第五幕 カタストロプ伯爵 鏡像の影(3)
錬金術師ハイン――その奇妙な男が出現したときのことは、伯爵にとって悪夢の一部であるかのように記憶されている。増殖していく己の英雄像、聖騎士としての伝説に苛まされ、毎晩のように自らを襲う悪夢に心身は衰弱しきっていた。しかし夜が必ず訪れるように、悪夢からは逃れることはできない。眠ることをどんなに拒んでも、睡魔の誘惑に勝てるはずはない。起きている間は眠りを恐怖し、眠っている間は悪夢に苦しめられる毎日の中で、伯爵は常に睡眠不足で意識を朦朧とさせており、起きているのか目覚めているのかさえも分からなくなっていた。いや、起きている時の現実に比して、悪夢は遥かに鮮明であった。
最初は幻聴かと思われた。
妻さえも遠ざけた寝室のベッドの上、立ち上がる気力も湧かず、ただひたすら眠りに抗い続けていた。むなしい抵抗であることは分かっていたが、それでも抗わずにはいられなかった。悪夢に襲われるのを少しでも引き伸ばしたかった。ひとたび眠り込み、悪夢に囚われてしまっては、もはやいつ目覚めることができるかも分からない。朝になれば目が覚めることは分かっていたが、悪夢の中では異なる時間が流れているのだ。現実での一夜であっても、一月も、或いは一年もの長い悪夢に苦しめられるかもしれない。或いは引き伸ばされた時間の中で、永遠に悪夢の中を彷徨わなければならないかもしれない――永遠の地獄、そのイメージが伯爵を、心の底から脅かしていた。
声が聞こえたのだ。
――罪に抗い続けるのは辛かろう。
罪……その言葉に伯爵は戦慄する。体を起こし、辺りを見回す。その声はかつて聞いたことのない、知らない男のしわがれ声であった。良心の呵責からくる幻聴かと思い、軽い安堵に体を沈めようとした。
――幻などではない。聴こえているのだろう、私の声が。
目を見開き、立ち上がろうとする。どこだ、どこからこの声は聞こえているのだ。どこか遠くから、しかし耳元で囁かれているような、そんな違和感のある声。位置どころか方角さえ見当のつかない、得体の知れない声が、はっきりと聴こえていた。
――そんなに探しても、私はそこにはいない。
お前は誰だ、そんな言葉が喉まででかかった。しかしどこに向けて声を発すればいいのか分からなかった。しかし、声を発している人物は、ここにはいないと言いながら、伯爵のことが見えているようだった。
――会いたいなら、こちらへ来るといい。奥方の衣裳部屋の隣、化粧室で待っている。
化粧室とはカサンドラのために設えた部屋である。寝室からは回廊と階段によって隔てられており、歩いて五分ほどの距離がある。しかし、その場所からなぜ声が届くのか。
伯爵は衰えた体で壁を伝うようにして化粧室へと向かった。衣裳部屋の扉を開け、その奥にある化粧室の前にやってくる。乱れた呼吸を悟られないように小さく整える。
――私は中にいる。悪夢の続きではない。怖がらずに入ってくるといい。
そっと扉を押し開く。大きくはない小部屋である。日の光が差し込んでいて、眩さに課をしかめる。しかしそこには誰もいなかった。化粧台と香水や宝石などの棚だけが壁を占めているだけで、部屋には隠れる場所などない。
――見えないのかね。もっと奥へ来たまえ。
それでも、声は聴こえてくる。その声に誘われるままに、部屋の奥へと歩を進める。
――ほう、間近で見ると、ひどいやつれようだな。まるで死人だ。
声は相変わらず耳の奥に直接響いてくる。
ふっと視線を横にずらした伯爵は、驚きで体が竦んだ。すぐ真横に一人の男が立っていた。部屋に入ったときには存在しなかった男が、忽然として姿を現したのだ。まるで御伽噺の魔法使いのように。
体を男に向け、じっと男の顔を覗き込んだ。見知らぬ五十がらみの男である。頬はこけており、顔色はよくない。目の下は黒く落ち窪んでいる。一見して病人のようである。しかし、その表情そのものは生気に溢れていた。口の端に浮かべた笑みは不遜な印象を抱かせた。口よりも目がにんまりと弧を描いて歪み、楽しそうに伯爵を眺めている。
「お前はいったい誰だ」
