第6話



 それから俺たちは電車に乗り、メモでいう一件目の打ち合わせの場所へと移動した。


 そこで俺は人生で初めて、会話が全然途切れない会議というものを経験した。


 ミーティングは予定より三十分遅く終わった。会議室から出て、誰も先客のいないエレベーターに二人で乗った。扉が閉まるまでお辞儀の姿勢でいた七瀬さんを真似し、俺も頭を下げて固まっていた。ドアが閉じた直後、緊張が一気に体から抜けた。


 エレベーターが下に動いたわずかな振動で、俺はよろめいて倒れそうになり、金属の壁に手をついて体を支えた。フットサルの試合にフル参加した時みたいに、疲労困憊だった。まだ一社しか終わってないというのに。


 自分だけなのだろうか。俺は横に立っている仮の上司をちらりと見た。七瀬さんはこのビルに着いて、エレベーターが昇っていく時に見たのと同じ、涼しい顔をしていた。会議をファシリテートして、要点を喋り続けて、質問に答えて、時には顧客を笑わせて――それでもまったく疲労の影は見られない。


 比べたら俺なんて会議で座っていただけだ。あのメモを読んでいたが、会話の内容はちっとも頭に浮かばないし、決定事項が何だったか全然わかっていない。


 俺の戸惑いを見透かして、七瀬さんの放った矢が飛んできた。「おい、議事録に使うメモ、取っているだろうな?」


「あ……しまった!」よく注意されるやつだ。会議の内容が分からなくても、とりあえず新人は耳と手を動かせと先輩が言っていたのを忘れてしまった。


「初めての人たちの顔と会話に圧倒されちゃって――」


「あのな……くだらない言い訳をする前に、ミスを認めろ!」七瀬さんの表情が曇っている。明らかに怒っていた。「重要な言葉ひとつ漏らせば『そんなことは言ってない』の一言で、合意が吹っ飛ぶんだぞ! お前、初っ端からたるんでいるのか?」


「す、すみません!」俺はすぐさま謝った。頭を上げた所に、何か小さな物が飛んできた。一度弾いたが、何とか両手でキャッチする。表面がマット仕上げの黒いボイスレコーダーだった。続けて同じのがもうひとつ。


「いまの会議の音声だ。残りのもそいつで全部録音しておけ。操作方法は移動中に覚えるんだ。メモリの残量に注意しろよ。記録されるのを嫌がる顧客もいるから、事前に録音の合意を取るのを忘れるな」


「は、はい!」俺は一階についたエレベーターから出ていく七瀬さんの小さな背中を追った。



 七瀬さんと過ごした日々は、一瞬一瞬が緊張と驚きと刺激の連続だった。


 体も頭も余裕のない俺と違い、七瀬さんは輝いていた。次々とやってくるこま切れの開始と終了のはざまで、タイムラインを操って約束と納期の渦の中を生き生きと泳いでいた。


 この世界は体の大小や性別なんて関係ないと改めて思い知った。会議室を転々としながら、人と会い、用意した結果を手渡し、新しい約束を持ち去っていく。そのたくましい姿は、戦場から別の戦場に成果を求めて渡り歩く傭兵さながらに映った。


 この人、やっぱり凄すぎる。


 小説を書いてるとか自慢する割に質素な表現だけれど、現時点で俺の最高の褒め言葉だった。


 組織の下っ端で勤めてきた俺は、与えられた役割をこなし、結果を上司に報告する事だけが仕事のやり方だと思っていた。むろん間違っているとは思わない。でも一方で、七瀬さんのように何もかもひとりでこなす人間がいると知った。


 俺は七瀬さんの後ろを歩き、背中を見ながら考えていた。彼女の姿勢は俺のいる会社のどの先輩たちよりも真剣だ。手を抜くようなことは一切しなかった。理由はすぐに分かった。だってそれをすれば、結果は自分に帰ってくる。俺たちみたいに責任を取る上の人間なんていないんだから。



