第5話



 カランカランとドアベルが鳴った。まだ昼時には少し早い時間帯だ。ジャンボの店内は閑散としていた。


 あの人は居ないようだった。俺は失望か安心か良く解らないため息をついた。とりあえずがら空きのカウンター席に座った。


「いらっしゃい」店のマスターが声をかけてきた。「武智さん、でしたよね。今日はだいぶ早いですね」


「俺の名前……」


「お昼の常連さんですから。いつもお仲間と喋っていて、声が聞こえてくるので」マスターは気さくに笑った。


 俺か落ち着かない様子でいたせいか、気を使って相手の方から尋ねてきた。「待ち合わせですか?」


「あの……少し前ここに来てた人で、あっちの席にひとりで座ってた女性なんですけど……」


「女の人? 誰だろう?」


「えーと、髪をこんな感じで後ろに結んでて、スーツ着てて。とても忙しそうでした。それであの……ものすごく……その……口の……」


「ああ、口の悪い?」マスターが笑いながら引き取った。「それで解りましたよ。ななせちゃんだ」


「は、はい、あの、そのななせさん。今日は?」


「もうすぐ来ると思いますよ。いつもお昼前に来て、仕事してから出ていくから」


「そうですか。じゃあ、待たせて下さい。コーヒーを……」


 その時の俺の様子は尋常じゃなかったと思う。だって就業中にいきなり会社を飛び出してきた男だ。表情や喋り方、それに目つきだって普通だったとは思えない。


 けれどマスターは俺に何も尋ねなかった。それだけじゃなくて、いつもより特別に濃いコーヒーを挽いてくれた、と信じる。そうじゃなければ、カップから漂う香りが、こんなに俺の鼻孔をくすぐる訳がない。


 おかげで五分も絶たないうちに、俺の混乱した心が落ち着いてきた。と同時にやってしまったことの後悔がふつふつと胸に押し寄せてきた。


 上司に訳の解らないこと言ってドン引きさせ、大切な同僚たちの心配の言葉を無視し、会社を現在進行形でさぼってる。もうメチャクチャだ。


 三枝ならきっと呆れ顔でこう言うだろう。「すぐ辞めちまうバイトみたいな事すんなよ。プロパーだろ、武智は」


 俺の背後からやって来たマスターが、水の入ったコップを置いてくれた。脇に敷かれたた白い紙ナプキンが目に入る。黒のサインペンで文字が書いてあった。


『七に瀬で、ななせちゃん』


「いらっしゃいませ」


 少し大きめのマスターの声が俺の意識を引き戻した。


 上半身だけ振り向いた俺の視線の先に、その人がいた。七瀬さんだった。


 今日はダークグレーのスーツを着込んでいた。立ち姿は初めて見る。細身だったし、やけに足の長さが目立っていたから、背が高いと思っていたけれど、本当は驚くぐらい小柄なんだ。


 俺の注意は自然と七瀬さんの小顔に引き寄せられた。相変わらず細い柳葉のような目をしていた。


 スーツなのだが、どこか和装の美人画を見ているような印象を受けるのが不思議だった。


 しかしそんな感想もすべてが吹き飛ぶ事実がある――彼女のあの目がギラリと輝くとき、容姿を超越した強烈な言葉が飛び出るのだ。俺は身震いして、思わず唾を飲んだ。


 七瀬さんは顔を伏せたまま入ってきて、マスターに会釈だけすると、そのまま流れるように定位置であろう窓際のテーブルに歩いていった。


 今日もたくさんの鞄を持っていた。それをひとつふたつと空いている椅子の上に置いていく。


 七瀬さんは唯一手元に残した鞄から、淀みない手順で書類やペンケース、その他の作業に必要な道具を配置していく。ルーチンになっているのだ。その全く無駄のない流れを見ると、この人がいかに時間を無駄にしたくないか良くわかった。


 そもそも彼女のタイムテーブルには、俺に邪魔されたり世間話をする為に費やす枠は全くないに違いない。あの日、キレたのはそのせいだ。この人は自分のペースを邪魔されるのを嫌う人なんだ。そして俺はまたその禁を破ろうとしていた。


「お忙しいところ、すみません」


 無視されるに決まってると思い込んでいた。しかし意外にも七瀬さんは――むっつりとしていたが――口を開いた。「……なんだ、ナンパ野郎か」


 相変わらず刺が鋭い。「は、はい! あの時はすみませんでした!」


「謝る必要なんてないだろ。許すとか許さないとか、あんたと私はそんな間柄でもないし……ふん、まあいいや。それでも詫びたいってんなら、執行猶予付きで見逃してやる」七瀬さんは横柄に手を振った。「さあ、もういいから邪魔しないでくれ」


 放たれた言葉のつぶてを浴び、さっそく俺は立ち尽くしてしまった。彼女の異常なまでに乱暴な言葉使いを聞くと、どうしてか俺の心は麻痺し、言葉を失っていく。


 俺の人生のなかで、他人にここまで悪者に扱われたことは一度もなかった。自分だって普通のレベルの感情を持つ人間だ。イライラすることも良くあるし、見ず知らずのやつと言い争いになった経験もある。そもそも我慢強い性格とは思えないぐらいなんだ。その俺がここまでコケにされて、どうして一言すら返さないのだろう。


 そういえば俺が怒鳴り返せていない人間がもうひとりいた。月ハゲだ。やつは入社してからずっと俺の上司だった。


『窓際に座ってるやつはみんな偉そうで口が悪いから気にすんなよ。逆らうと後がねえぞ』先輩からきつく念を押された。だからいくら怒鳴られてもなんとか我慢してやってきた。


 けれど七瀬さんは違う。赤の他人。これまで彼女と同じ場所で空気を吸ったのは、たったの二回だけ。時間は合計で三十分にも満たない。彼女との関係は最初からイーブン。俺は何も遠慮しなくていいはずなのに……。


