第4話
その出来事があってから、俺の仕事場での態度はますます腑抜けになった。何だろうこの感じ。生きているのに、体は前に歩いているのに、心が付いてこない感覚だった。
当然だが評価はボロボロ。上司からの悪態は激しさを増した。
「たけぇぇぇち!!」それは事件現場でしか聞けなさそうな、殺意さえ感じる叫びだった。
「どんだけ言わせりゃあ気が済むんだよ!」月羽課長は激しく咳き込んだ。「見積書と企画書の数字がグチャグチャだって言ってるんだろ! おい、聞いてんのか!」
「はい……」
俺の返事に、ついに月ハゲが本気でキレた。
「そうか! お前、俺を陥れるつもりだな? なあ、そうだろ? わざとチョンボをしまくって、俺の評価を下げるつもりだろ? ふざけんなよ、俺は死なねえからな! お前ひとりで自滅すりゃいいんだ。いいか、すぐにクビにしてやるからな! 路地裏で勝手にくたばっちまえ!」
どれだけ罵られても、課長のヤクザのような怒声も、全く気にならなかった。けれど最後の単語を聞いた途端、俺の指がぴくりと反応した。俺は伏せていた顔を上げた。
「……どうやったら死ねますか?」
「は、はぁ?」
「俺、この前もある人に
怒号のあと荒い息を繰り返していた月ハゲは、俺の質問を聞いてぎょっとした表情になった。何か言おうとして、口をつぐむ。こいつはヤバイ奴だと認識されたらしい。
俺は一歩詰め寄った。課長が同じ距離後ろに下がる。
「課長、教えてくれませんか?」
「し、知らん! 知らんぞ、俺は!」月ハゲは、まだハンコの押されていない書類を持ち上げ、俺に向かって盾のように構えた。
「え……でも言いましたよね……あの人と同じ言葉を。死ねって」
「違う! 違うんだ! 俺が言ったのは『くたばれ』だ! しかも例えだ、例え!」
「はは、やだな、意地悪しないで教えてくれませんか? 課長、俺は何でも知ってるんだっていつも自慢してるじゃないですか? だからご存知なんですよね、死ぬ方法も?」
「武智、た、頼む! それ以上俺に近づかないでくれ!」課長の後ろにはもう埋め込まれた窓しか無かった。「そうだ……俺より先に言ってた人がいるんだろ! そいつに聞いてくれないか? それがいい、な? な? 知らんのだ……俺は知らんのだぁぁ! わぁぁぁ!」
逃げ場を失くした月ハゲは土足で机の上に飛び乗った。そのまま反対側に駆け降りると、一目散に出口に向かい逃げていった。
「教えてもらえないのか……」
俺は残念で仕方なく、肩を落とした。モーションなしに振り向いて――それが周囲の先輩たちを動揺させた――ふらふらと自席に戻った。
それからずっとパソコンの画面を見つめながら自分と会話し続けた。
ここ数日、仕事も遊びも手につかない。どうして『死ね』とかいうたった二文字の言葉が、ここまで気になるのだろう。そういえば、自分の人生を思い返してみても、ほとんど『生きる』を含んだ言葉しか言われたことがなかった。
『苦手でもとにかくやってみろ』『大丈夫だ、一点差ぐらい何とかなるさ』『暗くなんな。受験だけが人生じゃない』『前を見ろよ。会社なんて山程あるんだから』
どれもベクトル的に上とか斜め上を向いている。足を前に踏み出させる為の言葉だ。一見、
けれど、あの人は違った。
『恐ろしく口が悪いねえ、ななせちゃん』
ここ数日、俺の耳からジャンボの店長の台詞が離れなかった。
苗字か名前か分からない『ななせ』という女性。彼女は初対面の俺に対し、全力で生を否定してきた。社会に役に立たない屑だと決めつけたうえに、
ここまで徹底的に否定されると、怒りの感情が浮かんでこない。
子供のころ、道路で友達とはしゃぎ過ぎて車の前に飛び出した事がある。轢かれそうになったがその時は無事ですんだ。警察官に家まで連れていかれ、事情を説明されている最中に、いきなり母親に親にビンタされた。
本気で親に叱られたのはその時だけだから、よく覚えている。いまの心境はあの時に感じた衝動そのままに思えた。あまりの事にびっくりして、心が麻痺してしまったんだ。
不意に我に返った。パソコンの画面のちらつきのせいだと思う。溜まりに溜まったメッセージの着信通知が、画面の下の方で基地外みたいに点滅していた。
三枝たちだ。でも、ゴメン。俺はキーには一切触れず、ノートパソコンの蓋を静かに閉じた。
そのまま席を立って歩いたが、後を追って声をかける社員は誰もいなかった。早足でオフィスを出たあと、エレベータホールに移動した。そこで下のボタンを押し続けた。
自分が何をやっているのかよく解らなかった。ただ俺はいま無性にジャンボに行きたかった。俺に死刑宣告したあの人のいる店へ。
俺はオフィスの方を振り返りもせず、やって来た空のエレベーターに飛び乗った。
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