第四幕 侍従長フランフラン 天使のモチーフ(3)

 カサンドラは何も覚えてはいなかった。悪夢のことも、自らが螺旋回廊に倒れていたことも、自分が何処にいて、何をしていたのかさえも、その前後の記憶一切を失っていた。自分が一週間も眠り込んだままで、しかも悪夢にうなされていたことを知って逆に驚いていた。ただ「どうりでお腹がすいているわけね」といってフランフランを笑わせた。

 すぐに伯爵や医師を呼び、召使いに軽い食事を作らせるように指示を出した。食欲は旺盛であり、意識もはっきりしていたため、フランフランは安心した。悪夢に憑かれた人間は、目覚めても後遺症が残ることが多い、そう医師から聞いていたからだ。

 でもこれなら、体力さえ戻れば、以前と同じ生活ができるようになる、そう思ってほっとしていた。

 しかし、それは間違いであった。カサンドラには後遺症が残されていたのだ。それも奇妙で悲しい傷跡が、その心に刻み込まれていた。

 カサンドラが目覚め、医師によって精神に異常が無いこと、意識の回復が認められると、クリフが伯爵に連れられてやってきた。

 「お母さま」と泣きながらその胸に飛び込んだクリフに、カサンドラはきょとんとした顔をしていった。

 「まあ、よくできたお人形ね。あなたからのお見舞いの品ですね」

 周囲の空気が凍りついた。何を言っているのか、フランフランにはとっさに判断できなかった。

 カサンドラは伯爵に顔をあげると続けた。

 「それにしても、あの子はまだこないのですか。お人形は嬉しいのですけれど、はやくあの子に会いたいのです。一週間も会っていないなんて、寂しがり屋のあの子のこと、さぞや私のことを心配していることでしょう」

 胸に顔をうずめたクリフが、

 「何をいっているの、お母さま、ぼくはここにいるよ。とっても心配してたんだ」

そう長いまつげを濡らし、しゃくりあげながらそういった。

 「あら、このお人形、言葉もしゃべるのね。よくできているわ。それに、あの子にほんとにそっくり。ああ、早くあの子に会いたいわ、あなた」

 クリフの肩がすとんと落ちた。カサンドラの顔をくしゃくしゃの顔で眺めた。恐る恐る振り返って父である伯爵に不安げな表情を見せる。

 後は、クリフがどう声を掛けても、カサンドラはクリフを人形としてしか扱ってくれなかった。しまいには、

 「うるさいわね、このお人形。人形はいいから早くあの子にあわせてちょうだい」

 そういって息子を突き飛ばしてしまったのだ。

 あれほど子煩悩であり、溺愛といっていいほどにクリフを愛していたカサンドラのその行動が、フランフランには俄かに受け入れることができなかった。クリフはそのままペタンと座り込み、茫然として言葉を失っていた。その子にかける言葉さえないまま、フランフランもまた眩暈を起こして倒れこみそうであった。

 コフと伯爵によって、泣きじゃくるクリフがその部屋から連れ出された後も、カサンドラは、どうしてクリフがこないのか、早くつれてきて欲しいとわめき続けた。途方にくれたフランフランは、ふと思い出して一枚の肖像画を持ってこさせた。先日、カサンドラが描き終えたクリフの肖像画であった。それは王宮で絵画の腕を磨いたカサンドラの渾身の作品であり、息子の天使のような笑みを、生き写しのように鮮やかに切り取った一枚であった。

 それを見たカサンドラは、

 「会いたかったわ、どうしてすぐに来てくれなかったの」

 といって絵画を抱きしめ、ほお擦りしたのだった。

 悪夢から覚めたカサンドラは、自分の息子を人形だと思い込み、肖像画を現実の息子だと認識するようになっていたのだ。

 カサンドラの不可解な症状は、もう一つあった。それは階段を降りることが出来ない、というものであった。すぐに歩けるようなったカサンドラは散歩に出ようとし、フランフランに肩を借りて外に出ようとした。扉を開け、階段の前で立ち竦むと、がたがたと震えだし、真っ青になってしまった。異変に気付いたフランフランの声も届かず、よろよろと部屋に戻ると、そのまま嘔吐してしまったのだ。

