第四幕 侍従長フランフラン 天使のモチーフ(4)
暗闇の中で僅かに炎が揺らいだ。風もないのに、空気の流れが微妙に変わったような気がした。フランフランは闇の中で息を詰める。首を暗がりの中できょろきょろと辺りを見回す。馬鹿らしい、ランプを持っている自分は、誰かが潜んでいたとすれば丸見えのはずだ。それにそもそも、自分以外がこの部屋にいるはずがないのだ。
再び首を伸ばし、無数の絵画の間へ顔を伸ばす。
――天使画は見つかったかね。
そう鈍い声が暗闇に反響し、フランフランの呼吸は驚愕で一瞬止まった。誰もいるはずのない大聖堂の宝物庫である。司祭の死によって閉ざされたままのこの部屋は、その宗教建築特有の造りのせいであろう、声がよく響く。しかも反響することで、いったいどこから発せられたのか分かりづらいのである。
鼓動が恐怖で早鐘を鳴らしている。コフの部屋から鍵を持ち出してここに忍び込んだことがばれれば、もはや申し開きはできない。聖職者しか入ることを許されないこの宝物庫には、聖遺物と呼ばれる聖者の遺品や、遺体の一部、或いは神の遺した書物の写しなどが保管されている。ここに聖職者ではない人間が入ることは、それだけで大罪であるのだ。
それに、その言葉の内容そのものも、フランフランを混乱させた。彼女が天使画を探していることを知っている人物は誰もいない。天使画の捜索は、彼女が単独で行っている秘密であった。
暗闇の中で、再び声が響く。
「心臓の音がここまで聞こえてくる。そんなに怯えずともよいさ。ここは聖堂の奥だ」
フランフランは首を回しながら、目の端で小さな火が灯るのをとらえた。そちらを見ると、一人の男が頼りない明かりの中にぼんやりと浮かび上がった。シルエットが背後に伸び、まるで悪魔が立ち上がったかのように見えた。
炎がゆらゆらと浮かび上がる。その後ろに立っていたのは、城に巣食う影の住人、錬金術師ハインであった。フランフランは彼と会うのは初めてであったが、その風貌と特徴で、彼が噂の男であるとすぐにわかった。
様々な疑問が、彼の不気味な声とともに頭の中をぐらぐらと揺らしていた。この部屋に入れるのは、コフの部屋から鍵を持ち出している自分と、スペアの鍵を持っている伯爵だけのはず、いったいいつ、どうやってこの宝物庫に入り込んだというのか。いやそもそも、彼はここでいったい何をしているのだ。なぜ私が天使画を探していることを、城に来て一ヶ月も経たない彼が知っているのだ。彼がこの城に伯爵直筆の紹介状をもって訪れたのは、奥方と息子が亡くなってしばらくしてからのことであった。
「お客様こそ、なぜこんなところに」
フランフランは平静を装おうとしたが、声が上擦るのを隠すことはできなかった。髭が動き、ハインに自分の様子を笑われたような気がして不快になった。
「私かね、いやちょっとした老婆心だよ。君が必死になって天使画を探しているのに気がついてね。可哀相になったのさ。ここには、君が探しているものはない。君が絵画を一枚一枚捲りながらうんざりしたように、殆ど全てが悪趣味な死の芸術、聖教会お抱えの宗教画家が描いた、地獄の風景画ばかりさ。そんなものばかり見ていると、気がめいってしまうよ」
その通りだった。フランフランは天使画の行方を追って城中を探し回っていた。しかし、手がかりさえ掴めないまま時間が過ぎていった。そんなとき、伯爵とクリフの毒殺未遂事件が起こり、程なくして礼拝堂付きの司祭であったチェプストーが謎の死を遂げた。城全体が不穏な影に覆われてしまったかのようであった。やはりこの城には、人の視線を逃れて城を徘徊する暗殺者がいるのだ。
フランフランは、無人となった大聖堂に、何人も入ることを許されない宝物庫があることを思い出した。留守をしているコフの部屋から鍵を抜きさり、夜を待ってこの宝物庫に忍び込んだ。そこには確かに無数の絵画が所蔵されていた。この中に隠されているのではないか、そう期待した。しかし、絵を見るにつれ期待は薄れていった。そればかりか、気分が悪くなって吐き気すら催すようになっていた。そこに所蔵された絵画は、その大半が死と地獄、暗闇と死神をモチーフにした、一般に死の芸術と呼ばれる宗教画であったからだ。
それらの絵画は人の死体や死神、腐っていく肉体、虫、蝿などを克明に描いた悪趣味なものばかりで、天使画とは似ても似つかなかった。ここにこれほど死の芸術が集められているとは知らなかった。しかし何のために? 聖職者であり故人であるとはいえ、フランフランはチェプストーの神経を疑い、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