衛兵のいる門を抜けてどうやってこの中に、なぜその声は遠い私に届くのだ、何をしにこの城へ、無数の疑問が頭の中で渦巻いていたが、朦朧とした伯爵が言いえたのはその一言であった。
「伯爵殿、初めてお目にかかる。私は旅の学究、錬金術師のハインだ」
錬金術師ハイン、その名を伯爵は知っていた。
錬金術師とは、古くから御伽噺などに登場する物語の役柄であり、各地に残される数々の伝説の所有者である。いまでも時折、流行病のように、どこそこ錬金術師が出現したという噂が巻き起こされるが、その殆どがペテン師だという。世を惑わすとされ、捕らえられた自称錬金術師は牢獄で死を強いられている。錬金術師イコール詐欺師というのが、今の定説である。そんな中で、実しやかに本物の錬金術師の存在が噂となって囁かれることがある。他の詐欺師やペテン師、口上師とは異なる、本物の錬金術師がいるというのだ。滅びた学問の継承者として、いまだにその存在が幻なのか現実なのかすら定かではない。噂や物語の中だけで語られる蜃気楼のような存在である。
その錬金術師は『シャルラタン』と呼ばれるサーカス団を率いているという。夜を纏い、暗闇にまぎれて各地を流離う奇妙なサーカス団、真夜中を棲みかとする闇の興行師達。彼らは国境警備をものともせず、神出鬼没に出現しては事件を起こし、煙のように消え去ってしまうという。各国の公式、非公式な組織、数十団体から懸賞金がかけられ、その総額は莫大な金額となるという。しかし誰も彼らの消息を掴めず、捉えられずにいる。そして奇妙奇天烈な団員達を率いる団長が、ハインという名の錬金術師だという。
それは物語であり、風聞であった。夜に紛れ、闇をまとって旅をするそのサーカス団は、国境を越えて子供たちの童話に語られるモチーフでもある。妖精や半獣人、小人、巨人、魔術師、曲芸師、道化師、語り部、ナイフ使い、猛獣使い、軟体人間、岩石男、人魚、双頭族などなど、世にフリークと呼ばれる奇人たちを見世物として扱っている。サーカス団にまつわる物語は数知れず、地方色が強く、時代を反映して変化することもあって、一つのエピソードが無数のヴァリエーションとなって残されている。今もまだ脚色されなおし、増殖し続けているといってもいい。
「ハイン? 暗幕のサーカス団『シャルラタン』の団長と呼ばれる、あのハインか」
――そうとも、わけあって今は一人で旅をしているがね。
「彼らは物語の登場人物であって、架空の存在ではないのかね」
――誰もがそう思っているが、ハインもシャルラタンも、確かに実在するのだよ。
「なんのためにこの城に?」
「この城に興味があってね、しばらく逗留することに決めたのだ。今日は、城主である貴方に挨拶に訪れたのだよ」
目前で話しているはずなのに、やはりどこから聞こえてくるのか判然としない、不快な声である。何よりもその傲慢な物言いに、一瞬、伯爵は耳を疑う。逗留? 誰がそれを許可したというのか、挨拶? 盗人のように忍び込んでおいて何を言っている。平民であれば、裁判で死罪に持ち込めるほどの大罪だ。それに錬金術とは、当に滅びた怪しげな学問のはず。
傲慢な男の言葉を一笑に付そうとすると、再び声が響いた。
「伯爵、貴方に私を拒むことなどできないのだよ。大罪を公にされたくはあるまい」
表情が強張り、背筋には悪寒が走った。
この男は知っているというのか。コフさえ知らない、私の犯した罪を。
「そう知っているとも。貴方の秘密、犯した罪の全貌を」
ハインと名乗った男は伯爵の心を読んだように追い討ちをかける。
「しかし、あれは仕方がなかった、あの時はあれが最善の手段であったのだ」
声がうわずるのが分かったが、止めることはできなかった。
「ではなぜ悪夢を見続けるのだね、どうしてそんなにもやせ細ってしまったのだね。貴方も分かっているはずだ。己の犯したのは神に背く大罪だと。死すれば永劫の地獄に送られるということが。それとも、神さえも欺ける、そう思っているのかね」
びくん、と伯爵の体が跳ね上がった。動悸は激しく、呼吸は荒々しくなる。それを楽しげに見やると、男はさらに続ける。
