第五幕 カタストロプ伯爵 鏡像の影(1)
伯爵は秘密の地下室へと急いでいた。顔は青ざめ、冷たい汗が全身を濡らしている。体はがたがたと震え、歩くのさえ覚束ない。まさかこれほど早く発作が起こるとは――少しずつ秘蜜の継続時間が短くなってきているのは分かっていた。その効果も薄れており、純度を高めなければ以前ほど鮮烈な官能をもたらさないことにも気づいていた。しかし、それにしても早すぎた。禁断症状が起こるにはまだ二週間はあると考えていたのだ。早くあの場所へ行かなければ……。汗を滴らせながら歩みを早める。コフの不審な眼差しが思い出されていた。
コフとの森林裁判に関する会議中のことであった。伯爵はいつものあの悪寒が胸の奥底からせりあがって来るのを感じ、慌てて会議を中断したのだ。ただならぬ様子に気づいたコフは、主治医をお呼びしましょうと言ったが、それを押しのけ、半ば逃げるようにして円卓から離れたのである。
階段を足早に下り、数階層を転がり落ちるようにして駆け下りた。城の最下層にある政務室の鍵を開け、中へと飛び込む。鍵を閉めるのももどかしく、手の震えから上手くいかない。誰も入れないように扉を閉ざす。壁に備え付けられた大きな書棚を、体を押し付けてずらしていく。誰が見ても、そこに秘密の扉があることなど気づくことはないだろう。だが伯爵はその下に隠された階段と部屋があることを知っている。石畳の一つを、指を差し入れて抜き出す。石の下に現れるのは鎖に繋がれた鉄製の輪、扉の取っ手である。輪に手を入れ、力を入れると、石畳そのものが外れるようになっている。そこに出現するのは人一人が何とか入れるぐらいの空洞と、闇に通じる底知れない階段である。
隠し階段に足を踏み入れると、濃密な空気と暗黒の闇だけが広がっている。窓がなく光が差さないため、灯りを持って入らなければ、階段がどれほど奥まで続いているのかさえ分からない。階段は急で、手すりすらなく、かなりの距離を下りなければ階下の部屋には辿り着けない。空気は肌に纏わりつくようであり、下りていくにつれそれが錯覚ではないことが分かる。何もないはずの空間が確かに重く感じられ、動きが緩慢になっていくからだ。重いのは空気だけはない。灯りを持って下りていけば、闇さえも次第に濃くなっているのが炎の動きで分かる。それまで大きく上方に揺らいでいた炎が、まるで何かに押さえ込まれるかのように小さく、か細くなっていく。下り初めには先の方まで照らして灯りの範囲が徐々に狭められ、やがて足元さえ覚束なくなる。そして階段の途中で、確かに熱を持って燻り続けているはずの灯りが、小さく点滅する夜光虫の光点となってしまう。たとえ秘密の階段を見つけたとしても、その下層まで下りてゆくことなどできはしない。恐怖が心を鷲づかみにしてしまうからだ。
そして半ばにして引き返していくものたちは、手元の灯りが次第にその輝きを取り戻していくのを見ながら思うだろう。あの地下に広がるのは、濃密な闇、暗黒だ、と。
闇が、確かな実体を持ち、光を飲み込もうとしているように感じられるのもやはり錯覚ではない。錬金術師であるハインが造りだした蝋燭が、その部屋には常に灯されているからだ。その特製の蝋燭は光を灯すものではない。闇を灯し、暗黒で辺りを照らし出すという、奇妙な性質を備えている。闇を造りだす、そういってもいいだろう。窓から光が差し込んでいる部屋も、この蝋燭を灯せば、たちまちのうちに暗黒に包まれてしまうだろう。そして窓からは煙のように闇が漏れ出すのだ。
「この夜の蝋燭を灯しておけば、何人も近づくことはできないだろう。たとえ歩みを進めても、階段から転げ落ちて死ぬだけのこと。誰にも邪魔されることなく、秘蜜を味わうことができる」
ハインは夜の蝋燭の説明をしながら、そう伯爵に話した。
伯爵だけは、その階段の造りを知っている。どこで曲がり、どこで段差が変わるのかを記憶している。墜死することなく部屋まで下りることができる。手に灯りを持ったまま部屋に入る。ランプの光は闇に飲まれ、蛍のように頼りなげなもので、もはや用をなさなくなっている。伯爵は夜の蝋燭が灯されている場所まで近づく。微かな冷気が肌に伝わる。その方角へ息を吹きかけると、蝋燭に灯されていた黒い炎が消え去り、辺りに広がっていた闇が薄まっていく。ランプが光を取り戻し、辺りを淡い光で照らし出す。夜の蝋燭に灯る炎は黒く、そして冷たい。それは伯爵の常識で言えば、もはや炎と呼べる代物ではない。ハインは驚きを隠せない伯爵に言ったものだ。
――炎の性質変化と質量圧縮は錬金術師の基本、これぐらいで驚いてもらっては困る。
ようやく普通の闇が広がり、ランプの周囲を包み込んだ光と闇のコントラストに浮かびあがるその部屋には、伯爵が蒐集した無数の絵画と仮面が飾られている。それらはすべて司祭に集めさせた死の芸術、地獄の風景を描かせた地獄絵、そして死者の顔を象ったデスマスクである。
ランプを部屋の中央に置くと、伯爵は懐から一本の蝋燭を取り出して火を移した。そしてささやかな光を灯す蝋燭を燭台に乗せると、柔らかなソファに腰を下ろし、大きく息を吸い込んだ。燭台から甘い香りが流れてくる。その香気こそ、人を虜にする香り。王国の各地、城壁や宮殿の奥で蔓延し始めている狂気の霊薬の香り。蝋燭には微量であるが秘蜜が溶け込んでいるのだ。
