第四幕 侍従長フランフラン 天使のモチーフ(6)

 自分の放った一言で、空気が張り詰めていくのが分かった。寝ぼけ眼で弛緩していた少年の表情は固まり、沈黙が辺りを包んだ。

 「私は不思議に思っていました。なぜあの日、あんな朝早くに、マルコが中庭にいたのか。なぜ奥様は塔の窓から身を投げ出したのか。あの中庭は、塔の窓から見下ろせる場所。普段はあの窓には近づかない奥方様ですが、朝、窓を開けるために一度だけ窓際に立たれます。そのとき以外に下を覗きこまれることはない。偶然その場に居合わせるということなどありえない。マルコは奥様が窓際に立たれ、下を覗きこむのを待っていたのですね。あなたと、一緒に」

 クリフの肩がぴくりと動いた。フランフランの眼差しから逃げるように俯き、その視線は、シーツを握り締める手に注がれている。

 「――ぼくはただ……お母様の姿を見たかったんだ」

 か細い声が少年から零れ落ちた。

 「お母様に会うことを禁じられてからは、中庭にさえ出てはいけないって言われていた。もし僕を見たらお母様が混乱するからって。窓際に立つお母様を、隠れてこっそり眺めるだけのつもりだった。それなのに…」

 「カサンドラ様はあなたに気付いた。そして窓から身を乗り出して、飛び降りてしまったのですね」

 「僕はびっくりして、お母様を助けようとしたんだ。抱きとめてあげようとした」

 「それを、息子が庇った」

 マルコはカサンドラ様を助けようとしたのではない。クリフを庇って奥方様の下敷きになったのだ。

 がたがたとクリフ様の体が震えだした。その場面を思い出して恐怖が蘇ったのだろう。それを眺めながら、フランフランは強烈な罪悪感を感じた。しかし彼女はその罪悪感に奇妙な高揚、いや快感を覚えていたのだ。もっと、この子を、我が子と親友の死のきっかけとなったこの子を苦しめてやりたい、そんな思いが強い誘惑となって湧き上がっていた。自分自身そのことを異常に感じつつも、フランフランは続けた。

 「死んでしまった二人を前に、あなたは怖くなって逃げ出したのですね」

 僅かに頷いた少年の目には涙が滲み、ぽたりぽたりと零れ落ちていた。消え入りそうな声で呟いた。

 「――飛び降りるなんて思わなかった」

 そう、なぜカサンドラ様はクリフ様を見て飛び降りたのか。人形と思い込んでいた息子めがけて、なぜ空を飛んだのか。その疑問はいまだ解けてはいなかった。ただその動機が自殺でないことだけは確かだった。聖教会は自死を固く禁じている。それは殺人に匹敵するほどの大罪であり、自死は神への反逆とみなされ、死後には地獄に落とされることになっている。敬虔な聖教徒であり、地獄を恐怖する彼女が自殺をするはずがないのだ。

 ならばカサンドラ様は死ぬために塔を飛び降りたのではない。いや、飛び降りるという行動は、そもそも死とは切り離された行為だったのではないか。フランフランはそう考えていた。死ぬつもりなどなく、飛び降りた瞬間も、自分が死ぬとは思ってはいなかった。

 ではなぜあの方は塔から飛び降りたのか、それはカサンドラ様にどのような意味を持っていたのか。あの方は、その最後のときを、どんな気持ちで逝ってしまわれたのか。何が原因で、息子は死ななければならなかったのか。

 「クリフ様、その答えは、もしかすると、あなたの持ち去った天使画に描かれているのかもしれません。

 ――あの絵を、お持ちですね」

 クリフが、カサンドラと共に落ちてきた天使画を持ち去ったことはわかっていた。絵が部屋になかった以上は、誰かが部屋から持ち出したのだと思っていたが、そこが間違いであったのだ。カサンドラ様は絵と一緒に飛び降りたのだ。だとするならば、中庭に落ちた絵は、生き残ったクリフが持ち去ったに違いなかった。

 完成した、そう語ったカサンドラの顔が、フランフランにとって最後の思い出となった。カサンドラは嬉しそうな笑顔を浮かべていたが、それはどこか疲れた雰囲気を漂わせていて、フランフランに微かな不安を抱かせた。

 あの部屋を完成させる最後の一枚。そこにはどのような天使が描かれていたのか。そのことが、フランフランの頭にはずっと引っかかっていた。

 「なぜ天使画を持ち去ったのですか。そこにはいったい何が描かれていたのです」

 それは、フランフランの推理を完成させるであろう最後のピースだった。

 再び沈黙で答えるクリフを横目に、フランフランは立ち上がると、壁に飾られた八枚の作品の前に歩み寄った。あの大きさの絵画を隠すのは容易ではない。分かっているのは、塔の部屋の一角にすっぽりと空いた空間。天使画のサイズだけである。持ち去ったのがクリフだと気付いてからも、少年が隠す可能性のある場所は徹底的に探した。この部屋も例外ではない。少年が部屋を空けたときに、掃除と称して探し尽くした。それでも見つからなかったのである。