「聖騎士? 辺境の名君? 王国の忠臣? よくいったものだ。確かに少人数で蛮族どもを焼き殺すには、一箇所に閉じ込めなければならなかった。しかし神の名を騙って聖堂におびき寄せるとはね。村々を襲った報酬を、そこで受け渡すと契約を交わしていた。しかも洗礼を施すと偽って」
己がひた隠しにしてきた秘密、恥ずべき罪を言葉にして突きつけられ、伯爵は羞恥心で全身が火照るのを感じた。
「自作自演で侵略のシナリオを描き、蛮族に村々を襲わせておいて、やつらともども領民を村ごと焼き尽くすとは、悪魔も鼻白むほどの悪辣さだな」
この男は全てを知っている。伯爵は強い眩暈を覚え、暗闇の底に落ちていくような錯覚を抱いた。
思い出すまいとしていたその日の光景、夜毎、悪夢として味わう、劫火に焼き尽くされる場面が脳裏に浮かび、その匂いや熱までが現実のものとして蘇った。
全ては己自身が描いた計画の下に行われたことであった。
黒死病の侵攻は予想を上回る速さであった。村そのものを隔離し、新たな施寮院を設置する時間もなかった。間諜の伝書鳩によって届けられた文には、すでに辺境一帯の村々が黒死病に感染し、次々と周囲へと蔓延し始めている様子が克明に描かれていた。そしてその間諜もすでに感染しており、これが最後の文になるであろうことが記されていた。それは、新たな黒死病がかつてない感染力と速さを持っていることを明らかにしていた。
水際で食い止めなければ黒死病はやがて王国全土へと広がってしまうだろう。どうあっても、ここで感染経路を断絶しなければならない。感染の原因が分からないため、とるべき手段は一つしかなかった。感染地域一帯を炎によって焼却してしまうことである。人も、物も、動物も、空気も、熱によって浄化させなければならない。それは古くから知られた最も有効で、かつ残酷な黒死病対策であった。毒が全身に回る前に腕を切り落とす。そういったような単純で原始的な手段である。
伯爵にはそれ以外の手段は思い浮かばなかった。手をこまねいて被害が広がるのを待っていては、いずれ夥しい死者で大地が埋め尽くされるであろう。全身に毒が回る前に、その腕を切り捨てなければならなかった。
しかし伯爵には自ら手を下すことができなかった。辺境の村々はその殆どが養蜂村であり、かつて伯爵が幼い頃に父と巡り、その村人たちとともに語らい、笑い合いながら祭りを楽しんだ地であった。そして自身が父となってからは幼い息子を伴い、やはり同じように村々を巡って親交を深めていた。伯爵は村の名を聞けば、そこ住む領民たちの名や顔を一人一人思い浮かべることができた。
また、名君として領民の尊敬を一身に受け、王国中にその名が轟いている伯爵にとって、その名声を失うことは恐怖であった。それは単に崇められるという快感に固執したのではない。領土を健全に運営するためには、領民の伯爵への信頼と敬意が必要不可欠であるからだ。もしも劫火の元に村を焼き払い、それによって瘴気を浄化したとしても、辺境の領民たちはその犠牲となってしまう。切り捨てられた村の噂は、やがてウロボロス領全土に広がるだろう。それが例えいまだ感染していない領民を守るためだとしても、領民の伯爵への不信と不安は一気に増してしまう。それは黒死病にまさる速さで人々に感染していき、やがては領主による統治を受け付けなくなってしまう。人々は精神的な抑制を失い、秩序は忘れ去られ、そして文字さえも捨て去り、欲望のままに彷徨う獣へと戻ってしまう。領地が混沌に飲み込まれてしまうのである。その想像は伯爵を恐怖させるに十分であった。
それだけではない。守らなければならない無数の命を奪うことがどれほどの大罪になるのか、伯爵には想像することさえできなかったのである。
伯爵は自らの持つ天秤を見つめて最終的な計画を立案した。それは自らの名声をさらに高め、黒死病の脅威を消し去り、さらには森に巣食う蛮族を一網打尽にするというものである。
伯爵は辺境一帯で親交を深めていた蛮族に、黒死病に汚染した村々を襲わせたのである。契約を交わし、多額の金貨と引き換えにして。依頼人である自分の名を巧妙に隠し、村々を襲って略奪をさせ、そして全ての家々に火を放つように依頼した。村人たちを一人も残さずに殺しつくし、その屍骸もろとも焼き払うように頼んだのだ。殺戮と略奪、放火が終わったあと、一つだけ残すように言っていた大聖堂に蛮族たちを集めた。その蛮族は聖教会の信徒であり、洗礼を受けたがっていた。その場所で金貨を払い、神の名の下に罪を許し、洗礼を授けることを約束していた。そうして蛮族たちが教会堂に集ったとき、周到に潜ませていた精鋭によって一気に扉を封鎖し、四方から火を放って焼き殺したのである。
