第五幕 カタストロプ伯爵 鏡像の影(5)

 伯爵はすでに秘蜜の及ぼす官能から逃れられなくなっていた。一瞬に溺れ、取り付かれてしまったといってもいい。もはや秘蜜を失うことなどできず、その効果が切れることが恐ろしかった。次第に効果が薄れていくごとに、自分の心が大きな恐怖を溜め込んでいくのを認識していた。普段は秘蜜の官能によって押さえつけられている、いや、官能へと変換されている感情、絶望、恐怖、悲しみ…それらが少しずつ捲りあげられることに怯えていた。裏返ってしまえば、そこに広がるのは耐え難い虚無の暗黒である。

 伯爵には秘蜜のもたらす一瞬が待ち遠しかった。一瞬の官能がどこまでも引き伸ばされていく一方で、その一瞬を味わうまでの時間もまた永遠とも呼べるほどに引き伸ばされていった。新たな秘蜜を味わうまでの時間は、伯爵にとって余りに長かった。いてもたってもいられず、五秒ごとに時計を確認していたが、やがてただひたすらに時計の秒針を眺め続けるようになった。十秒がようやくすぎることに苛立ち、二十秒が過ぎるごとにそのときの遅さに憤慨し、一分がようやく過ぎてしまうころには絶望感さえ覚えていた。あの一瞬を味わうまでに、どれだけの時間を耐えなければならないのか。一瞬までの時間の長さに、伯爵は発狂しそうなほどであった。

 伯爵はそのたび新たな秘蜜を欲してハインの名を呼んだが、気まぐれなハインは答えを返さず、彼によって新たな秘蜜が精製されるまで伯爵は耐えなければならなかった。秘蜜によって精神のバランスを狂わせていく操り人形。伯爵はいつしか錬金術師の言いなりとなり、彼の研究へと協力するようになっていた。

 秘蜜に耽溺する一方で、伯爵には奇妙な症状が出はじめていた。秘密は己の持つ秘密を官能へと変えるが、やがてその嗜好は他者のものへと向かっていった。他者の秘蜜に異常なほどに関心が高まっていった。その秘密を知り、暴き出すこと。他者の秘密に触れ、夢想すること、そういった行為に溺れるようになっていった。時間とともに秘蜜の効果が薄れてくるにつれ、逆に秘密の所有欲は高まった。新鮮で、かつ大きな秘密を焦がれるように欲するようになってくる。

 次第に薄れていく秘蜜の効果、その官能を維持するために、伯爵は告戒室の主である司祭を秘蜜によって篭絡し、他者の秘密を収集するようになった。他人の秘密に触れているときだけが、秘蜜の効果を倍増させ、継続時間を持続させた。秘蜜の効果と持続性を保つため、伯爵はまた新たな秘密を欲するようになり、もっと新鮮で、さらに大きな秘密ほど快感をもたらすことを知った。伯爵は秘蜜依存症であり、秘密中毒症でもあった。他者の持つ秘密とは、その個人の持つ人生、過去、思考、人間性を最も象徴的に表現する要素であった。秘密を知るということは、その人間の人生そのものを味わっているような、そんな甘美な魅力を備えていた。

 秘蜜の禁断症状、圧倒的な孤独感、鮮烈な虚無感。あれほど鮮明であった世界が、まるで無意味な絵空事のようにしか感じられなくなる。確かなものと不確かなもの、現実と虚構、想像の位置が反転する。いや、何もかもが不確かで、不安なものへと変わってしまう。恐怖が襲う。あらゆるものが自己という存在を否定しようとしている気がする。己を嘲り、笑っている気がする。一秒たりともそのような気分を味わいたくない。自らの奥底からせりあがってくるそんな感覚に怯えながら、伯爵は秘密を欲した。

 一方で、秘蜜には副作用があり、感情の奇形的な発露、強烈な自己愛を伴った。伯爵は異常な行動を起こすようになった。

強烈な自我が己の中で居所を失って荒れ狂う、そんな苦しみが伯爵を襲うようになった。そんなとき、他者の秘密に触れるという行為だけが、伯爵の心を和ませ、落ち着かせる効果を持っていた。秘密に触れていると、自分の意識が自我の境界を越えて染み出していくのである。

