第五幕 カタストロプ伯爵 鏡像の影(2)
カタストロプ伯爵は生まれながらにして次代の領主であり、この辺境の地の後継者であることを定められていた。不毛の大地であるウロボロス領で、蜂蜜という産業によって領地経営を行ってきた名家の息子として生を受けた。父も、祖父も名君として知られ、それは幼少時からの領主としての徹底した教育によるものだとされていた。無論カタストロプ伯爵も、幼い頃より領主としての様々な教育を施され、また青年期においては王都の学院を優秀な成績で卒業し、その後、騎士として戦地に赴き、いくつもの武勲を立てた。
若くして爵位を継いだのは、父が急逝してしまったからである。そのときにはすでに家令として父の右腕となっており、荘園経営や森林統治という主要な職務をこなすまでになっていた。
各方面でその名を知らしめた伯爵は、また敬虔な聖教徒としても有名であり、これだけは、祖父や父とは異なる点であった。伯爵は爵位を継いでから、多額の寄付を聖教会へと行うようになっていた。聖教会は国境を越えて勢力を持ち、いまや海を越えてその信仰を広げようとしていた。伯爵が敬虔な聖教徒であったのは、主に三つの理由が存在する。一つは、母がやはり信仰の篤い聖教徒であったこと、そして二つ目が、その教義に感銘を受けたからである。慈愛をその教義の柱に掲げた聖教会は、各地で奉仕活動を行っており、人々の心に安らぎをもたらし、不安と恐怖の渦巻く世で、精神の拠り所として機能していた。戦乱、疫病、天災、飢饉……それらの恐怖に常に晒される人間にとって、聖教会がどれほど救いになっているのかを、伯爵はかつて修道女であった母親から教わったのだ。
そして三つ目が、地獄への恐怖心である。罪人が死後に落とされるという地獄、そのイメージは聖教会が信徒を増やし、信仰心を煽る最も大きなファクターとして利用されていた。司祭や聖職者たちによって、様々な地獄の光景や様子が語られていたのだ。罪を犯したものは、死後、その地獄に落とされ、永遠に苦しまなければならない、と。この時代、聖教会の教えでは、死は生の一部ではなく、生との完全なる断絶であり、新たな世界への旅立ちとされていた。死後、天上の世界へ行くためには、罪を犯してはならず、善行を積まなければならない、そう聖職者たちは説いていた。地獄のイメージは鮮明であればあるほど、効果が高まる。地獄の語り部としての司祭たちの手腕は卓越しており、また語りだけでなく、絵画、音楽、演劇など、芸術などを駆使して、その存在を浮き立たせようとしていた。地獄への恐怖は王国全土を覆い、国境を越え、人々の心に確かに刻み込まれていたのだ。
聖教会は神の前では誰もが等しく裁かれると説き、いかなる身分のものであっても、罪を犯したものは等しく地獄に落とされると説明していた。そしてまた一方で、富とは罪悪そのものであり、分かち合い、分け与えることをしなければ、やはり地獄へと落とされるとされていた。そのため、商人たちは生前からこぞって教会へと莫大な寄付をしたし、死後の遺言書には、すべての財産を教区の教会へ譲り渡すということが多かった。
壮麗な教会の建築費用はその七割が大商人や信仰の篤い貴族、王族からの寄付であった。聖教会は恐怖をあおり、罪悪感をあおり、一方で良心を際立たせることで財源を確保していた。聖教会は譲渡された広大な荘園を直轄領として経営し、巨額な資金源を元にさらに教区を広げていたのである。
いまだ世界の形すら定まらず、灯りといえば高価な蝋燭とランプだけという暗黒の時代である。絵に描かれたものも、文字に記されたものの、すべてが現実のものとして受け入れられる。人々の未知に対する想像力は圧倒的であり、例えば「ありえない」「そんなはずがない」などという常識などどこにも存在しなかった。地獄も、怪物も、魔女も、死神も、そして地獄も、すべては得体の知れないものとして現実に存在しえたのである。
地獄のイメージが伯爵を苛烈に捉えていたのは、卓越した司祭の語り口や芸術作品だけが要因ではない。それは実際に戦乱の地に赴いたことや、赴任された領地で黒死病や疫病による夥しい死を目の当たりにしたことが、彼の精神に消えない影を落としていた。その無残な救いようのない現実こそ、地上に浮上した地獄であった。
それらの地獄から自らの領地、領民を守るため、伯爵は領主という職務に精励し、あらゆる手段を講じてきた。聖教会への寄付を惜しまないだけでなく、黒死病などの疫病や蛮族の侵攻から領地を守るため、街壁を建設し、検疫所を設置し、香を焚き染めることを奨励した。それまで蓄えてきた伯爵家の私財を投入し、蜂蜜産業を拡大して利益を増やし、辺境の拠点には雇い入れた傭兵団を配置させた。