 しかしある時、フランフランはその隠し場所に唐突に気づいた。クリフの部屋に飾られていた楽園画は、その五枚とも同じ大きさのカンヴァスに描かれていたものだった。しかし今では、そのうちの一枚が一回り小さくなってしまっているのだ。描かれているのは以前と同じ風景である。ただその四方が、カンヴァスが小さくなったことで、途切れてしまっているのだ。

 その一枚に近づくと、フランフランは絵画の端を撫で、僅かな突起に触れた。カンヴァスは木製の板の表面に、白い特殊な布が鋲によって張られたものである。鋲を抜けば、布ごと絵を剥ぎ取ってしまえる。爪を使い、絵の上端から一本ずつ鋲を抜いていく。

 はらりと下に垂れ下がった楽園画の下から、もう一枚の絵が現れた。

 その絵を見たフランフランは絶句し、その思考を停止させた。姿を現した失われた天使画は、彼女が想像していたものとは、遠くかけ離れたものだった。

それまでにカサンドラ様が描き続けてきたのは、にこやかな笑みを湛えた少年天使が、祝福を与えるかのように美しく手を伸ばすという構図であった。見るものを天上の楽園へと引き上げるような、永遠の幸福へと誘うような、そんな印象を抱かせる絵であった。

 しかし、その一枚に描かれているのは、それまで描かれていた喜びと安らぎに満ちた表情の天使ではなかった。柔らかに羽根を広げて舞い踊り、手を差し伸べる姿でもなかった。

 ――これは、天使ではない……

 それは、恐怖に怯え、苦痛と悲しみに顔を歪める表情の天使だった。いや、天使ですらなかった。天使の象徴である翼がもぎ取られてしまっていた。羽根が抜け落ち、翼をその根元からもがれ、赤い血が滴っていた。そして苦悶の表情を浮かべる天使は、それまでの幼かった天使ではなく、目の前の成長した少年の顔をしているのである。

 血に汚れた天使はカンヴァスの下部から上に手を伸ばしていた。何かを掴み取ろうと、もだえ苦しみながら空へ手をかざしていた。まるで地獄から必死に手を伸ばすかのように。全体のトーンを占めるのは白ではなかった。それは暗黒だった。雲も、背景も、風さえも黒を基調として描かれていた。

 これがカサンドラ様のたどり着いた一枚だというのだろうか。フランフランにはその絵の意図することが分からなかった。この絵画が表わすのは絶望ではないのか。だとするならば、カサンドラ様は絶望によって死に追いやられてしまったのだろうか。なぜ、なぜ、その言葉が頭の中で反響した。

 「……この絵を持って、カサンドラ様は落ちてきたのですか」

 少年はもはや何も見ることなく視線を落として頷いた。

 「窓を開けたお母様はその絵を風に当てようとしていたみたいだった。絵を持って開いた窓に立てかけようとしていた。そして僕を見つけたんだ。最初はびっくりしたような顔をしたけど、その後、昔みたいに僕に笑いかけてくれた。それから、その絵を持ったまま体を乗り出して……。

 僕は、怖かったんだ。そして近くに落ちているこの絵を見たとき、逃げなきゃって思ったんだ」

 フランフランはそのときのクリフの気持ちを想像した。親友と母親の二人の死骸。そして近くに落ちている絵に描かれているのは、翼を折られ、血を流し、苦悶の表情で地上から手を伸ばす自分である。この悲劇を暗示するかのような絵画に、少年は思ったのだろう。この絵を見られたくない。母が最後に描いた絵が、こんな自分の姿だと誰にも知られたくない。そしてまた、自分がこの悲劇の引き金を引いたという事実に耐えられなかったのだろう。

 「ときどき、絵を見ながら考える。どうしてお母様は僕を見て飛び降りてしまったのかって。そのとき何を考えていたの。なぜこんな絵を描いたのって。

ねえ、どうしてお母様は飛び降りたのかな。お母様はとっても嬉しそうな顔をしたんだ。だから嬉しくなって手を振ったのに――」

 心を振り絞るようにして呟く少年の声に、フランフランは思った。この子も自分と同じように、カサンドラの跳躍の理由が分からず悩み続けていたのだ。そしてこの最後の絵を捨てることもできず、それを部屋に隠し続けていた。時にそれを眺めては、言い知れない憤りを膨らませていった。そして自らがその場にいたことを、言えなくなってしまったのだ。抱え込んだ秘密、隠した嘘のなかで、なぜ、なぜ、そう煩悶し続けていたのだろう。

