第四幕 侍従長フランフラン 天使のモチーフ(5)
壁には七枚の楽園画と五枚の天使画が飾られている。それらは全て、カサンドラが失敗作としてフランフランに捨てるようにいったものだ。フランフランは言い付け通りに捨てようとして、クリフに呼び止められたのだ。部屋に飾るから、ぼくにちょうだい、と。気の触れた母の描いた絵を部屋に飾る。母に会うことを禁じられた少年の心を察し、フランフランはカサンドラには内緒でクリフに渡していた。フランフランが失敗作を描くたびに、クリフはそれを蒐集し、部屋に飾るようにしていた。
フランフランは視線を移し、天使画のモチーフとなった少年へと顔を向けた。
天蓋付きの寝台に横たわる少年の顔は青白くやつれ、頬はこけている。寝息さえも余弱弱しく、掠れるような音をたてている。当然だろう。ここ数年の間に、幼すぎる少年を襲った幾つかの悲しい事件、出来事。それらを思い出すとき、彼の類まれな才気と美貌、その地位を差し引いても、強い憐憫の情を抱かずにはいられない。
母であるカサンドラ様の発狂、それにより人形としてしか認識されなくなった哀しみ。父であるカタストロプ伯爵の異変、精神的に不安定になり、狂気の光を宿すようになった父への恐怖。そして家令コフによる帝王学の重圧、魂を鋳型へと流し込むような苦痛、未熟な人間性の否定。さらには、毒殺未遂事件による死と生の狭間での彷徨。昏睡から目覚めはしたものの犯人は特定されず、城の住人に自分の命を狙う暗殺者がいるという不安。ようやく容疑者が判明したかと思えば、それは自分が最も信頼している侍従であったということへの、人間不信。
何より、母と親友を同時に失ったこと。私が親友と息子を同時に失ったように、この子は幼くして最愛の母と、生涯を分かつはずであった親友を失ったのである。
この少年が如何に精神的に追い詰められているかは、想像すら及ぶものではない。
フランフランはクリフの寝顔を眺めながら、息子であるマルコのことの思い出す。
あの子は、クリフ様が生まれた頃から忠実な家来であることを義務付けられていた。五つ違いの赤子を自分の弟として、また同時に未来の君主として接することを定められていた。夫を失った自分にとって、マルコは未来そのものであり、その道を輝かせるためであるならばどんな犠牲も厭わない、そう思っていた。だからこそ、この城へ侍従として仕えることを選んだのである。後の家令となるための最高の教育が受けられ、騎士の称号の授与、後には爵位さえ授けることを約束され、フランフランは息子とともにこの城にやってきたのだ。
息子は、五つ年下の未来の君主に健気なまでに優しく、忠実で、そして厳しかった。この城の中で、クリフの唯一の年の近い友であり、共に遊び、学び、育った兄弟であった。年上の兄として振舞うときでも、クリフを叱るときにも、或いは一緒になって悪戯をするときでも、どこか遠慮がちに一線を引いて接していた。幼心に、身分というものの壁を感じ取っていたのかもしれない。聡明なクリフ様もそれを察していて、未来の領主としての自覚を幼いながらも芽生えさせたかもしれない。それでも、二人は互いに親友だと思っていたし、兄弟だと感じていたはずなのだ。
マルコはいっていた。
「自分が身分違いの教育を受けられて将来まで約束されているのは、クリフ様にお仕えすることが決まっているからだ。だから、ぼくはクリフ様をいい領主にするためにがんばらなければならないし、そのために心を捧げなければならない。そうすることで、領民の人たちを守って幸せにすることができるんでしょう。伯爵様みたいに、誰からも尊敬されて、感謝されて、そんな領主様にクリフ様を育てるために、年上の僕がしっかりしなくちゃね。クリフ様はお坊ちゃんだし、頭はいいけど泣き虫で甘えん坊なところがあるからさ」
そう、自分も母である私に甘え、遊びたい年頃であったのに、あの子は無理をしてお兄ちゃんぶって、毎日を家令としての勉強に明け暮れていた。優秀な家と領地を切り盛りするためには、膨大な知識と判断力、経験が必要となる。そうコフから言われたあの子は、自分がコフの後を継いでクリフ様の右腕になろうと、幼くして決断してしまっていたのだ。クリフ様が成長し、その聡明さが讃えられるようになって、ますます自らを厳しく律するようになった。あの子は親友でありながら、兄として規範を示そうとさえしていたのだ。あっけらかんと楽しげに暮らしているように私には見せていたけれど、それが心を押し殺した、歯を食いしばるようなものであったことを、私は知っている。