 その夜、カサンドラは再びうなされ、何度も飛び起きた。起きると冷たい汗をびっしょりとかいているのだ。

 「地獄が、あの階段の下には地獄が広がっているの」

 彼女の汗を拭きながら、フランフランはうわ言のように繰り返される言葉を聞いた。

 カサンドラは階段を降りることができなくなっていた。階段の前に立つと、たちまち前身に悪寒が走り、気分が悪くなり、恐怖で怯えてしまうのだ。

 それはきっと、カサンドラが見ていた悪夢に関係するのだろう。悪夢について尋ねても、決して話そうとはしなかった。起きたとたんに忘れてしまうのよ、そういい続けていた。フランフランは、どう対処していいのかは全く分からなかった。部屋に閉じこもらざるを得なくなった奥方の側で、一緒に思い出話をしながらぼんやりと空を眺めるだけの日が続いた。彼女は肖像画をいまだにクリフだと思い続けていたし、毎日、絵のクリフと楽しそうに会話をすることを日課としていた。最初はその光景に違和感を感じ、いたたまれない思いを抱いていたフランフランだったが、幸福そうな母親の前で相槌を打ったりするなど、次第にその奇妙な会話に参加するようになっていった。

 カサンドラが絵画を描き始めたのは、悪夢から目覚めて二週間ほどしてからのことである。後宮で絵画はカサンドラの趣味の一つであった。喧騒から逃れて幾つかの離宮を巡りながら、土地土地の季節の風景をカンヴァスに描くのが好きだった。また物語を読むことが好きであったことから、その一場面を想像して描くということを好んだ。そういったときは、絵を描き終わるとフランフランに見せ、いったいどの物語のどのような場面であるかを嬉々として説明するのであった。

 「題名を考えているときが一番楽しいのよ」

 王宮での彼女は、描きかけのカンヴァスを前に、そうフランフランに言っていた。

 「何度も塗り重ね、何度も失敗しているうちに、ようやく自分の中の主題が、テーマがはっきりしてくるの。最初から決まっているわけじゃないのよ。十枚も二十枚も失敗して、ようやく一つのモチーフが、物語になって表れるの。その物語にタイトルを考えるのが、最高にわくわくするのよ。タイトルが浮かび上がるのは、たいてい作品が半ば完成しているときなの。ときには、完成と同時に、最後の一塗りの瞬間にタイトルが浮かび上がってくることもある。一度その言葉が降りてくれば、それ以外の名前は考え付かない、まるでその言葉が、この絵のためだけに存在するような、そんな気になるのよ」

 そういっていたフランフランが描き終えた絵画は、確かにすばらしい出来栄えであった。時を経るにつれ、王宮に仕える芸術家達や、宮女達がパトロンとなっていた絵描きも驚くほど、艶やかで美しい絵を描けるほど上達していた。

 伯爵に嫁いでからも、カサンドラは絵を描くことをやめなかった。風景画だけでなく、伯爵や息子の肖像画を好んで描くようになっていた。召使い達の仕事をしている様子や、マルコとフランフランが喧嘩をしている場面や、マルコとクリフが遊んでいる場面を描いたりすることもよくあった。王宮にいた頃に比べ、生活感の漂う温かみのある風景を切り取るようになっていた。

 そのカサンドラが、塔の頂上に閉じこもってから描き始めたのは、光の降り注ぐ天上の楽園の風景、そして息子をモチーフにした天使画であった。楽園の風景は、雲と光と青空、花と緑と風で彩られた景色であり、天使画は、翼と聖衣を纏った天使を、クリフの顔で描いたものであった。一枚をかき終えては壁に飾り、また新たな一枚を描き終えてははめ込み、そうして次々と壁を天上の楽園の風景で埋めていった。石の床には真っ白なシーツが敷かれ、柔らかな羽毛のベッドが敷き詰められ、カーテンは羽衣のように柔らかくゆれるものに変えられた。初めて扉を開けたものは、そこを空中庭園と錯覚するほどの空間が描き出されていった。

 フランフランはある一枚を書き上げたフランフランにタイトルをたずねたが、カサンドラは悲しそうに首を振り、まだ完成していないから、と答えただけであった。フランフランにも次第にカサンドラのやりたいことが見えてきた。彼女は、その部屋そのものを一枚の巨大な絵画、いや一個の芸術作品に見立てて、楽園を描き出そうとしているのではないのか、と。