その頃、王府は絶対王政を進めようと貴族や各領主たちの力を削ごうとしており、裁判権や徴税権を奪い取ろうと画策しており、いまや聖教会の権限さえも侵そうとしていた。王府からの支援は期待できず、私財の没収すら噂されるなかで、伯爵は片腕として育ててきた家令とともに、豪商も驚くほど見事な経営手腕を発揮し、領地と領民を守り、その生活に安心を与え、豊かにした。領地を自らめぐり、領民と話をし、ともに笑い、ともに食事をするという行為は、貴族としては非常に珍しく、一般の貴族たちからは冷ややかな目で見られていた。しかし、それこそが伯爵を名君たらしめたといっていいだろう。やがて領民が領主を敬うようになり、信頼を寄せるようになっていったのである。
名君として名声が高まる一方で、妻と子に伯爵は恵まれなかった。三度の結婚は三度とも、赤子の死産と妻の死という最悪の結果によって終わりを告げた。そのことは伯爵に、すべての原罪は自らの体から生み出されるのではないか、そんな思いを抱かせた。一部では、妻を尽く失ってしまう呪いをかけられている、そんな噂さえ広まっていた。長く新たな妻を娶ることを拒んでいた伯爵が最後にもう一度と決めたのは、やはり後継者を育てなければならないからであった。家令であるコフの強い進言もあり、一人の宮女を選んだ。年若く健康なことが伯爵の条件であったが、ある舞踏会で見たカサンドラの躍動する肢体に、伯爵はたちまち魅了された。また彼女は幼くして亡くした母と同じ、敬虔な聖教徒だという。それは伯爵にとって最大最後の恋であった。
カサンドラを娶り、息子であるクリフが無事に生まれたとき、伯爵は感涙にむせび泣いた。それまでに生まれることのできなかった三人の子、そして愛を育む前に失った三人の妻、それらに注ぐことのできなかった愛を、惜しむことなく与えよう、そう決意した。妻は愛らしく、息子は愛しかった。妻の死を恐れて新たな子を作ることを自ら拒んだほど、妻への愛も日に日に増していった。クリフもまたその聡明さを幼くして感じさせる、奇跡のような子供であった。この子をやがて私を超える、誰からも敬われる名君に育て上げよう。領民たちを愛し、また愛され、ともに笑い、ともに泣くことのできる、素晴らしい領主へと育てよう。そんな夢を抱いていた。
未曾有の黒死病が領地を脅かしたのは、クリフが四つになった頃である。王国の国境を越え、広大な森によって隔てられた蛮族の領地から、王国の内部へと黒死病は迫りつつあった。各地に送った間諜や旅の商人から、蛮族の住む地で、かつてないほどの規模で黒死病が荒れ狂っていることは聞かされていた。その感染源、感染経路は定かではないが、次に黒死病が襲うのが、ウロボロス領である可能性は高かった。それまでウロボロス領は黒死病による被害は殆どなく、それは発生地から遠く離れ、感染経路から外れていることが幸いしていた。だが、領民たちは伯爵による香炉奨励と検疫所、また多大な寄付による神の加護による福音だと信じていた。
いち早く感染経路を想定した伯爵であったが、その実、とるべき手段を持たなかった。香炉も検疫所も実際にはどれほどの効果があるのかは分からなず、気休めにしかならない。今度の黒死病が新種であるなら、いかなる手段を講じていいかは分からないのである。間諜から寄せられるのは、それまでの如何なる予防法、治療法も効果がなく、恐るべき感染速度で大地を死が埋め尽くしていく、という恐ろしい情報であった。
このままの感染経路を辿れば、辺境であるウロボロス領を足がかりにし、やがて王国全土へと広がっていくことが予想され、しかも、それはかなりの高確率であるように思われた。想像するだに恐ろしい地獄が確かな足音を立てて近づいてくるのを、伯爵は脂汗を流しながら聞いた。いかに祈ろうと、それが幻聴ではないことは明らかであった。
伯爵は信仰が篤かったが、恐怖に任せて無闇に神に縋りつこうとはしなかった。理性で物事を考え、守らなければならないものを守ろうとした。己の知を尽くして対策を考え、その実務をこなそうとした。そして描き出された計画案を感性によって眺めたとき、伯爵はその辛らつさに吐き気を催した。
片腕であるコフにさえ全貌が明かされることなく、その計画は実行された。事態が収束した後、領主であるカタストロプ伯へと賞賛の嵐が巻き起こった。しかし、それは黒死病を撃退した領主として、ではなかった。蛮族の王国への侵攻を食い止めた英雄としてであった。黒死病がウロボロス領を襲ったという事実は掻き消されてしまっていた。世間に流布し、歴史として記されたのは、蛮族の侵攻、そして伯爵が辺境の王と讃えられる事件であった。それは伝説として語られる類の物語で、伯爵はまさに生きる伝説として讃えられることになる。聖教会では、新聖徒として推挙する声も出るほどであった。
