をやり直し」という咳払いが、マルコによって訳されると「埃が舞うと思い通りの咳ができないので困る」になったし、井戸端会議で笑いあう召使たちへと「無駄話をするな」と咳払いしても、マルコの解釈では「噂話の楽しみは、こっそりと隠れて話すことにこそある」であった。

 コフは教育係として領主の息子であるクリフにも一切の妥協を許さない男であったため、幾度となくクリフも泣き出したことがある。そういったときにいつも慰め、最後には笑わせてくれるのが、マルコだった。

 クリフはマルコと兄弟のようにして、いやそれ以上のものとして育てられた。他に同年代の子供ともそう会えないこともあって、クリフにとってマルコは四つ年長の兄であり、やがてたった一人の親友となり、同時に生涯を分かち合う家臣、次代の家令と領主として育てられてきた。

 真に信頼にたりる有能で忠実な家令を得ることは、一国の王になるよりも難しい、父であるカタストロプ伯爵は息子に言っていた。家令とは時勢を読むことに長けた優秀な商人であり、同時に理論的に陰謀を巡らせることのできる策略家であり、また大局を見渡し、人の情を解し、案件を公平に裁くことのできる裁判官でなければならないのだ、と。

 クリフが領主としての教育を受ける一方で、マルコもまた、コフの作成したスケジュールの下、家令となるべく膨大なカリキュラムを日々こなしていた。その合間を縫ってマルコはクリフと遊ぶようにしていた。クリフは年少であることもあって、マルコほど過密に講義は組まれていない。自然と一人で遊ぶ時間が増え、そういったときは本を読むなどして過ごすのだが、やはりマルコと遊ぶのにくらべて退屈なのである。

 クリフは自らを敬称で呼び、敬語を使って話しかけるマルコに、幼いながらも純粋な敬意を抱いていた。一方ではわがままをいって甘えることもあった。優しく、思いやりがあるマルコは、クリフの甘えやわがままに付き合い、一緒になって悪戯をしたり、怒られたりしてくれた。それは付き合ってくれるというよりも、一緒にいることがただただ嬉しく心地よいといった感情だった。その境遇も手伝ってか、クリフにとってマルコは全てを分かち合う半身のような存在であり、マルコも同じように思っていることを確認する必要などなく理解していた。

 城から離れた丘で、その日のカリキュラムを終えたマルコと待ち合わせるのも毎日のことであった。夕日が沈むのを二人で眺めながらいろいろな話をするのが日課のようになっていた。二人が話すのは、戦争での英雄の冒険譚や船乗りの話、新しく見つかった大陸の話から、商人たちの新しい商売方法、旅芸人の歌の歌詞、森の妖精や地の果てに棲む怪物の話などなど、図鑑や書物を引っ張りだしては話をし、城に出入りする多様な職業の者たちや、街の井戸端で話し込む主婦の話にまで耳を傾け、或いは首を突っ込んでは城の外の話題を集めた。クリフは城で生まれ、城で育ったためにその外の世界を書物や講義の中でしかしらない。マルコは王宮での出来事やその街の様子をよく話したし、外の世界の広さと多様さに興味を持つように、クリフに面白おかしく様々な話をした。クリフの好奇心はコフや父によってよりも、まずは友人であるマルコによって刺激を受け、育てられたといってもいい。

 クリフは城の外の世界に憧れたし、それはコフの講義や客員講師の話を聞くことのできるマルコも同じであった。それでも、二人は自然と、次代の領主と家令へとなることを、避けがたい運命として受け入れていた。それには、領民からも、城仕えも者たちからも慕われ、名君として名高い父と、その黄金の右腕として知られる怜悧な家令コフの背を見て育ったからである。二人のおかげで領民たちはみな、豊かな暮らしができ、平和を保っていられる。街の人々や村の人々が生き生きとして輝いているのは、二人の統治のおかげであり、領主と家令とは、領民の笑顔の守護者なのだ、そう少年たちが信じているからであった。

 マルコが十四歳になり、近々、正式な騎士としての称号を授けられることになった。それまではフランフランの息子として領主の庇護を受ける、いわば養われるだけの存在であったのが、カタストロプ伯爵に仕える騎士として雇われることが決まったのである。

