第3話



 ひと目見てわかる華奢な体格。典型的なポニーテールで、飾り気のないゴムで後ろ髪を結んでいた。きつく後ろに引っ張っているせいで、髪か頭皮にピタリと貼り付いて頭がとても小さく見えた。


 濃いブルーのジャケットを椅子の背もたれに掛けている。下も折り目のついたパンツスーツ。格好からして、彼女も俺たちと同じ仕事中に違いない。


 店のテーブルの上は積み重なったファイルと散らかった付箋で一杯になっていた。彼女は資料の隙間に肩肘をついて、眉間に皺を寄せていた。


 丸い眼鏡のレンズの下に、小筆で払ったような細い目がすごく印象的だった。眼差まなざしはとても真剣で、行き来する黒い瞳が書類の上の数字を執拗に追いかけていた。


 何かに行き詰まる度に、女性の細い指がペン軸をくるくると回す。さっき俺が見た光は、ペン先の金属の部品の反射だった。


 睡眠時間が足りていないのだろうか。彼女は真っ赤になった目をギシギシと指で擦った。俺にすら伝わって来る張りつめた緊張のなか、ついにその人は掌を机にバンと叩きつけた。


「ちっ! やっぱ合わねえなぁ」


「えっ……」俺は耳を疑った。


 納期前になると、俺の会社にはイライラと頭を掻き、耳を塞ぎたくなる汚い言葉を吐く先輩がよく出没する。


 目の前の小柄な人の吐いた言葉は、先輩のと同じたぐいか、もっと強烈な毒を含んでいた。その毒気を浴び、俺はたじろいだ。


 普通ならドン引きしてしてもおかしくない口調を聞いたのに、俺は彼女から目を反らすことが出来なかった。同僚にも先輩にもいない、凛とした雰囲気の美人だから? 見た目と言葉遣いのギャップに違和感を覚えたから? その両方だったかもしれない。


 そんな時に限って、俺の中にあるよこしまな心が顔を出す。


 何だか俺、この人とすごくお近づきになりたい! 本能的な欲求が先に頭に充満し、気づいたら俺は馴れ馴れしく喋りかけていた。


「い、忙しそうっすね?」


 静寂がたちこめた。完全に無視されている? いや、確かにいま彼女の眉の端がわずかに持ち上がったのを見た。


 これはまだ脈がある。女性へのアプローチが――自称――得意な俺は、めげなかった。「この店で初めて見る顔だね。駅近くの商業ビルにいる人かな……それとも外回りの営業さんとか?」喋りに調子が出てきた。「いやあ、この書類の量、半端ないね! めっちゃ仕事こなせる人って雰囲気あるよ。少しだけ先輩だと思うんだけど、年齢差を気にしないのが俺の長所なんすよ」って誰も聞いてないか。


 俺は反応が薄いのを逆手に取って、テーブル越しに彼女の正面の椅子に回り込んだ。


「目の前、無駄に空いてるから座ってもいいよね?」


 わざと相手がカチンと来る言い方をして、反応を引き出すつもりだった。けれど彼女は俺など居ないものとして、床に倒れていたポスターケースを拾った。テーブルに広げた紙面を見て、俺は息を飲んだ。


 素人だから細かい事はわからない。ただ、何かの建物と部屋の間取りだと言うことだけはわかった。驚嘆したのは、その紙に描かれた線の美しさと精緻さだ。


「わぁ……ちょっと、これ凄いね!」俺はもっと良く見ようと身を乗り出し、紙面に目を近づけた。


 すぐにあることに気づいた。「あれ……これって印刷じゃなくない? まさか手書きなの? 今どきこんなのって」無意識に感触を確かめたくなり、指が紙面に伸びてゆく……。


 バシッっと言う乾いた音と共に、鋭い痛みと衝撃が肩までやってきた。


「って!」何が起こったか理解するのに、時間がかかった。


 彼女から放たれた手刀が、俺の人差し指をテーブルの上から吹き飛ばしたのだ。それが彼女の仕業だと気づくまで、俺の口は馬鹿っぽく開いていた。


 呆ける俺をよそ目に、彼女はさっさとポシェットから取り出した一本の煙草に火を付けた。口に含んで最初のひと口を吸い込んだ。


「え……えっと」俺の声は震えていた。「タ、タバコ、吸うんだ。あれ? この店って禁煙じゃなかったっけ……っていうかさ、今どき煙草なんて高いし、そもそも体に悪いし――」