 伯爵は城内に住む者たちだけでなく、あらゆる人間の秘密を知りたいと妄想するようになる。それも、高貴な貴族や王族、貴婦人、高名な学者、聖職者、英雄と呼ばれる者たちなどの秘密の方が、遥かに美味であることに気付いた。彼らの秘密はその美醜が極端であり、己の欲望を色濃く反映しており、人間味に溢れていた。

 秘蜜からもはや抜け出せなくなってから、伯爵はハインによって秘蜜の精製法を学んだ。いや、それは学んだというほどのものではなかった。秘蜜とは、この城の底深くに溜め込まれた月の雫が、満月の夜に月の引力によって引き上げられ、城のある一室へと漏れ出すものを、蜂蜜に溶かし込んだものだった。城の底に溜め込まれた二百年の月の雫は飽和状態にあり、月の満ちた夜には、そこから微量に溢れてくるのである。その秘蜜の純度の高め方も、ハインは伯爵へと伝授した。ハインは、多量の秘蜜を一気に摂取すると、死に至ることがあると、その危険性を忠告した。伯爵はそれを聞き入れ、定められた濃度、分量の秘蜜を定期的に摂取するようにしていた。伯爵は、自らが秘密依存症であることを理解していたが、もはや秘蜜なしでは精神が保てないことも分かっていた。

 秘蜜に全身を痺れさせながら、伯爵は思うのだ。秘密ほど甘美なものはない、と。罪を隠し、愚かさを隠し、醜さを隠し、知恵を隠し、陰謀を隠し、裏切りを隠し、本音を隠し、憎悪を、嫉妬を、才能を、好意を、様々な感情を、事実を、欲望を、人は隠そうとする。そして日々を欲望のままに戯れる貴族たちの秘密は実に人間性に富んだ、複雑で緻密な味わいを持っている。知恵の回らない領民や奴隷などには、そのような複雑な感情は分かりえないであろ。そんな秘密にうっとりとするのは、高貴な人間の嗜みではないだろうか、そんなことさえ考えるようになっていた。

 禁じられた学問である帝王学、それを息子であるクリフへと施すことを許したのも、秘蜜への耽溺がもたらした官能があったからである。王の忠臣として辺境を守り続けてきた自分が、叛乱を起こして今の王政府を転覆させる。新たな世界の秩序を大地に君臨させる。その器である息子の成長を見守ることは、伯爵にとって大いなる歓喜をもたらした。息子はその未来に夢を見ずにはいられないほど聡明であり、優しかった。まさしく王たる器を備えて生まれてきたのではないかと思われた。

伯爵はコフと話し合い、息子を帝王として君臨させるため、謀略の準備を進め始めた。膨大な資金、兵力、後ろ盾が必要である。しかもそれらを秘密裏に行わなければならなかった。味方にすべきは、王族と対立してその権力の確保に躍起になっている貴族連盟、そして豪商たちの運営する大ギルドであった。かつて王族と蜜月の関係にあったギルドであるが、いまとなっては王族の支配を逃れた一台組織として独立した立場をとっている。王族の多額の貸付を行い、徴税権や法律にまでその力を及ぼすようになった。それが王族の反感を招き、王族は理不尽な法律によってギルドを苦しめ、その力と権利を奪おうとしていた。

 彼らを叛乱に巻き込むことができ、その支援を受けることができれば、叛乱は間違いなく成功するであろう。伯爵は莫大な資金を得るため、秘蜜を上流階級へと広めることを決めた。濃度を薄めたものの、その中毒性は高く、瞬く間に蔓延し始めた。そうして財を積み上げる一方で、彼らの秘密を買い上げるようにした。そうして秘密を介した関係を築き、組織を作り上げていったのだ。

 ある日、ハインはこう言った。

 ――二百年の間に、この城はだいぶ綻びてしまっている。かつての城主達によって増改築が施され、失われた部位もある。いろいろ場所が建築当時の機密性や耐久性を失い、機能を果たさなくなっている。今のままでは実験の用をなさない。このまま二百年分の秘蜜を精錬し、月の雫を精製しようとしても、間違いなく失敗する。機会は一度だけであり、失敗は許されない。万全を期して、この実験を成功させなければならない。

 伯爵はハインの指示で、城そのものの改修工事を行うことになった。いまだ他の城の住人には影さえ踏ませないハインが、いったいどうやって城を徘徊し、どこで研究を行っているのか、伯爵にはそのことが不思議でならなかった。しかし、改修工事を行ううちに、城に無数の隠し部屋や通路があるのが発見された。それらの通路を通り、隠し部屋の中でハインは研究を行っているのだろう。伯爵はそう考えていた。