 「ねえ、マルコ、もうすぐお父様から騎士の称号を受けるんだね」

 草の上に寝転がり、落ちていく夕日を眺めながらクリフはたずねた。

 「そうですね。伯爵様に忠誠を誓い、正式に城仕えの騎士になることができます」

 「もう忠誠の言葉、覚えた?」

 「もちろんですよ。言葉だけじゃなくて、たくさんのしきたりや作法まで、典礼では守らなければならないことが一杯ありますから。失敗でもしでかそうものなら、一生残りますからね。もう頭の中では何度もリハーサルをやっています」

 「そう、じゃあ、僕を相手に一回やってみようよ。僕はお父様の側で何度か見たことがあるけれど、マルコはないでしょう。僕がお父様の役とコフの二役をするからさ」

 その言葉の裏側に隠されたクリフの真意を、マルコはすぐさま読み取った。

 騎士の誓いは、生涯仕える主君へと捧げられるものである。主君の命は絶対であり、断る権利はない。それを破れば、厳罰に処せられることになる。それは、主君の命を己の信念と命を懸けて守り通すという、一生をかけて交わされる血の誓い。その誓いの場面を、クリフは父の側で何度も見ていた。領主であるカタストロプ伯爵が死ねば、その誓いは息子へと継承されるからだ。

 クリフはマルコが父へ忠誠を誓う前に、まず自分自身に誓って欲しかった。いや、父ではなく、自分だけに誓いを立てて欲しかったのである。生涯をかけて側に使え、命果てるまで守り続ける。その言葉を、自分以外の誰にも向けて欲しくはなかった。これは子供じみた所有欲であり、駄々をこねる子供の感情に近いものではあったが、マルコは嬉しかった。マルコは聡明なクリフに、すでに己の未来と夢を重ね合わせるようになっていた。二人なら何でもできるような気がしていた。

 はにかみながら仮初の誓約の儀を提案したクリフに、マルコは快諾した。丘の上で、たった二人で、最初で最後と定められた騎士の誓いを交わしたのだ。それはたどたどしい文言と、物々しい動作で演じられた架空の儀式ではあったが、二人にとっては本番よりもずっと重要なものだった。

 マルコがクリフの前に跪き、誓いの十字を切り、両手を差し出す。それに答え、クリフは目に見えない剣を抜き放つと、差し出された手にそっと置いた。

 いまだ少年を抜けきれない騎士が、主君への生涯の忠誠をその命にかけて誓い、さらに幼い子供の君主が、その誓いの代わりに、騎士の忠誠を裏切らない名君となることを誓約する。騎士の信頼と捧げられる命に対し、己の守護する領民のため統治にその心を尽くすことを約束したのである。

 そのときの気持ちを、クリフはいつまでも鮮やかに覚えていた。どこか気恥ずかしく、しかし言葉に尽くせないほどに誇らしい感情。沈んでゆく夕日の寂しさに、湧き上がってくる明日への期待感。それまでは「今」だけがクリフの心を支配していた。それが、「今」の向こう側、未来へと向けてまっすぐに道が伸びていったような気がした。歩んでいく道が、はっきりと照らし出されたような思いを抱いた。道標となる星を遥か彼方に見つけ出した。もう迷う必要はない、二人ならどこまででいける、そんな清清しい思いで胸が一杯になった。

 そのまま、いつまでも夢の中にいたい、そんな気がした。夢の中? そうクリフは気付き始めていた。幸福な記憶が、もはや失われてしまった過去でしかないことを、その夢が醒めてしまう気配が、何処からか忍び寄っていた。抗おうとすればするほどに、ぼんやりしていた意識が静かに冷えていく。次第に風景が白い輝きの中に溶けていく。ああ、夢が解ける――

 目覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。冷え切った汗で体が濡れていた。目尻の横には、まだ乾かない涙の跡が付いていた。

 ああ、また悪夢にうなされていたんだ。クリフは涙の跡を掌で擦ると、つんとする鼻を啜り上げた。

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