 ただ、その部屋はなかなか完成することはなかった。失敗しては塗りこめて新たな絵画を描き、また主題と違うと思っては書き直し、それを繰り返しながら新たな風景を描き出そうとしていた。カサンドラは絵画の完成を夢見ながら、その部屋を習作し続けていた。一向に描き終わらないのは、カサンドラ夫人自身も主題を決めかねているからであろう、そうフランフランは考えていた。

 カサンドラが中でも拘ったのは、天使画であった。他の楽園画が無数に描かれたのに対し、部屋に飾られる天使画はたった一枚であった。楽園画を描きあげる合間に一枚を仕上げては、その前に飾っていた一枚と架け替え、古いものは捨ててしまっていた。そして新たな天使画を息子と思い込んで話しかけるのであった。そうして何度も天使画の一枚を描きなおしながら、二年もの歳月が経っていった。

 部屋の壁という壁は楽園画で埋め尽くされていた。部屋からでることができず、現実のクリフを人形と思い込み、新たな天使画を描きあげるたびに、それを息子と思い込む。その症状は二年を経ても変わることはなかった。クリフは何度かこの部屋を訪れたが、人形としてしか扱ってくれないことから、次第に距離を置くようになっていった。二年の間に体を成長させたクリフに対し、肖像画のクリフは幼いまま、しかも描き換えられるたびに輝きを増していくのだ。幼いクリフに母のその態度がどれほどの傷を残したのか、フランフランはそのことを気に病んでいた。

 ただカサンドラ自身は、この空中庭園で幸福な日々を送っているように思われた。時折悪夢に苛まされるのか、地獄が、地獄が、という言葉をつぶやきながらうなされることはあったが。腹立たしかったのは、伯爵が殆どこの部屋に近づくことがないことであった。ただカサンドラ自身も会いたいとは思っていないようであり、いまや一家は同じ城に住みながらばらばらであった。あれほど仲睦まじかった家族がいったいどうしたことだろう。昔を思い出しながら、フランフランはそんな寂しさにかられるのであった。

 フランフランは、カサンドラから捨てるように言われたクリフの天使画を見ながら、何度となくため息を吐いてきた。もう何十枚目になるだろう。一向に完成を見ることのないその部屋のなかで、フランフランはあるタイトルを思い浮かべるようになっていた。

 天使の導き、それが彼女の見出したモチーフだった。

 それは天使画を見ていて思いついた題名だ。天使画はいつも似通った構図であった。逆さになった天使が手を伸ばして地上へと差し伸べる、或いは天使が手を引いて楽園に導こうとする、また両手を広げて見るものを抱きしめようとする、そういったモチーフが多かった。そして天使画のために用意された最後の空白は手の届かない天井近くにあった。

 悪夢に苛まされながら、地獄が、地獄が、そう呟くカサンドラが現に創作した空中庭園、天空の楽園。穢れた地上から天上の楽園へと導かれる、そんな風景だと思った。カサンドラ様は、きっと天上の楽園へと導いて欲しいのだ。地獄を恐れるのは、楽園に焦がれることの裏返しなのだ。そう思った。

 黒死病の蔓延、冷夏による飢饉、度重なる戦乱によって、この数十年の間に、王国の大地は墓すら建てられない死体で覆い尽くされていた。カサンドラは幼い頃、自らも黒死病で一家を失っている。叛乱を起こした領民が城に押しかけ、兵士と血なまぐさい戦いが起こったこともある。怒号と悲鳴が地響きとともに遠くから聞こえてくる中、彼女は震えながらベッドの下に隠れていたという。その後、一人城から逃がされて後見人である王族の許へと身を寄せたが、一家が黒死病に感染して死んでしまったと聞いたとき、それは嘘だと幼心に理解していた。黒死病の対策が遅れ、また長い間の過酷な搾取によって虐げられていた領民に、一家もろとも殺されたのだ、長じるにつれ、そう考えるようになっていた。そしてそれは間違いではなかった。

