第五幕 カタストロプ伯爵 鏡像の影(4)

 緩んだ心身がかつての活力を取り戻すのに、一週間を要した。その間、伯爵は悪夢から解放された安らかな眠りを貪り続けた。静養を終えると、病み衰えていた伯爵の体は若々しさを取り戻し、驚くほどの生気に満ち溢れていた。

 伯爵の目にはあらゆるものが驚くほどに輝いて見えていた。錬金術師と出会い、秘蜜の香りを摂取してからというもの、世界がまるで異なるものに見えた。世の現象、事象などの全てが伯爵を幸福な気持ちに浸らせた。目に留まる一輪の花や冷たい突風、ささやかな挨拶でさえも、彼を感動させた。伯爵は生きているという高揚感に包まれていた。

 しかし、その感覚は永遠のものではなかった。一日、一日と、その快感が少しずつ薄れていくのが伯爵にははっきりと分かった。秘蜜の香気、その残り香を何とか思い出そうとしても、もはや高揚感は記憶だけに刻み込まれた過去のもので、反芻することもできなかった。一ヵ月後には、世界は再び灰色の風景へと変わってしまっていたのだ。あれだけ美しく感動的であった世界が、醜く不快なものへと変貌していた。感動どころか嫌悪感にむせ返りそうなほどの腐臭を放ち、呼吸をすることさえ止めてしまいたいほどであった。それだけではない。その心が圧倒的な絶望感、孤独感、暗澹とした虚無に侵され、押しつぶされてしまいそうになるのだ。自らの存在そのものが耐え難い重さと苦痛を伴ったものとして感じられるようになった。

 あの男を捜さなければ、錬金術師だと名乗ったあの男を。そしてあの秘蜜という霊薬を嗅がなければ、どうにかなってしまう。伯爵は再び床に臥せりながら、とりつかれたように考えていた。

 初めての出会い以来、錬金術師は姿を消してしまっていた。城仕えのものたちも、誰一人としてその男のことを見たものはいなかった。会ったのは伯爵だけであった。伯爵自身も幻のようにしか思えず、とてもではないが、この城に滞在しているとは思えなかった。

 再発した悪夢にうなされた朝、伯爵はうわ言のようにその名を呼んだ。あの男は言っていた。その名を呼べば現れる、と。どこにいても私の声を聞き取ることができると。それでも半信半疑で錬金術師の名を呼んだ伯爵の耳に、間をおかずに声が届けられた。

 ――何かね、伯爵。

 嘲弄を含んだ声に、伯爵は苛立った。

 「貴方は本当にこの城にいるのか」

 ――もちろん、私は言ったではないか。この城に滞在して研究をするつもりだ、と。だから城主である貴方に挨拶したのだ。用件は何かね、私も忙しい。といっても用件は分かっている。そろそろ秘蜜の効果が切れる頃だと思っていた。違うかね。

伯爵は頷き、躊躇いながらも返事をした。

 声によって呼び出されたのは、初めて会った化粧室ではなく、使われていない客室の一つであった。扉を開き、声に誘われるままに中に入ると、そこに男は立っていた。

 その側には、やはり小さな香炉が置かれている。

 「あのとき貴方が焚き染めた秘蜜という香りはいったい何なのだ」

男は答えた。

 ――貴方が体感したとおりさ。秘蜜は秘密を快感へと置換する作用を持っている。人は誰しも秘密を持っている。しかしそれは人だけではない。森羅万象もまた、その背後に無数の秘密を秘めている。秘密こそがこの世を覆っている、そう想像してもらいたい。そしてあの薬は、自らの持つ秘密だけでなく、他人、そして属する世界そのものの秘密を、自らの官能へと変換する。何かを解き明かしたような快感、世界と一体となったような全能感、脳の中で引き伸ばされた一瞬の絶頂、まさしく己が神となったような感覚をもたらす。それが秘蜜の効能さ。

 「貴方はこの城で何の研究をしようとしているのだ」

 「錬金術師の目的は一つ。アインへと到達することだ」

 「アイン? それは何だね」

 「偉大なる始祖さ、錬金術という学問の。そしてただ一人の到達者だ。彼は究極の物質を精製することによって、錬金術を完成させた。一代にして錬金術を起こし、完成させたのだよ」

 究極の物質、到達者、アイン、聞き覚えのない言葉の羅列に、伯爵は困惑する。それに気付いたのか、錬金術師を名乗る男は、言葉を区切り、よろしい、説明しよう、そういってゆっくりと語りはじめた。

 「錬金術とはすでに完成された学問なのだよ、始祖であるアインというたった一人の天才によって。私の目的は、その偉大なる始祖へと限りなく近づくことだ。そのために、彼が錬金術を完成させる過程で生み出した、究極の物質を精製しなければならない。秘蜜とは、究極の物質の生成過程で生まれた副産物だ。錬金術の真髄とは新たな物質を生み出し、変化させることにある。始祖であるアインは錬金術を完成させる過程で、無数の物質を創造した。海の原液、森の種子、太陽の破片、時のレプリカ、風の化石、火の新種、虹の源、彫刻宇宙…今となってはそれを創造できるものはいない。アインとは創造者であって、たとえ私がその物質を精製することに成功したとしても、それは創造ではなく複製の域を超えることは不可能。我ら数多の錬金術師はどう足掻いても模倣者にしかなりえない。そして彼は、錬金術の完成とともに、究極の物質を精製することに成功したという。だが、彼以外にいまだそれを手にしたものはいない。どのような物質で、どこにあるのかも分かってはいない。それが、この城には秘められている可能性があるのだ」