 妻であるカサンドラが秘蜜の大量摂取によって気を触れさせ、二年を塔に閉じこもって過ごした後、自殺した。その直後のことである。伯爵はいつものごとく遠くからハインによって呼び出された。

 ハインからの指示に伯爵は首を傾げた。一つは、自分を客人として改めて城に招き、城の住人たちに紹介して欲しいというものであった。

 ――隠れていては動きづらくてね。城の改修作業や調査も、人の目を忍んでいては難しい段階にきている。それに、私も城の者たちと言葉を交わしたくなったのだ。

 そうハインは伯爵に告げた。

 しかしその紹介方法が変わっていた。伯爵が留守のときにこの城に紹介状を持って訪れたい、というものだったからだ。

 「またなぜ私がこの城にいないときに訪れたいのだね。下手をしたら、城内に入れてもらえないかもしれないが」

 ――なあにちょっとした演出さ。君の留守中に君の手になる紹介状を持ち、一人この城に訪れれば、城の人々はみな、私に奇異な視線を向けるであろう。ことにあの堅物のコフなどは私に目を光らせるだろうね。だが、それがいいのだ。そうすれば、誰もがこのハインの存在を心に刻み付けることになる。得体の知れない怪しげな錬金術師としてね。そんな視線が、私にはとても心地よいのだ。

 ハインの精神が奇妙に歪んでいることを感じたが、伯爵はそれを了承した。

伯爵が近隣への視察で留守にしている一日、ハインはこの城に訪れた。それから彼の期待通りに、城の住人たちから、神出鬼没のハインとして気味悪がられることになった。

 実際に城の改修工事の指揮を執ることになったハインによって、城は建築当時の姿へと造りかえられていった。

 ――もうすぐ、この城が実験器具として完成する。二百年にわたって蓄えられた秘蜜が、月の雫へと精製されるのだ。

 頻繁に伯爵の前に姿を見せるようになったハインはそういった。

 一方で、伯爵の周囲では様々な問題が噴出していた。

 カサンドラとマルコの死を発端とする、息子クリフの悪夢感冒。息子は如何なる悪夢を見ているのか、父である伯爵にも話そうとはせず、少しずつ体をやせ衰えさせていく。さらに、伯爵を驚愕させたのは、自分とクリフの毒殺未遂事件であった。致死量を遥かに越える毒物が料理に混入されていたのである。自分もクリフも命を取り留めたが、意思の診断によれば、それは奇跡以外のものではないとのことだった。

 クリフを器にした王府の転覆と新政府の設立を目論む伯爵とコフにとって、クリフは失うわけにはいかない、掛け替えのないピースであった。誰かが息子を亡き者にしようとしている。なぜ、何のために? 誰かが真意を隠し、秘密裏に陰謀を巡らせている。その想像は、秘蜜の効果によって大きな快感をもたらした。まるでゲームを楽しむように、伯爵は犯人が誰であるのか考えを巡らせては空想に浸った。しかし、犯人が誰であるのかはなかなか判明しなかった。そうしている間にも、クリフの衰弱は激しくなっていった。

 魔女を雇い入れることを進言したのはハインであった。人の心を見抜き、嘘を暴くことのできるという魔女がいることは、秘蜜を売買するときに引き換えにした秘密から伯爵も知っていた。ただその秘密をなぜハインが知っているのか、そのことが気になった。自分だけが知っているはずの秘密が、ハインには漏れているのである。

 ――魔女は嘘を見抜くことができる。貴方も息子の命を狙うものが城にいるなど気分が落ち着くまい。早く犯人を探し出さねばならない。それに魔女はうってつけだろう? それに『盟主と首飾り』の盟主の選出日も近づいている。貴族議員の裏切り者をあぶりだすこともできる。

 確かに。あの子が死ねば、新たな世をこの大地に降臨させる夢も潰えてしまう。あの子は新世界の種子、時代の継承者、今の王府を倒すために積み上げた秘密も、築き上げた闇の組織も水泡に帰してしまう。それは避けなければならなかった。