「死ねよ、お前」


 最後まで喋らせてもらえなかった。彼女がいきなり俺のネクタイの端に手を伸ばし、ぐっと手前に引っ張ったからだ。俺の顔は彼女の方に引き寄せられ、ガクンと前のめりになった。あやうく舌を噛むところだった。


「うぐっ!」彼女の引っ張る力でさらに喉が締まり、声が出なくなった。あわてて息を吸おうと顔を上げる。すると目の前に、彼女の血色の悪い真っ白な顔があった。


「貴様、いますぐその糞の役に立たない口を閉じろ!」


 返事をしようにも喉が絞められて声が出ない状態だ。彼女の言葉と表情の凄みに気圧され、考える間もなく首を縦に振った。


「『すごい』だ? 私がいま何をしているのか、お前に理解できるのか? なあ、答えてみろ!」


 それは質問という名を借りた拷問だった。彼女の変わりように仰天している俺の頭が働くわけがない。「え、え、営業の……準備とか?」


「はは! 笑わせるね! 教えてやるよ。お前には一生できねえ『仕事』ってやつをやってんだよ! いいか、この図面の直しはな、三時までに終わらせることになってる。それに客の思い付きで変更になった見積り、細かい数字から全部ならべてやり直しだ。それが間に合っても駄目でも一時間後に、私は客先の役員会議室やっかいの一番前で、口を開いてお偉方を説得してなきゃならないんだぞ。わかるか?」


 彼女の言葉が一瞬途切れた。しかしそれは、構えた武器に弾を装填する間のわずかな隙に過ぎなかった。


「お前みたいなやつ……そうだ、貴様ごときが邪魔しやがって! こっちはな、真っ昼間っからスーツ着てナンパしてくるド級の暇もて余してるやつと遊んでる時間なんてねえんだ! 理解できたか? わかったら私の前からさっさと失せろ! このガキ!」


 繰り出された言葉の弾丸はどれも最高に鋭くて、殺傷能力は抜群。二十五年間、俺を言葉の暴力から守ってきた心の壁を簡単に貫通していった。


 彼女がぱっとネクタイをつかんでいた手を離した。俺はそのままよろめいて、レストランの床に尻餅をついた。


 俺はまだ動けなかった。罵倒されたのに、いまは感服さえしていた。すげえ。圧倒的な言葉の戦闘力。言っている事はまともなんだけど、超がつくほど攻撃的。おかげで完璧に打ちのめされた。


「おい……武智、もう時間だ……戻るぞ」


 情けなく腰を抜かしていた俺を、三枝が助け起こしてくれた。俺たちは同僚の待つテーブルの方へと歩いて行ったが、途中でどうして言いたくなったのか、三枝が立ち止まって女性の方を睨んだ。「あの! 武智が……友人が邪魔をしたのは謝ります。ただ、いくら何でも言い方ってもんがあるんじゃないんですか? 『死ね』とか『ガキ』とか、それこそ大人の台詞じゃないでしょう?」


 指摘に少しだけ興味を持ったのか。女性は一瞬動きを止めた後、三枝の方を見た。「へえ、まともな意見。でも、本当にそう思う?」彼女は口の端で笑っていたが、声についてはどこまでも冷ややかだった。「あんたがそいつの友人なら、さっさと現実を分からせてやるのが本当の友情だと思うけれどね。考えてみな。そいつが変わらないままだとしたら、数年後に職場でどんな立場にいるのか……まあ、とっくに会社から居なくなってるかもね」


「ふざけるな!」三枝が本気でイラっとしたらしく、声を荒げた。


「行こう」ようやく声を取り戻した俺が三枝の肩をつかんで制した。


「おい、言わせとくのかよ!」


「もう……いいから」俺は首を振って三枝に訴えた。頼む、俺のために嬉しいけど、もう言わないでくれと。


 俺の情けない表情と壁の時計を見て、三枝は反論をあきらめた。嘆息すると、最後に女性をねめつけて、その場を離れる。


 いつの間に、走らないと午後の始業に遅刻する時間になっていた。俺らは急いで会計の列に並んだ。


 列が短くなる間も、背中ごしにマスターとあの強烈な女性の交わす会話が聞こえていた。


「相変わらず恐ろしく口が悪いねえ、ななせちゃん」


「邪魔するやつが悪いんだ。何、マスター。文句があるならもう店に来ないけど」


「またそんな冷たいこと言わないでよ」


「ふん」

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