 もしかして彼女を女性として意識してるから? 馬鹿を言え。俺は童貞の引きこもりなんかじゃない。女を目の前に喋れなくなるやつが、気軽にナンパなんかするものか。あっ、よこしまな目的で喋りかけたって認めちゃったよ。


 どうでもいい! その答えを知る時は今しかないんだ。七瀬さんが目の前にいる、今しか。


「あの!」


 彼女が振り向く。


「俺、許されたばかりだってわかってます。あなたが死ぬほど忙しいのもわかってます」


 夢中になり、意識せず七瀬さんに一歩近づいていた。「それでも俺、あなたと話がしたくって! 話さないと帰れないっていうか、一歩踏み出せないっていうか。うまく言えないけど、聞きたいんです」


 言ってしまった。


 七瀬さんが固まっている。働き者の細い指が完全に止まり、細い目が俺を睨んでいた。沈黙に耐えられず、俺は目をそらしてしまった。さらなる言葉の殴打を覚悟しなくては。その準備に身を硬くした。


 しかし何も来なかった。いちど彼女をチラッと見る。どうやら怒っている訳じゃなさそうだ。


 フンと鼻から息を吐いたあと、七瀬さんが静かに口を開いた。


「……また罪を犯せば、次は剰余酌量が無い事はわかっているよな。それで極刑になっても構わないというのなら話を聞いてやる。そこ、座っていいぞ」彼女はテーブルを挟んだ反対側の席をペンの先で示した。


 これまでの扱いからしたら奇跡のようだ。俺はこの店にいても良く、座ることすら許されたのだ!


 俺はさっそく七瀬さんの対面の椅子に腰掛けようとした。が、先に置いていた荷物が座面を占領していた事に気づいた。「この荷物を触ります……つ、つまり、どかしてもいいですよね」


 彼女は一瞬、苛々した表情になったように見えたが俺の気のせいだった。さっと立ち上がると自分でカバンたちをつかみ取り、自らの足元に置き直した。


「ありがとうございます」ようやく腰を落ち着けた俺は、何気なく時計を眺めた。十一時時を過ぎていたが、昼の混雑までにもう少し時間はありそうだ。


 席についたものの、どう切り出してよいかわからず、俺はモゾモゾしていた。


「マスター、コーヒー」七瀬さんが突然、指を二本立てて注文した。


 その意味を理解して俺は慌てた。「お、俺もう自分の飲んでますから!」


「とっくに冷めてんだろ。心配するな、おごってやる」


 相手に気を使わせてしまったという事実に、ますます落ち着かなくなった。そんな俺の心情を察したのか、話を切り出してくれたのは七瀬さんの方だった。


「聞きたいって言ったのお前だろ。せっかくなら、私が休憩してる間に質問しろよ。タバコ、いいか?」


「はい、あっ……」思わずマスターの方を見て小声になる。「今は禁煙だと思います」


「ちぇ、もうランチタイムか」苦々しい声。


「あの、あの」いざ許可を貰うと、言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。「そうだ、名前いってない! おれ、武智っていいます。あなたは確か……すみません、マスターに聞きました。七瀬さんですよね」


「はあ? なんで……ああ、マスターのおしゃべりめ……」


「そう呼んでいいですか? 『七』に『瀬』って、書くんですよね。す、素敵な名前ですね」


「ふぅ、まるでお見合いだな。あのさ、質問……」


「は、はい! あの、この前、七瀬さんが俺に言った『死ね』が忘れられません!! あの、その……すみません……俺、何日も悩んでるんです。眠れないし、考え出したらあたま働かなくなっちゃって」


 人というのは悩みをちょっとでも口から出すと、そのあと楽になる生き物だ。それがきっかけになって、俺は言葉を続ける事ができた。「ついさっき、上司にも似たようなこと言われて、馬鹿みたいに『どうしたら死ねますか?』って、聞き返したんです。それで、そのまま会社飛び出してここに来て……何してんだろ。まったく、笑っちゃいますよね」


 ところが七瀬さんはくすりとも笑わなかった。


「そうかい、真剣に悩んだんだな……なら少しは言った意味があるかもしれない。どうせそんなたぐいの言葉、仲間からは一度も言われたこと無いんだろうな」


「はい……」


「赤の他人の私にいきなり馬鹿にされたんだ。怒りよりもショックが大きいってか」


「はい……」


「けれど周りの誰からも答えを貰えないからここに来た」


「はい……」俺はいちいちうなずいていた。どうしてこの人はそこまで俺の心が読めるのか。


 マスターが静かにやって来てコーヒーカップを二つ、俺たちの前に揃えていった。男女の間に、湯気が渦を描いて立ち昇る。


 七瀬さんは冷まそうともせず、黒く熱いコーヒーをすすった。カップを置いたあとに七瀬さんの口から出た言葉は、俺の想像できないものだった。


「明日から一週間、毎日私の仕事を手伝え。私の横にいて、私のやることを見ろ。それができたら答えを教える」


 七瀬さんは腕を組み、小さな鼻から憤然と息を吹き出した。「悪いが給料は出んぞ。お前が勝手についてくるって立て付けだからな。その代わり交通費と飯代は支給する」


 突然の提案、いや命令とも思える言葉に俺の意識がフラットになった。だが七瀬さんはまだまだ口を閉じなかった。


「当たり前だがスーツは来て来いよ。ビジネスカジュアルは好きじゃない。そのチャラチャラした髪型は整えないと許さないぞ。明日は八時にこの店の前だ。わかったな。さあ、休憩は終わりだ!」


 それだけ言ったあと、七瀬さんはもう二度と僕の方を見ようとはしなかった。


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