無数の地獄絵を眺めながら秘蜜を肺腑に満たす。香気が全身にいきわたっていく。伯爵の頭には、恐怖、怯え、悔恨、悲しみ、慟哭、愛惜、嫌悪感、罪悪感、それら様々な負の感情が奔騰するが、秘蜜の効能によって一瞬にして快感へと置換される。地獄から刹那にして天空へと引き上げられたような開放感が雷のように心身を貫く。伯爵は全身の細胞が官能に漣を打つのを感じた。視線は絵に描かれた無数の地獄を食い入るように見つめている。あらゆる形での死と屍が、さまざまなシチュエーションで描かれている。官能の漣はうねりとなり、やがて大きな波となって伯爵を飲み込む。伯爵はその荒々しい波に精神と体を任せ、どこまでも溺れていく。
ふと、秘蜜の過剰摂取で気の触れてしまった妻、カサンドラのことを思った。自分の異変に気づいた妻は、その原因を突き止めようと政務室に忍び込み、階段を発見した。なぜ妻が階段に気づくことができたのか、それは分からない。ただ妻はほかのものと違って鼻が効いた。以前から私の体に纏わりつく甘い香り、秘蜜特有の香りに敏感に反応していた。おそらくは匂いを辿ってあの階段を発見したのだろう。
妻はランプの頼りない光を手に、壁伝いに階段を下りていったのだろう。私が姿を消したこの闇の底に向かって。どれほど心細かったことだろう、どれほど怯えていたことだろう、それでも健気な妻は、次第に狂気に染まっていく私を救おうとしていたのだ。
伯爵は想像する。妻が階段を下りるにつれ、灯はか細く痩せていき、やがて引き返すことさえできなくなる。留まることも、引き返すこともできず、妻は怯えながら、手探りで、ゆっくりと階段を下りていったのだろう。下層から染み出してくる秘蜜の香気が彼女の肺を満たしたのだろう。
そして、彼女は、引きずり込まれるように、闇に魅了されてしまったのだ。自分と異なり秘蜜に慣れていない妻は、高濃度の秘蜜を大量に摂取してしまったことによって、精神に異常をきたした。伯爵が部屋の底で、秘蜜への深い陶酔から目覚めたのは、奇妙な笑い声が意識の隅でこだましたからである。最初は秘蜜のもたらしている幻聴の一つかと思われた。物憂げに首を回した伯爵は、そこに幻覚ではない妻の姿を発見した。妻は死の芸術作品群を前にして、奇妙な笑い声を上げていた。それは悲鳴のように聞こえたし、愉悦の声のようにも感じられた。歪んだ表情は歓喜も悦楽も苦痛も悲しみも、すべてを同時に表現しているような、そんな言いようのない顔をしていた。ただその大きく見開かれた瞳が、瞬きもせずに食い入るように一枚の地獄絵に向けられていた。それは伯爵が自ら注文をつけて描かせた地獄絵、息子であるクリフが死神に姿を変え、無数の屍の上に君臨する姿を描かせたものであった。
伯爵は驚き、慌てて妻を部屋から連れ出した。筋肉という筋肉が弛緩したような妻は、目を見開いたまま何の反応も示すことはなかった。ただ、その瞳にはあの地獄絵が鮮明に焼き付いているのだろう、そう思った。
城内に漂う秘蜜の、数千倍もの濃度を持った秘蜜に晒され、恐怖も怯えも快感へと置換されてしまっただろう。高濃度の秘蜜を一気に摂取することが、精神に対してどのような作用を引き起こすのか、それはいくつかの事例として記録が残されていた。秘蜜の引き起こす異常は多彩で、記録にある事例もそれぞれ全く異なるものであった。そして妻は、それらのどれとも異なる事例を示した。
隠し部屋のことを知られては困るため、伯爵は妻を回廊へと運び、そこへ置き去りにした。召使が昼食を運ぶために使う通路であり、すぐに発見されることとなった。三日間昏睡し、悪夢にうなされた後に目覚めた妻は、一見して何の後遺症も残されていないようであった。しかしそれは誤りであった。急激な秘蜜の多量摂取は、確かに妻の心を蝕んでいた。妻は階段恐怖症という奇妙な精神疾患を引き起こしており、また実の息子であるクリフを人形、或いは絵画としてしか認識し得なくなっていたのだ。
その事件は、伯爵にとって予期せざる不測の事態だった。愛すべき妻を、自分が精製した秘蜜によって狂わせてしまった。息子であるクリフもまた、気のふれた母のことで大きな心の傷を受けることとなった。伯爵の心は事件によって大きな精神的な負荷、罪悪感を生んだ。しかしそのことさえも、もはや伯爵にとって新鮮な官能を呼び起こすものでしかなくなっていた。伯爵が、もはや後戻りできないと悟ったのは、この事件がきっかけであった。もはや伯爵の心は秘蜜なしではいられなくなっていた。罪の意識から逃れるために、秘蜜の効果を維持し続けなければならなかった。
禁断症状の寸前で秘蜜の香気を吸い込んだ伯爵は、断たれてしまった過去への後悔で一筋の涙を流した。しかし、その涙すら、歓喜の涙なのか哀切の涙なのかもはや判断ができなくなっていた。あるのは大きな感情の揺らぎへの快楽だけ、今、己の浮かべている表情すら分からなくなっていた。
――いつからこうなったのだ、なぜ、こんなことになってしまったのだ。
伯爵は過去に思いを馳せ、すべての原因がどこにあったのか、狂い始めたのはどの地点からであったのか、記憶を辿ろうとした。いまさら無駄だと知りつつ、一時の正気が薄れていく中、それでもよき時代の郷愁に縋らずにはいられなかった。
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