その地に訪れるまでに伯爵の下に集ったという農民の兵士たちはすべて、変装をさせた傭兵たちであった。しかし、彼らの姿は他の領民たちを鼓舞し、その心に強く焼き付けられることとなった。蛮族の侵攻に対する勇気を芽生えさせ、また、自らが領地、国家というものへ属していることを強く意識させることにもなった。
全ては伯爵の計画通りに進み、その演出効果は予想以上の結果をもたらした。しかし伯爵自身は、自らの抱えた秘密と犯した罪の大きさに、その心に暗い闇の澱を抱え込んでしまったのである。
計画を立案したとき、伯爵は己の感情を消し去り、全てを数値に置き換えて天秤にかけた。それは事態を最も効率よく処理する手段であり、それ以外の方法を考え付くことはなかった。被害を最小限に押しとどめ、事態を利益につなげるという理想的な策略に、酔ってさえいたのだ。
しかし自らその地を訪れ、夥しい屍骸を見たとき、そしてまた大聖堂の中でもがき苦しんで焼き殺された蛮族たちを見たとき、その阿鼻叫喚の風景が心に刻み込まれてしまったのである。深く、大きく、心そのものを削るようにして彫りこまれた光景は、癒えることのない大きな傷となって伯爵を苛ませるようになった。
伯爵は、賞賛の嵐の中で、己の存在が神格化し始めていることに気づいた。やがて自身に向けられる他者の視線が鬱陶しいものとしてしか感じられなくなっていた。羨望と賞賛の眼差しが、まるで自分を責めているような気がするのである。伯爵は人々の視線に、押しつぶされそうな重圧と罪の意識を抱くようになっていた。城の住人たちに対しても同様であった。城仕えの者たちの伯爵への視線は、憧憬や尊敬などを飛び越え、心酔、信仰心へと近いものへとなっていた。一方で、伯爵は以前のように心の底から笑うことができなくなり、どんな表情を浮かべていても、どこか心が引きつり、心と表情の間に違和感を覚えるようになったのである。以前は心のままに接していたものたちとも、いったいどんな顔をして、どんな表情で接していけばいいのか、そんなことばかりを考えるようになっていた。そんな心の徴候は、妻と息子へと顕著にあらわれた。
息子や妻に対し、胸を張ることができなくなった。瞳を交わしながら話すことができなくなった。正面から対峙することに恐怖さえ感じるようになった。二人のまっすぐな視線に射られると、心に刻み込まれた地獄絵が傷口のようにぱっくりと開いて疼き、ずきずきと全身に痛みが走る。そして自分というものがたまらなく嫌になるのである。
そして目を背けよう、忘れてしまおうとしていたその風景は、やがて逃れることのできない悪夢となって、夜毎に伯爵を苦しめるようになったのだった。
その秘密だけは知られるわけにはいかない。死しても墓場まで持っていかなければならない、そう考えていた。にも関わらず、目の前に佇むハインという男が、全てを知っているというのである。伯爵は己の秘密を知るものを前にして、自身を強く恥じた。一方で、己の罪悪感に自己弁護を行うように男に答えた。
――すでに辺境の村々は黒死病に侵されてしまっていた。瘴気が噴き出して立ち込めていた。地獄が王国の全土に広がる前に、焼き尽くさなければならなかったのだ。
話しながら、それが言い訳に過ぎないことも分かりすぎるほどに分かっていた。だからこそ良心は伯爵を咎め、夜毎の悪夢に苛まされるようになったのだ。
伯爵は袖に隠した短刀にそっと手を伸ばした。知られた以上は、殺さざるを得ない。素性を確かめ、どこで自らの秘密を知ったのかを聞き出してからにするべきだろうか。
そんな考えを頭に巡らせた。と、男が放った言葉が、伯爵の手を止めた。
「また殺そうというのかね、私は貴方を救うことができるというのに。悪夢を消し去り、大罪を犯した苦しみを取り去ることができるのは、この私だけだというのに」