それでも私は、だからこそ、二人は互いにかけがえのない存在であり、やがて今の名君、名家令と呼ばれたお二人を凌ぐ統治者になれるだろう。そんな未来を夢見ていたのだ。
それが、塔から飛び降りたカサンドラの下敷きとなって命を失ってしまった。そのとき、天使のような寝顔を見せるこの子は、どのように感じただろう。自らの半身を無くしてしまったかのような喪失感、未来を分かち合うはずの唯一の友を失った絶望感だろうか。
コフの話では、発熱で寝込んでいたため、クリフにその重い事実を伝えたのは、事故の二日後、葬儀の前日であったという。
――事情は説明したが、クリフ様はお二方の死の実感が沸かず、泣くでもなく、悲しむでもなく、葬儀に出席中も、そしてその後の数日間も、心神喪失状態で、呆然としておられた。
コフは端然としてフランフランに説明した。そうだろう。大人である私でさえ、自分を取り戻すのに一週間はかかったのだ。聡明とはいえ幼いクリフ様に、事態が理解できるはずがない。いや、理解できても、受け入れることは出来ないだろう。そう思って不憫になった。
互いに二人のかけがえのない人間を失ってから、初めて会ったのは、着替えを持ってクリフの寝室へといったときであった。
フランフランは部屋に入って椅子に腰掛けているクリフを見た途端、クリフとマルコの二人の思い出が蘇ってきて涙ぐみそうになった。何とか溢れるのを堪え、クリフに近づく。何かを言おうと口を開きかけたまま、止まってしまった。
――この間、マルコに初めて叱られたんだ。
何も言えず、クリフの顔を正視することさえできずにいるフランフランに、クリフの声が聞こえた。思い出を懐かしむように、どこか泣きそうな声で、クリフは過去に視線を彷徨わせながら語り始めた。
「僕がいつもみたいにマルコに我侭をいって困らせているときさ。僕はこの城から、領地から出て行きたいっていったんだ。城下には色々な商人や流民が訪れるでしょう。大市のときはお祭りにみたいになる。そんなとき、城下に来ている旅芸人の馬車に隠れてここから逃げ出したい、そう僕はいったんだ。お母さんがおかしくなって、それでも毎日、領地を治めるための勉強ばかりしなくちゃならなかった。領民のために、領地のために、ってお父さんもコフもいつもそう言ってた。だから、このお城や街から逃げ出したくなったんだ。つい言っちゃった。もうここに居たくないよって。一緒に旅芸人に紛れてどこか遠くへ行こうってさ。ぼく、けっこう本気だったんだ。マルコとなら何処へ行っても大丈夫だろうって、そう思ってた。何かあってもマルコが守ってくれる、何とかしてくれる。そう思ってた。おかしいよね。それが当たり前だと思ってたんだから。
そしたら、マルコは悲しそうな顔をしていったんだ。街のみんながこうやってお祭りを楽しむことが出来るのも、こんなに街が発展して賑わっているのも、クリフ様のお父上と家令であるコフ様が領地をしっかり治めているからなのですよ。この人たちの笑顔も喜びも、お二人がそっと影で支えていらっしゃるのです。彼らの笑顔を自分のもののように喜び、彼らの喜びを眺めながら自分も笑顔になる。それが領主としての糧なのです。ここから逃げ出してしまっては、伯爵様の後、一体誰が彼らの笑顔を守るというのですって。僕は聞き返したんだ。マルコまで、領主として、なんて言い出したからさ。
マルコだって逃げ出したいと思ったことはないの。この城に連れてこられなければ、家令の勉強なんてする必要なかった。それまでは街の子供たちと一緒に遊びまわっていられたのでしょう。
僕はマルコがいつも我慢していることを知ってた。コフは厳しかったし、勉強する以外のときも、城の色々な仕事を手伝わされてた。僕のお母さんがおかしくなってからは、フランフランに甘えることもしなくなっていた。その頃からマルコは、フランフランのことをお母さんって呼ばずに、召使長って言うようになったし。
そしたらマルコは、僕の頭を撫でながら言ったんだ。
私はこの城に連れてこられて、本当によかったと思っていますよ。母がこの城に来たのは、元々は私のためだったのですよ。母は私に素敵な未来を用意してくれたのです。
「――素敵な未来?」
「ええ、貴方が領地の誰からも慕われ、愛される領主に育つのを見守り、助けるという未来です」