 「この城に?」

 なぜウロボロス城にそんなものがあるというのか。

 「そうとも、知らないだろうが、この奇妙な城を設計したのは、偉大なるアイン その人なのだよ。もう二百年以上も前のことになるが」

 その言葉に伯爵は驚愕した。この城が錬金術師などという怪しげな者によって設計されたなど、到底信じられることではなかった。

 「この城自体が、アインによって造りだされた実験装置、実験器具なのだよ。なぜこのような奇妙な場所に、奇妙な城が建造されたのか、伯爵は考えたことはないのかね。ウロボロス城は巨大な丸いくぼみの中央、いわば蟻地獄の底にある。この地形は、遥か古代に巨大な月が落下したからだ。これも知られていないことだが、かつてこの世には月が二つあった。その一つが隕石として地上に落下してきた。散らばった月に含まれる物質によってこの大地は作物の育たない不毛の地になってしまった。しかし一方で、思わぬ副産物を生み出した。それがこの香炉の蜜蝋に溶かし込まれた秘蜜という成分なのだよ。この成分を発見したのは、かつてこの地を訪れたアインだ。彼は、遥かな古代、この地に月が落下したことを知った。そしてこの地に住まうものたちが、満月の夜、その体から微量な粒子を放出することに気付いた。この地に育った者たちは、月の石の影響を受けているからだ。彼らの放つ粒子は、その重さと、大地深くに埋没した月の石の引力によって底のほうへ流れていく。染み出した粒子が漏斗の底へと溜まっていくように、この城へと集められる。それが秘蜜の正体さ。この城には、人々の体から放出された秘蜜が満月の夜ごとに集められるようになっている。この城の底の、ある一室へと秘蜜は流れ込み、溜め込まれる。そうアインが設計したのだ。それは不純物が大量に混じった混合物であるが、効果は絶大だ。貴方が経験したように、秘蜜を溶かし込んだ蜜蝋の香気を嗅ぐだけで、世の相貌は一変する。伯爵、貴方が味わったのは、いまだ精錬されていない秘蜜の滓でしかない。私が満月の夜、城の底に流れ込んだ秘蜜を取り出し、精錬して蜜蝋に溶かし込んだものだ。つまり、たった一夜分の秘蜜さ。この城の地下深く、漏斗の奥底には、アインが建造してより二百年分の秘蜜が蓄えられているのだよ。そしてアインの実験が成就するのを待っているのだ。アインは理論を完成させることには成功したが、その理論を実践することができなかった。二百年という時間が必要だったからだ。二百年分の秘蜜、それがこの城には眠っている。その秘蜜は、完成させることのできなかった究極の物質、月の雫として精錬される日を待っているのだよ。この城を実験器具として正しく機能させることができれば、溜め込まれた二百年の秘蜜は濃縮され、不純物は取り除かれ、小瓶一瓶ほどの純蜜へとなって抽出される。それこそが、アインさえも味わうことのできなかった神に至る究極の物質、月の雫なのだ」

 「月の雫、か。その物質にいったい如何なる効果があるというのだ。神に至るとはどのようなことを意味するのか、貴方にはそれが分かっているのかね」

 「無論だ。伯爵、秘蜜を味わったとき、貴方は感じたはずだ。貴方を中心として広がる世界の鮮明さ、美しさ、儚さ、強さを。言葉に尽くしても尽くしきれない、森羅万象の放つ歓びを、官能として受け取ったはず。一瞬が永遠に引き伸ばされたように感じただろう。月の雫は、その効果をさらに飛躍させる。いや超越させる。月の雫を摂取した人間は、自我から解放され、時間からも解き放たれ、一瞬という時間の中にとどまることになる。その瞬間の、この世に生きる全ての人間の人生を体験することができるのだよ。心が体から放たれ、全ての人間の心と同化し、それぞれの生を味わい、その刹那を生きることができる。同時多発的にあらゆる場所に存在し、あらゆる風景、あらゆる思考、あらゆる感情を味わいつくすことができるのだ。想像して見たまえ、どれほどの人間がこの地に生きているのか。それぞれがそれぞれの人生を、たった一つ、たった一度きりの人生しか生きることができない。しかし月の雫は、その彼我の境界を失わせる。あらゆる人間の人生を楽しむことができる。人間の持つ多様な関係性を余すところなく体感する。それを越える快感は、この世には存在し得ないのだから」

 ハインは言葉を切ると、指先に炎を灯し、香炉の中へと差し入れた。たちまちあの香りが辺りへとたちこめていく。伯爵が切望した感覚が、全身の細胞という細胞を振るわせる官能が蘇ってきた。先ほどまで絶望の只中にいたはずが、いまや桃源郷の中で快感に身悶えていた。

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