 七瀬さんに連れられる日々は、あっという間に五日目を迎えた。


 最終日になっても変われない俺は、ジャンボのあの席に座り、例の調子で叱られていた。


「こら! お前の議事録どうなってやがんだ!」七瀬さんが煙に咳き込みながら、怒鳴った。


「あれ……役員たちの発言は全部写し取ったつもりですが」


「馬鹿っ! 議事録の意味わかってんのか? 言葉をそのまんま書き出すだけだったら、きょうび機械にだってできらあ! 要点とか結論がボケてて、後でどうやってこいつで言質げんちを取るんだよ! 何でお前そんな論理的な文章書くの下手なんだ?」


「これでも大学時代は小説書いてたんですよ?」俺はいたく傷ついて反論した。「それなりの賞をもらうぐらいの所までいったのに……」


「あーそいつは立派なこった。褒めてもらいたいんだろうが、仕事にゃ使えないね。むしろ邪魔してるよ。社会に出たら、そういう無意味な自信は打ち砕いておいた方がいいぞ。それがお前の為だ」


「あ!!」俺はそこが夜の客のたくさんいるレストランであることも忘れて、大声を上げた。


「な、何だよ!」七瀬さんもさすがに驚いて俺を見た。


「いや、あの……何でもないです」


「あん? 気持ち悪いな……そういうのは一番嫌いなやつだ。はっきり言えよ」


「ええと、いいんですかね? 勘違いかも」


「私が許可してるんだ。言いな」


「『死ね』の意味がわかったかもしれません」


「ほう」


「やっぱり、本当に死ぬって事じゃなくて」


 七瀬さんが苦笑した。「そりゃそうだ」


 俺は咳払いした。「自分の中でずっと持っていた信念とか自信とか、そんなものは社会じゃあ通じない……だから一回それを捨ててみろ。それが七瀬さんが言う『死ぬ』ってことでしょうか?」

 

「ちょっと正解で、少し間違ってる」


 ちょっとと少しの違いがわからない。彼女の表情がいじめっ子のそれになった。「でも自分で気づけたじゃないか、武智。誉めてやるぞ」


 俺は子供みたいに笑っていた。嬉しかった。正解に近づけた事と、初めて名前で呼んでもらった事のふたつが。


「答え合わせしてやるよ。私に会った時、お前はまだ生まれ変わってなかったんだ。そりゃ年齢は成人を越えてるし」七瀬さんが指を伸ばして俺の胸をつついた。「体は社会で働けるぐらい頑丈に成長した。だが中身がガキのままだった。


 なぜ会社に入ろうと思った? 親も会社員だし、友達もその道を選ぶからか? 考えてみろ。ただ飯を食って寝るだけの生活なら、社畜として勤める必要ないよな。バイトだって充分に暮らせるはずだ。 おい、何処へ行く。大事なところだ。目を反らすな」


 俺が腰を浮かして後ろに下がろうとしたのは、七瀬さんがいきなり顔を近づけたせいだ(この人は夢中になると接近するクセ・・がある)。といっても背後には別の椅子が置いてあるので、それ以上後退する余裕はない。


 七瀬さんが両手を伸ばし、俺の肩を力強く捕まえた。「お前、人生を誰の為に生きてるんだ? 遊びだって仕事だって、テメエの意思でやってんだろ。会社まで歩く足・・・・・・・は誰の意思で動いてるのか、分かってるはずだ。それを他人事みたいにやらされてるって顔しやがって……それで最後はガキ同士で真っ昼間から愚痴のシェアリングなんて女々しすぎるんだよ!


 ついでに言うがこの店ジャンボはな、私が先に見つけた快適なモバイルオフィスだ。なのにお前らが来たせいで、昼間っから居酒屋みたいにやかましくなっちまった!」


 これにはびっくりした。俺が七瀬さんを知るずっと前から、彼女の方が俺らを見つけていたなんて。


「いや、最後のは忘れてくれ」咳払いする。「とにかく荒療治だが、体験しなきゃわからない事があるんだ。怒鳴られろ。恥をかけ。笑われるんだ。それが辛いのはわかってる。死にたい気持ちになるのも分かるし、ときどき本当にそうしてしまうやつだっている」そう語りながら、七瀬さんはカウンターの壁の一点を見つめていた。後になって知ったのだが、このとき実はもっと遠くの――今は見ることのできない過去のある一点に、七瀬さんの意識は向けられていた。