悪夢を消し去る――それは伯爵が願ってやまないことであり、神に祈っても聞き入れられないことであった。むしろ神の存在こそが、伯爵を悩ませているといってもよかった。
己を苦しめている悪夢の正体とは、神に背き、神の名を騙った背徳者として、地獄の業火に永遠に焼き尽くされる己自身であった。死ぬこともできず、夜が訪れることに、眠りが訪れることに怯え続ける日々に、伯爵は疲れ果てていた。終わることのない円環にとらわれ、そこから抜け出すことができない。絶望が伯爵の心と体を蝕んでいた。
「嘘だ、悪夢を取り除くなど、錬金術師などにできるはずがない。我が罪の苦しみを消し去ることなど、誰にもできるはずがない。それができるのは神のみ。神が許さぬ限り、叶うことはないのだ」
「神か、ならば己が神になればいい。許されたいと願うならな。貴方が神になれないというなら、私が神へなっても構わないのだよ。そして貴方の罪を許してやろうではないか。それも拒むというのなら、いっそ神を造ってしまえばいいのだ。機械仕掛けでも、文字仕立てでも、貨幣理論によってでも、美学体系によってでも構わない。そうして自らの頭上に降臨させればいいのだ」
神になる、神を造る……その言葉は、伯爵の所有する辞書には存在し得ない、想像さえすることを許されない、意識の遥か彼方、別次元の言葉であった。
もはや傲慢を通り越し、狂っているとしか思えないその物言いに、伯爵は絶句して言葉を失った。男はそんな伯爵に不敵な笑みを浮かべる、懐から一つの小さな香炉を取り出した。伯爵はそれをどこかで見たような気がした。男は奇妙なことに指先に小さな炎を灯し、香炉へと差し入れる。何をしようというのか、伯爵は男の動きがやけに緩慢に感じられた。
「私の言うことが嘘だと思うなら、少しでいい、この香りを嗅いでみるといい。神のほんの僅かな残り香でしかないが、それでも一瞬、神の影ほどは垣間見えるかも知れない」
香炉から微かな香りが漂ってきた。それは僅かに甘さを含んだ、蜂蜜を溶かしこんだ香水のような香りであった。それを鼻から吸い込んだ瞬間、伯爵の頭の中で火花が弾けた。それまで空ろであった心に強烈な快感が注ぎ込まれた。憂鬱であり、あらゆるものが鬱陶しかったはずの心が、歓喜の音をたてて躍動し始めていた。刹那にして伯爵はその香りに陶酔し、溺れていた。香炉から漂ってくる香りが、伯爵にははっきりと見えた。色あせていた光景が、香りに触れることによって鮮やかに色づいていた。その香りが漂った跡は、まるで曇りガラスを指でなぞったあとのように鮮明に彩られていた。香りが広がっていくことで、部屋は次第に極彩色に染め上げられていく。それは色が迫ってくるだけではない。部屋に散りばめたられた無数の匂い、壁や家具の僅かな傷跡や、埃の積もり具合、そういった些細な一つ一つが、圧倒的にリアルな情報として伯爵の五感に押し寄せてくるのだ。皮膚を這い回り、鼻を突きぬけ、舌を舐り、耳にオーケストラの如くにこだまして、さらにその奥にある細胞へと伝わった。
伯爵は書架の端の置時計を見た。その秒針が止まっているのを見た。あらゆるものがゆっくりと静止していくのが分かった。そして秒針がほんの僅かずつ動き、次の一秒に辿り着くまでの時間がどこまでも引き伸ばされていくのを体感した。意識を集中すれば、一秒をどこまでもゆっくりと感じることができた。
香りが部屋に色を与え、香りを与え、音を与えるようにして充満していく。部屋の細部という細部が息づき、その呼気は伯爵の体内にあらゆる感覚器官を通して吸収された。
一瞬にして世界はその姿を変えた。伯爵の頭の中で、磨り減った古い皮を脱ぎ捨てるようにして、世界は確かに脱皮したのだ。美しくも儚い、壮大で深遠な宇宙が伯爵の周囲には広がっていた。伯爵は自らが世界の一部であり、また世界もまた己の一部でしかないことを理解した。そこに己が存在するということだけで、生きているということだけで細胞という細胞が歓喜に震えていた。痛みも、苦しみも、すべてが伯爵にとって輝ける大いなる奇跡となって感じられた。この世の真理、世界の魂と一体となったような全能官。すべての謎を、この世の秘密を解き明かしてしまったかのような達成感、そして深遠なる真理に触れているという満足感。