 ――それだけではない。魔女は私の実験の最終段階における、不可欠な部品なのだよ。彼女はいわば呼び水だ。『観測者』をこの地へと導くためのね。

 「観測者? それはいったい何のことだね」

 ――観測者とは、実験の結果を記録するための研究者さ。次の研究に役立てるため、実験の記録は受け継がれなければならない。彼には、私がアインに到達したという証人になってもらう。

 観測者、彼、伯爵はハインの言葉に引っかかるものを感じた。

 「彼とは誰なのだ、君の知り合いかね」

 ――会ったことはないが、知り合いには違いない。彼は、私と同じ錬金術師だ。私と同じくアインに到達するためにアインの破片を集めている。今の世にはかつてのアカデミーの残党や、偶然錬金術にとりつかれたものたちなど、王府の目を逃れた何人もの錬金術師がいる。彼は、そのうちの一人だ。あの魔女は、その仲間なのだよ。彼は現在、世で最もアインに近い人間だ。だが今度の実験で私は彼を越え、アインへと跳躍するつもりだ。

 ハインはそう言うと、やせこけた頬を震わせて笑った。

 ――二百年の悲願が叶う日は近い。私がアインさえ超越し、至高の存在へと昇華したことの、証人が必要だ。実験を理解できるのは、同じ錬金術師だけ、彼ならば優れた観測者として、私の実験を正確に記録し、保存してくれるだろう。

 陶然と歪んだその表情に、伯爵は強い不快感を覚えた。狂気――そんな言葉がぴったりと来るような顔をしていた。伯爵は自らもそのような顔をして秘蜜に耽っているのかと思うと、一瞬、強い自己嫌悪に陥った。しかしその感情は、やはり一瞬で快感へと置き換えられてしまう。もはや抜け出せない官能の螺旋の中、どこまでも落下していく、そんな光景を想像した。

 伯爵は一枚の幻想建築画とそれに纏わる物語を思い出した。何処までも高く聳え立つ塔、それを建築した一人の王は、なぜそのような塔を建造したのかを自問する。塔の頂に立ち、下を覗き込んだときに悟るのだ。そして王は果てしない地上へと身を投げ出す。地上にたたきつけるまで、計算では百年の歳月が必要であった。一人の人間にとっては永遠にも等しい時間。王は落ち続ける快楽に酔いしれながら、いつまでもいつまでも落ち続けていく。

 伯爵はその場面を思い浮かべ、最後の王の台詞を囁いた。

 「自分がこの塔を造りだしたのは、永遠に落ち続けるためだったのだ」

 その幻視から我に返ると、すでにハインの姿は消えていた。ただ秘蜜の残り香だけが、ぼんやりとたゆたっているのが見えた。


 伯爵が寝台の上で息を引き取っているのが発見されたのは、連盟議員である七人の大貴族が城に集う当日のことであった。新盟主の選出を明日に控え、すでに裏では全員一致でカタストロプ伯爵が選ばれることが決められていた。伯爵はその選出の場で、自らの息子を新たな政体の王として君臨させるつもりであることを明かすつもりであった。そしてその革命の盟約を締結することになっていた。

 死に顔は安らかであり、その寝姿も乱れてはいなかった。眠るようにして亡くなったのは明らかであった。ただ、その死因が定かではなく、死亡を確認した医師も、原因不明の突然死としかいいようがなかった。

 不可解なのはその死だけではない。伯爵の死が確認され、棺に納められて聖堂に安置されたその夜、如何なる魔法がかけられたのか、城中が泥のような深い眠りに包まれた。そして明くる朝、昼近くまで誰一人として起きだすことができなかったのである。

 城の住人たちが気だるい眠りから目覚めた後、一人の召使いと錬金術師が姿を消していた。なぜ城は深い眠りに包まれたのか、姿を消した二人は何処へ行ったのか。そもそも、伯爵は本当に自然死であったのか。その因果関係が幾多の推測とともに語られたが、真実を知るものは誰一人としていなかった。伯爵は棺に入れられたまま埋葬され、その幸福な夢を見ているかのような安らかな死に顔が、悲しむ参列者の心を和ませた。

 やがて伯爵の息子が城主として城と領地を継承することになり、家令として名高かった男が後ろ盾となって幼い領主を補佐することになる。数年を経て、青年へと成長した領主は、城仕えをしていた年上の女性を妻として娶った。その娘は、かつて特赦によって罪を許された侍従であったとも言われている。三人は新たな伝説を生み出すことになるのだが、それはまた別の物語である。

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