 カサンドラが地獄を恐れるのは、かつて彼女から聞いたそんな幼児期のトラウマが原因の一つだと思われた。地上に浮上した地獄、その言葉は喩えではあったけれど、確かな現実であったのである。この時代、絵画は死の芸術といわれる陰惨なものが多くなっていた。死神、蛆虫、死体、腐臭、闇、デスマスク、そういったものをモチーフにしたものが多く描かれた。その流れは主として聖教会が意図的に生み出したものであった。度重なる災厄に希望の光を見出せず、救いを演出することのできなくなっていた聖教会はその権威が揺らいでいた。次第に人心が離れていくことに焦りを覚えた教会は、恐怖をもって人を繋ぎ止めることに布教方針を変えたのである。芸術や言葉によって民人の地獄のイメージを助長させ、善行を積まなければ、神に祈らなければ地獄に落とされる、そう人々に訴えたのである。

 カサンドラ自身はそういった地獄の風景画を嫌っていたし、怯えていた。そのようなものを描くことにどのような救いがあるというのか、そう考えていた。だからこそ、楽園の風景で溢れたこの部屋は、カサンドラの救いを求める希望の具現化、そうフランフランには思えたのである。

 そんな、ある日のことである。

 白い布の掛けられた一枚のカンヴァスを前にして、椅子に腰掛けたカサンドラは、満足げな笑みを浮かべてフランフランにいった。

 「完成したのよ、ついに」

 フランフランは驚いてカサンドラの顔をまじまじと見つめた。

 その顔は疲れてはいたが、安らいでいるように思えた。いや、これまで天使画を描き終えたときとは全く違う顔をしていた。どこか悲しげでありながら、どこか強い意思を宿した眼差しをしていた。カサンドラのそんな表情を見たのは、フランフランも初めてであった。単純な歓喜ではない、諦め、いや、焦燥、そういったものが感じられる。今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていたのだ。

 タイトルを聞いても、カサンドラは教えてはくれなかった。

 「まだ乾いていないし、明日になって壁に飾ってから、教えてあげる。それまでは、まだ完璧に出来上がったとはいえないもの。この一枚をはめ込んで、やっとこの部屋は完成するの。だから、明日まで待ってちょうだい。この絵を見せるのも、この部屋の題名を教えるのも」

 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてそういった。フランフランは、ともかくもこの部屋が完成したということが嬉しかった。何か欠けてしまったものを埋めるように、この二年間カサンドラは絵を描き続けてきた。その様はひたむきでありながら、寂しさを漂わせていた。痛々しさ、それが、フランフランが感じ続けてきたカサンドラの塔での生活であった。次の日を楽しみ待つことにして、フランフランは「おめでとうございます」の言葉を最後に捧げ、その部屋を後にした。

 カサンドラがその塔から飛び降りたのは、明くる早朝のことであった。

 息子であるマルコと親友であるカサンドラを同時に喪った日、フランフランは呆然として何も考えることが出来なかった。しかしやり場のない感情、憤りが、カサンドラの自殺の理由を突き止めること方向へと意識を向けた。城の誰もが、狂気の延長としてしかカサンドラの死をとらえていなかった。息子はただ偶然、運悪くその場に居合わせただけだ、カサンドラの死は、そう片付けられていた。自殺であるということさえも疑わしい、フランフランはそう考えていた。なぜ自分の息子が、入ることを禁じられている中庭に朝早くにいたのか、そのときを狙ってなぜカサンドラは塔から飛び降りたのか、それも絵画が完成された翌日に……いや、あの完成したという絵画――。

 フランフランはある不可解な点に気づいた。あの絵画、完成したとカサンドラ様がおっしゃった絵画、あれが何処にも見当たらない。部屋にも、塔の下にもない。部屋から消えてなくなっている。フランフランは覚醒し、確信する。事件に関わる第三者の存在を。恐らくはその人物がカサンドラ様の死に関わっている。結果として、カサンドラ様を救おうとした息子、マルコの死を誘引したのである。そしてその人物は、どういう理由からか分からないが、その絵を部屋から持ち出したのだ。

 ――ではいったい誰が。

 フランフランの頭には、カサンドラを窓から突き落とし、その場から天使画を持ち出す何者かの影がはっきりと浮かんでいた。

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