そういったときのマルコは本当に嬉しそうだったな。でも、僕はその笑顔の意味がよく分からなかった。
「――何だか退屈そうだけど」
そんなことはありませんよ。私はここにきて、夢を見ることが出来るようなった。明日に希望を繋ぐことの素晴らしさを知ったのです。少しずつこの世は美しくなっている、そんな気がするのです。貴方が領民の幸せや悲しみを分かち合うことができ、そしてまた領民も貴方の悲しみや痛みを分かち合うことが出来る。そうすれば、きっと、少しずつこの世はよくなっていく。そして自分も、そのお手伝いができる。それにコフ様が、もう少しすれば私を王都の学院で学ばせてくれるとおっしゃっています。そうすれば、一気に世界は開ける。その学院は試験はとても難しいですが、私が伯爵にお仕えしていなければ、一介の騎士ではとうてい入ることを許されない名門。
クリフ様、私は、この城に来てから、明日が来るのが楽しみで仕方がないのですよ。
マルコはそういったんだ。だから……」
クリフ様はそこで間をおいて、涙を堪える私の顔を見た。
「だからマルコは、お母さんにこの城に連れてきてもらって、本当に感謝してた」
我慢していても、ぼろぼろと涙がこぼれるのをとめることが出来なかった。
こんなはずではなかった。近しい人を失ったのは私だけではない。幼いこの子こそ、この悲劇から守ってあげなければならない。それをマルコも望むだろう。自分は傷ついているクリフ様を慰めるために、覚悟を決めてこの部屋を訪れたはずだった。台詞まで心の中で繰り返して考えていた。強い母を演じるつもりであった。クリフ様が少しでも涙ぐめば、すぐに胸に抱き寄せてあげるつもりだった。強く抱きしめてあげよう、そう決めていた。
なのに、ベッドからふらふらと立ち上がったクリフ様は、肩を震わせる私の腰に抱きついてこういったのだ。
「きっとマルコは、ずっとフランフランにこうしてあげたかったんじゃないかな。抱きしめてもらいたかったんじゃなくて、抱きしめてあげたかったんだよ。そして言いたかったんだと思う。この城に連れてきてくれて、ありがとうって」
クリフ様はその細く幼い腕で、信じられないぐらいに強く私の体を抱きしめた。私は縋りつくようにしてその首をかき抱き、あの子のことを思った。
そう、私はあの子をこの城に連れてきたことが正しかったのか、ずっと考え続けていた。私が夢を押し付けようとしたから、こんなことになってしまったのではないか、いつもあの子に我慢ばかりさせて、考えを押し付けて、嫌がるあの子を半ば強引にこの城に連れてきた。あの子は大人しく、私に不平をいうことも甘えることもできなかった。この城につれてこられたことを、もしかする恨んでいるのではないか。そう思うこともあった。何より、この城に連れてこなければ、あのような死に方をすることもなかったのではないか。僅かな時間で命を終えることが分かっていたなら、この城にはつれてこなかった。もっと自由に普通の子として育てたはずだ。そんな後悔がずっと心を締め付けていた。
その心を察したかのように、少年は私を慰めようとしているのだった。
「ごめんね、お母さんが飛び降りなかったら、マルコが庇おうとすることもなかった」
そう小さく囁くと、少年はかたかたと震えだした。顔を胸に押し付けて。表情を隠して、泣いているのがわかった。そう、この子もやり場のない哀しみ、母を救おうとしたマルコの優しさ、気のふれた母への憤り、そして永遠の喪失感、それらの葛藤の中で戦っているのだ。にもかかわらず、息子を失った私を気遣い、気丈に振舞おうとしている。
寄る辺ない思いを補い合うように、私はクリフ様を息子のように抱きしめ、そしてクリフ様は、私を母のように抱きしめたのだ――
そう、そのときはそう思った。それが三ヶ月前の出来事だ。
すやすやと眠るクリフの額に手をやると、フランフランはそっと掌を乗せ、優しく撫でた。温かい熱がじんわりと伝わってくる。ゆっくりと目蓋が開き、少年は目を覚ました。傍らに腰掛けるフランフランに目をやり、不思議そうな顔をする。
「あれ、もうお薬の時間?」
そういって寝返りを打つと、体を起こす。
軽く伸びをして欠伸をする少年に、フランフランは心に隠し持っていた刃を抜き、ゆっくりと振り下ろした。
「クリフ様、あなたが二人の死の引き金であったのですね」
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