その英雄譚はこのようなものである。ウロボロス領に東の蛮族が協定を破って侵攻した。辺境の街や村を襲って、領民や家々などの尽くを焼き払った。しかし私兵団としての訓練を伯爵から受けていた領民たちは必死に抵抗した。領民たちが時間を稼ぐ間に、傭兵団を自ら率いたカタストロプ伯爵は、蛮族を急襲する。カタストロプ伯はちょうど辺境近くの荘園を巡っている途中であり、城に早馬が到着するよりずっと早く蛮族の侵攻を知ったのである。しかし傭兵団はいまだ遥か後方に控えており、そのときに従えているのは少数の私兵団だけであった。しかし伯爵は城へと逃げ帰って態勢を整えることをしなかった。蛮族の場所と移動経路が特定されているうちに決戦を挑まなければ、対処が不可能になると的確な判断を下したからであった。伯爵はそのまま少数の兵だけで蛮族を討とうとした。従う兵士たちは、あまりに無謀であると伯爵を止めようとした。しかし討伐に向かう途中に立ち寄った村や街から、伯爵を慕う領民たちが次々と集まり、やがて一つの兵団ほどの規模になっていった。伯爵に率いられた農民や町民の兵たちは、それでもなお蛮族に比べて少数であったが、伯爵の卓越した戦術指揮と、領民たちの伯爵への信頼を源とする死を恐れない意思によって蛮族を打ち破り、ついには撃退したという。
常に守られるべきであり、力なきものであった領民たちが、領主と王国、そして異教徒を打ち破ろうとする信仰のために自ら武器を取って立ち上がった。聖戦として物語は語られ、それを率いた伯爵は聖騎士の称号を得ることとなったのである。
王国全土で聖騎士として賞賛の声が高まるのを聞きながら、その一方で伯爵は心身に変調をきたしていた。若々しかった眼差しはどこか虚ろになり、頑健を誇っていた肉体はやせ衰えていった。生気に溢れていた顔は、力なく疲れたような表情を浮かべるようになっていた。息子に対しても以前のように誇らしげな笑みを浮かべて接することがなくなり、政務を理由にし、接触すること自体を避けるようになった。妻に対してもよそよそしくなり、睦まじい語らいの時間は失われた。
カサンドラが気鬱病かなにかだと思い、心の内を尋ねても話そうとはしない。しつこく問いただすと、視線さえ合わせないようになってしまった。やがて召使どころか妻や子供さえも自分のそばから遠ざけるようになった。
精力的にこなしていた政務の殆どを家令であるコフに任せ、自らは体調不良を原因として城内に閉じこもるようなった。あれほど領主としての威厳を誇らかに放っていた伯爵が、いつも何かに怯えているかのようになったのである。
誰も伯爵の変調の理由を知ることはできなかったが、カサンドラや侍従などによって、伯爵が夜毎に悪夢にうなされているということが囁かれていた。最初に気づいたのは寝室をともにする妻であった。うめき声をあげながら身悶えする夫に驚き、カサンドラは起こそうとした。夫は全身を強張らせ、夥しい汗をかいていた。表情は苦痛で歪み、まるで拷問のような責め苦を受けているようにさえ見えた。ところが、カサンドラが幾度夫の名を呼んでも、揺り動かしても、目覚めようとはしない。事態の異常さに気づき、慌てて侍従に医者を呼びに行かせた。駆けつけた医師にも、伯爵を目覚めさせることはできなかった。伯爵が目覚めたのは朝であったが、それまで苦しみ続けた伯爵は、げっそりを頬を落ち窪ませていた。ようやく目覚めた伯爵にカサンドラは取りすがり、どのような悪夢にうなされていたのかを尋ね、何か悩んでいることがあるならば打ち明けて欲しいと涙を流して訴えた。しかし伯爵は、悪夢など見ていない、覚えていない、そんなあからさまな嘘をつき、妻を更なる悲しみに突き落とすこととなった。
ただ、悪夢を見るようになってから、伯爵は奇妙な言動が多くなった。炎を恐れるようになり、ランプや蝋燭など、自らの側から炎という炎を排除するようになった。暖炉や焚き火などにも近づこうとはしなくなり、目に付けばすぐに消すようにヒステリックに命じた。そのときは決まって青ざめ、体を震わせているのである。また、鏡に映る自分が自分に見えない――そんな不可解なことを言い始めたかと思うと、次には鏡に知らない人間が映る、そう言い出した。やがて鏡に向かってつぶやく様になり、ついには城にある鏡の多くを捨てるように命じたのだった。
鏡と炎を恐れ、夜毎に悪夢にうなされる伯爵は、もはや余命いくばくもないのではないかと思うほどに衰えていった。各地から名医と呼ばれる者たちが呼ばれたが、原因不明で病名さえ特定できない。多くの医者は、病気などではなく、心のバランスが崩れたことによる精神疾患であると診断した。そのような病に薬などない。カサンドラは忌み嫌われている呪術師まで雇ってその原因を取り除こうとしたが、すべては徒労に終わったのだ。
そう原因とはいったいなんだったのか。各地に英雄としての伝説が伝わっていく一方で、当の伯爵はどんな悪夢を見ているのか。そして、なぜそれを隠そうとするのか。それを知っているのは伯爵だけであった。いや、伯爵だけのはずだったのである。
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