 憐憫の思いがフランフランの胸に湧き上がった。ふと、カサンドラはこの絵に、いやあの部屋に如何なるタイトルと付けたのだろう、そんな疑問が起こった。完成した作品にはタイトルを付けるようにしていた。だとするならタイトルは、この絵の後ろに記されているはずだ。

 絵を外すと、カンヴァスの後ろを覗き込んだ。いつも場所は決まっていた。木枠の底辺に隠して、消えないように彫りこまれているはずだった。しかし、いつもの場所には何も記されてはいなかった。やはり、これは完成品ではないのではないか、それとも、タイトルを刻む前に飛び降りたというのか。

 と、一旦は絵を掛けなおそうとしてからその文字に気付いた。いつものとは逆の上辺に文字らしきものがあったのを見つけた。文字らしき、というのは、一瞬それを読むことが出来なかったからである。だがすぐに、文字が逆さまになっているのだと分かった。

 ――これは、違う。この絵画は間違っている。

 そんな閃きがフランフランの頭に走った。

 文字もサインも逆だということは、この絵そのものが上下を取り違えている。つまり逆さまに掛けられているということ。

 この絵は、全く逆の構図なのだ。翼を折られて苦悶の表情を見せる天使は、地上から手を伸ばしているのではない。天空から手を伸ばしている。つまり、翼の折れてしまった天使が、楽園から落下してくる様子を描いたのだ。

 絵を反転させ、刻まれたタイトルを見る。確かにカサンドラの文字で記されていた。

 『祝福』

 それがこの最後の絵画の、そしてこの部屋の題名だった。

 フランフランの頭の中で、ひとつの思い出が弾けた。

 それはカサンドラが完成させた最後の一枚に取り掛かろうとする直前のことだった。

 「天使はきっと、安らぎに満ち楽園で、何の不安もなく空を飛んでいるのでしょうね」

 フランフランが習作され続ける天使画を思い出しながらそういった。するとカサンドラは少し考え込み、悲しげな表情を浮かべた。

 「私も昔はそう思っていたわ」

 昔は? 不思議そうに聞き返した。

 ――最近ではこんなことを考えるのよ、カサンドラはそう前置きをして話し始めた。

 「天使は怖くないのかしら、翼を失ってしまうということが」

 真っ白なカンヴァスに語りかけた。

 「――だってそうでしょう。天上の楽園からは、地上も地獄も見えないかもしれない。でも、もしも翼を失ってしまえば、体を叩きつけられて死んでしまうわ。そして二度と空へ舞い上がることはできないのよ。天使はそんな恐怖に怯えているのではないかしら。以前はいつも夢見ていた。天使が私を楽園へと導いてくれることを。地上から連れ去ってくれることを。だけど、今は違う。天使が苦しんでいる姿がよく思い浮かぶのよ。翼をもがれて、地上に落ちてくる姿がよく夢に浮かぶのよ。天使は怯えているわ。あんなに高いところから、あんなに美しい場所から落ちてくるのだもの。怖いに決まっている。私だって地上が恐ろしいのだもの。夢の中で、私は手を伸ばすの。天使に導いてもらうためじゃなく、受け止めてあげるために。地上に体が叩きつけられる前に、しっかりと受け止めて、抱きしめてあげるのよ、もう、怖くないわよって。そして守ってあげるの。楽園から追放され、戻る術を失った天使を。この地上で生きていけるように、色々なことを教えてあげたいの。この暗闇のような世界で、自分を輝かせる方法、黒いカンヴァスを美しい様々な色で描きあげることを。悪夢を見なくなってから、この頃はそんな夢ばかり見るのよ」

 そう語ったカサンドラは生き生きとした表情でこう言ったのだ。

 「今度こそ描けそうなの。この部屋を完成させる、天使の似姿を」

 そう、カサンドラ様が探求し続けた、楽園のモチーフ、辿りついた天使の姿とは、自らを導いてくれる神の使いではなく、楽園を追放される堕天使の姿だったのだ。

鮮明に浮かび上がった思い出に、フランフランは絵の全体像がはっきりとした輪郭を伴って浮かび上がるのを感じた。カサンドラが不可解な跳躍をした理由も、はっきりと理解することができた。

 あの部屋は、この堕天使の一枚で完成する。だが、もう一枚、今となっては永遠に失われてしまったピースがあったのだ。それは、絵ではなく、カサンドラ様自身なのだ。この絵を部屋の天窓の空間にはめ込む。そしてその部屋で、堕ちてくる天使に手を差し伸べる。