「けれどそれは一時的な死だ。どんなに不真面目な奴だって人間だ。そこから蘇ってくる力を持っているんだ」熱のこもった口調で言う。


 七瀬さんは立ち上がり、俺の手を強く握った。「武智。くすぶっている暇があるんなら、一回死んで見ろ。死んでもいいって思えるぐらいの気概をもって、今やってる事に立ち向かえ。何なら私がお前を殺してやる。徹底的につぶしてやる。だが約束しろ。必ず這い上がってくるって。それが出来ればお前は次の一歩を進める自分になって、戻ってこられるんだ」


 我を忘れて語っていた七瀬さんが、いきなり現実に返った。俺に穴が空くほど見つめられている事に気づき、握っていた手を乱暴に振りほどいた。「いや……今のは忘れてくれ。言葉のあやだ。そこまでお前を買っちゃいない。いつでも見捨てる用意はあるから心配するな……」彼女は語尾を濁した。


 俺は不思議な気分で、この年上の女性ひとを見つめた。様子が変だ。この五日間で初めて焦っているように見えた。


 意外すぎてすぐに理解できなかったけれど、いきなりピンときた。


 七瀬さんは恥ずかしがっているんだ。間違いない。


 お客さん以外全てに冷たくあたる人が、年下を相手につい熱い感情を外に出した事に慌てているんだ。鬼軍曹の素の一面を発見できた事に、俺は無性に嬉しくなった。


「おい、武智! へらへら笑うんじゃない。薄気味悪いんだよ!」


 怒鳴られていても、俺は温かい気持ちで一杯になっていた。「七瀬さん、ありがとうございました! この一週間で学べたこと、すごく多かったです! 俺、ちょっとだけでもあなたと一緒に働けて本当に良かった」


「ふん」七瀬さんはそっぽを向いてしまった。俺のことが大嫌いか、見られたくない表情をしているかのどちらかだ。俺は後者であってほしいと強く願った。


「これからは死んだ気になって、全てに真剣に取り組みます!」


「ああ、そうかい。じゃあアルバイトは終わりだ。お荷物が居なくなってせいせいしたよ。じゃあな。さっさと優しいお友達のいる快適な場所に戻りな」


 七瀬さんは突き放す一言で、俺との契約を解除するつもりだったみたいだ。けれど俺は認めなかった。まだ彼女に伝えていない、大事な一言があったからだ。


「七瀬さん」


「なんだ、まだ言い残しがあるのか?」


「俺と付き合って下さい!」


「はあ!?」


「本気です! 七瀬さんに殺された・・・・瞬間から……あなたの事が忘れられなくなりました! 今じゃなくていいです。でも絶対に認められる男になります。あなたが俺を殺さなくても平気だって思えたら、俺と結婚前提に付き合ってください! あ、あれ? 七瀬さん、もう帰るんですか?」


「武智……お前本当はヤバい奴だったんだな」七瀬さんが荷物を手に後退していった。「やっぱりお前を褒めた事は全部取り消す! 消えてくれ! 私の存在も忘れろ!」


「い、嫌です! 俺、七瀬さんっていう最高の目標を見つけたんだ。絶対に途中で諦めたりしないからね」


「あーもう!! ちょっと情けをかけたら、とんでもない目にあった! マスター! 長々と世話になったな。もうこの店には来れそうにない。じゃあな!」


「ああ、そうなんだ、残念だね。じゃあ七瀬ちゃん、貯まったツケの伝票について、今から一緒に精算の打ち合わせをしますかね」


「ちょ、いまそれ言う?」


「ねえ、七瀬さぁん! 俺頑張るから!」


「頑張るってそっちの意味じゃねえだろ! 帰れ! このシスコン、エロガキ!」


「そんな性癖ないですって。第一、姉なんていませんって!」


「だから、そういうこっちゃないって言ってんだろ!」




(死ねをあなたに   おわり)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死ねをあなたに まきや @t_makiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