伯爵は我を忘れ、いや、森羅万象を取り込んだ果てしない己自身だけになって、瞬間の放つ絶頂感に浸り続けていた。
最も時が引き伸ばされた瞬間、瞬間の中のさらなる刹那、伯爵は確かに神の存在を感じた。その神の姿が、ほんの僅かだけ垣間見えたような気がした。必死に五感を研ぎ澄ませ、その去っていく後ろ姿を追おうとしたが、影さえも踏むことはできなかった。微かな余韻、残り香だけが、何よりも鮮明に脳裏に焼き付いていた。
その後、少しずつ時計の秒針の進みが速くなっていった。次第に香気が薄れていく。気が付いたとき、伯爵は部屋の中に快感の余韻の中に佇んでいた。いまだ全身は官能の漣にたゆたっている。その一日とも一月とも感じられた時間は、現実には僅か十秒ほどの「瞬間」でしかなかった。
「どうかね、神の後ろ髪か服の裾ぐらいは見えたのではないか」
呆然とする伯爵の耳に、錬金術師の声がやたら遠くから聞こえてきた。振り向けば、先ほどと同じ場所で、満足そうな顔をして己を眺めている。
圧縮された時間が過ぎたあと、訪れたのは弛緩した物憂い空白だけであった。ただ先ほどまで己を捉えていた、張り詰めていた苦痛、悲しみ、絶望感も、だらしなく緩んで琴線を震わせなくなっていた。
「今の香りは…? いったい私に何をしたのだ」
自分の声が男の声と同様に遠くから聞こえてきた。自分ではない誰かが発しているような気がした。
「私が精製した秘蜜という名の霊薬だ。それを蜜蝋に溶かし込み、香料として調合したもの。いまだ純度の低いできそこないだがね。完成すれば、神へと至る薬となる」
神へと――伯爵は少しずつ失われていく感覚を惜しみ、切望のうめき声をあげた。
「どうだね伯爵、今のような一瞬を味わいたくはないかね。秘蜜は未完成。研究を進めれば、今より遥かに鮮烈な瞬間を味わうことができる。今の精錬度では、せいぜい神の残り香を味わう程度だ」
心が惚けてしまった伯爵に、男は語りかけた。
「伯爵、実は貴方に手伝って欲しいのだ。秘蜜の純度を高め、月の雫という究極の物質を精製する我が研究を。私は遥かな時を隔てて、ようやくこの城に辿り着いた。この城には大きな秘密が眠っている。二百年という時間をかけてじっくりと熟成された、極上の秘密が、味わってもらうのを待っているのだ。それをこの城の正統たる城主である貴方と分かち合いたい」
伯爵はもはや思考する気力さえ萎えてしまっていた。男の言っていることの意味も分からず、不可解な言葉の羅列でしかなかった。しかし過ぎ去ってしまった目くるめく一瞬をもう一度味わうためならば、どんなことでも厭うまい、そう考えていた。
「見たくはないかね、神の全貌を、全能の神がいったいどのような姿で、どのような顔をしてこの世をご覧になっているのか、その相貌を見てみたくはないかね、伯爵」
伯爵はもはや男に抗うことなどできなかった。ただ夢見心地の余韻へといつまでも手を伸ばし、その喪失感に震えていた。こくりと頷いた伯爵は、よたよたと足をふらつかせて尻餅をついた。
伯爵が頷いたのを確認したのか、男はその場から姿を消してしまった。煙のごとくに掻き消えてしまった。
立ち上がることなく、背中を倒して寝転がった伯爵は、再びどこからか男の声を聞いた。
「今は話す気力もないようだな。秘蜜を初めて摂取したのだから、仕方あるまい。伯爵、今の約束を忘れないようにしていただきたい。私は貴方にどこからでも話しかけることができる。貴方の言葉も耳を傾ければ遠くにいながらにして聴き取ることができる。会いたくなれば我が名を呼べばいい、都合がつけば姿を現そう。我が声に耳を傾けるがいい。私はこの城で研究を進めることにする」
夢か現か、その区別もできないまま、伯爵と錬金術師ハインとの出会いは終わった。
残されたのは小さな香炉一つだけであった。何の変哲もない香炉の中には、燃え尽きた蜜蝋がほんの一垂らしだけ、固まってこびり付いていた。
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