 ――受け止めて、抱きしめてあげるのよ、もう、怖くないわよって。

 あの日のカサンドラの力強い言葉と誇らしげな表情が記憶の中で反響していた。

 反芻しながら、窓辺にたった時のカサンドラの思いを想像し、手繰りよせる。完成した絵を乾かそうと開け放った窓の縁に置こうとする。そこで中庭から塔を見上げる少年、息子であるクリフ様の姿を見つける。少年は不安げな顔をしていたことだろう。見つかったことで、どんな表情を浮かべていいのか戸惑っていただろう、怯えていたかもしれない。その姿が、自らが完成させた一枚と重なる。天使はもともとクリフ様の似姿。その瞬間、カサンドラ様はクリフ様が天空から落下する堕天使に見えたのだ。そして完成した部屋を再現しようと身を乗り出す。絵を抱えたまま、落ちて来る天使を受け止めようと手を伸ばし、そして――」

 あれは死への跳躍ではなかった。絶望など、していなかった。あの方は、地獄と楽園が反転した一瞬、救おうとしたのだ。息子であるクリフ様を。翼を失って落ちて来る天使に見立て、救おうとしたのだ。

 祝福――絵に刻まれたこの言葉は、間違いなく部屋そのものに付けられた題名。堕天使に捧げられる地上での母の祝福、それがカサンドラの辿りついたモチーフだったのだ。

 ――クリフ様、カサンドラ様が最後に抱いていたのは、祝福だったのです。絶望でも、悲しみでもなく、貴方がこの世に生まれたことへの、祝福だった。あの方は貴方を救おうとして塔から飛び降りた。不幸な出来事ではあったけれど、あの方は最後に、確かに貴方に向けて微笑まれたのです。

 そんな言葉の全てをフランフランはその胸に飲み込んだ。その真相を胸に秘めたまま、彼女の口から出たのは、全く異なる言葉だった。

 「お母様は、貴方に助け出して欲しかったのですよ。気が触れてしまってから、奥様は地獄を恐れ、地獄と化した地上を恐れて塔の頂上へと閉じこもってしまわれました。階段を下りることさえできないほどに。夜毎、地獄の悪夢に怯える日々が続いておりました。そんな中で、奥様の心は疲れ、弱りきっていたのです。あの方が望んでおられたのは、この世に、地獄と化した地上に平和をもたらすこと。貴方様がこの世を統べる王となり、この世を楽園へと導くことだったのです。この天使画の貴方が苦しんでいるのは、苦しみや悲しみを乗り越えて欲しいという願い。塔から飛び降りたのは、悪夢に脅かされ続けるあまり、中庭の貴方を楽園へと導いてくれる天使と見誤ったからでしょう。あの方はクリフ様に、王として遍く地上に楽園を創造してくれることを願っていたのです」

 すらすらと出任せを口にしながら、フランフランは甘美な嘘に陶酔していた。この嘘が今後どれほど少年を苦しめることか、想像しただけで悦びに溺れそうになっていた。

 それは、母が最後に与えた祝福を、呪縛へと変えてしまう嘘。

 私は秘密を胸に、この小さく健気な少年に枷を嵌めた。一生彼を苦しめ、悩ませるであろう棘の枷を。それは、貴方に忠誠を尽くそうとして命を失った我が子マルコの、命の足枷。犯した罪は更なる罪を呼びよせる。彼は長じて世界を統べるだろう。その頃には無数の罪で穢れているだろう。

 私の秘密はいまだ青い果実でしかない。しかし、その青い果実は、秘密は次第に熟していくのだ。この少年の成長とともに、熟れていくのだ。犯した罪とともに甘く、濃く、甘美な美味に滴り濡れていく。熟れて腐り堕ちるまで。

 そしてその秘密が熟しきったとき、私はこの少年に明かすのだ。私の秘密を。罪の果実が熟れて腐り堕ちる直前に、私は告白するのだ。

 ――カサンドラ様は、貴方を救おうとしていたのですよ。罪に塗れて天上の楽園から落ちてくる貴方様を。そのために命を捨てたのです。

 にこやかな笑みを浮かべ、少年の表情を眺めた。フランフランが発した言葉を、その薄い胸に刻み込むようにして繰り返しているのが見て取れた。

 身悶えるがいい。絶望するがいい。貴方が全てを手にしたとき、それが母への背信であったことを、貴方は知るのだ。屍によって積み上げられた王への階段を登りきったとき、貴方は知るのだ。狂った学問の報いを、そのとき貴方は受けるのだから。

 許してなどやるものか、私の親友と息子を奪う引き金となった貴方を。

 目の前の少年が母の偽りの遺言を反芻するのを、フランフランは微笑を湛えて眺めていた。少年の心には、やがて芽吹くであろう種子が植えつけられたはず。その種子は罪ともに育ち、やがては大樹となって実をつけるであろう。甘く熟した秘密の果実をもぐシーンを想像しながら、フランフランは言い知れない快感に酔いしれていた。

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