目の前の錬金術師という得体の知れない男は、そのことさえも言い当ててしまった。まるで何でも見通しているかのようである、そんな話は聞いていた。他人の秘密だけではなく、ちょっとした会話での発言や、些細な出来事も知っている、彼と会った何人かはそういって気味悪がっていた。フランフランはそれを実際に自分がやられる立場になり、気持ちの悪さを実感していた。こっちは相手のことをほとんど知らないのに、相手は自分のことを知り尽くしている。その気味悪さは、ぬるりとした汗が体を這い回るような感じに近かった。
「ここに天使画はないというのですか。ではいったい何処にあると? お客様はご存知なのですか」
「ああ、知っているとも。天使画の隠されている場所も、そこに描かれている風景がどのようなものであるかも、私は知っている」
城中を探し続けても見つけられずにいるのだ、彼の言葉を俄かに信じる気にはなれない、だが、含みのある言い方が、やはり全てを見透かしているのではないか、そんな思いを強くさせた。
「いったい何処にあると、それに、そのことをなぜお客様がご存知なのですか」
「この城で起こっている事で、私が知らないことなどないのさ。全ての秘密は私の元に集まってくるのだからね」
「答えになっていませんが」
「いきなり答えを明かすのは、錬金術師としての沽券に関わるのでね。真実は自ら辿りついてこそ意味を持つもの。そこに至るまでの過程、経験、思考こそが輝きを放つのだよ。まあ、このままでは、君はいつまでたっても絵画を探し当てることはできないだろう。闇雲に部屋という部屋を探しても、それを持ち去ったものは隠しているに決まっているのだから。この暗闇の中で手探りをするようなものだ。たとえ手が絵画に触れていても、それが探し物だと気付きはしないだろうよ。よく考えてみるといい」
「考えてみる? いったい何を考えろというのです。私には何の手がかりもない」
「そんなはずはない。私には君が足跡さえも気付いていない愚かな探偵にしか思えないがね。あの天上のレプリカを完成させる最後のピースはどこにあるのか、持ち去ったのは誰なのか、それをしっかりと想像してごらん。なぜ奥方は塔から飛び降りたのか、どうして君の息子が、立ち入ることを禁じられていた中庭に早朝からいたのか、どうして君の息子は奥方を救おうとしたのか、全ては偶然だと思うかね。そんなはずがない。あの部屋のように、絵を完成させる最後のピースがあるはずだ。それほど難しいとは思わないがね。君には既に全体像が見えているはずなのだ。だが、気がつかない。恐らくちょっとしたボタンの掛け違いだろう。
君はこう考えているのだろう。奥方様が塔から飛び降りるはずはない。誰かが部屋から突き落とし、そこから絵画を盗み出したのだ、と」
錬金術師の言うとおりだった。カサンドラはそう考えていた。奥方様は殺されたのだ、そう思っていた。そして息子は偶然それに巻き込まれたのだ、と。
「君の息子は禁じられた中庭に一人で入るような子だったのかね、殺されたのではないとするなら、なぜ奥方は塔から飛び降りたのか、その動機はなんだと思う。跳躍した瞬間、奥方様は何を考えていたのだろう。あの部屋を完成させる最後の一枚に描かれていたのは、いったい何だったのか。奥方様はいったい何に辿りついたのだろうね」
その言葉を聞きながら、フランフランは頭の中で、事件の全てのピースがかちりと音を立ててはめ込まれていくのを想像した。誰が塔に登り、奥様を突き落とし、絵画を盗んだのか、そればかり考えていた。そこから既に誤りであったのだ。
おぼろげながら全体像が浮かび上がり、そこにはめ込むべき最後のピースが形を露にした。だが、破片同士の繋がりは不鮮明であり、絵画がいったい何を表現しようとしているのか、そのモチーフが不確かであった。パズルが完成したものの、理解の出来ない抽象画を眺めているような、そんな違和感があった。
ただ、その欠けたピースが何であるのか、いや誰であるのかだけははっきりと分かっていた。朧であった影は、いまや確かな輪郭を伴っている。絵画はきっとそこにある。
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