第2話



 三十分後、ようやく俺は課長から開放された。


 昨日、一日かけて仕上げた企画書を突き返された俺は、顔に憂鬱を貼りつけたまま、自席に戻った。


 口の中がカラカラになった月羽課長が、喉を潤すために席を離れるのが見えた。奴が視界から消えるまで待ってから、俺は重い息を吐いた。


「くっそー、朝から最悪だ」呻きながら椅子の背もたれに寄り掛かり、固まった背筋を伸ばした。「ちょっと人から拝借した企画書を直し間違えただけで、あそこまでボロクソに言うかね? 意味わかんねえ。つーか、そいつだって誰かの写してるんだろうし。どうでもいいじゃん」


 愚痴は隣席まで聞こえていたかもしれない。だが、かまうもんか。俺はそのまま頭を後ろに反らした。天井の照明が等間隔に並んでいるのが見える。どれも真っ白で眩しい光を放ち、俺や同僚の頭を照らしていた。


 俺はいつか見た映画の主人公がやっていたみたいに、親指を立てて額の前に差し出した。指を動かして光を遮ったり、また戻したりする。


「くっそまぶしい」終電続きで寝不足の俺には、人工の明かりが特にきつく感じた。


 背もたれごと机に戻ってくると、ノートパソコンの画面の端でタスクバーの通知欄が小さく点滅しているのに気づいた。マウスカーソルでそのエリアをクリックしてみる。柔らかいものを突いたようなアニメーションがあり、吹き出しが浮かびあがった。


?『ご苦労さん(ドクロマーク)』


 メッセージの左横には、整った髪型の優男の姿が写し出されていた。その写真の主を、俺は入社式の時から知っていた。同僚のひとり三枝さえぐさだった。俺はやけくそ気味にキーボードをガチャガチャ叩いた。まもなく三枝の吹き出しのすぐ下に、俺の顔写真入りのメッセージが追加された。


俺『ああもおおお(怒りマークの連続)』


三枝『まーそー腐るなよ』


俺『オメーもたまには叱られる側に来い!』


三枝『それは無理な相談やわ』


俺『薄情なやつ』


三枝『お前が悪いとこもあるだろ? 俺は武智みたいに、上司に突っ込まれる隙を与えないんだよ。お前も見習ったら?』


俺『……そんなの無理。俺は叱られるの嫌いだけど、自分を変えるなんてダサいこと死んでもできねえ』


三枝『じゃーしかたなくね?』


俺『第一おりゃあ悪くないんだ! あの月ハゲがさぁ』


三枝『おい、そこまでにしとけよ。端末のログ、インフラチームに掘り起こされるぞ!』


 三枝の指摘はいつも冷静で正確で事実だった。そのことに俺はますます腹が立っていた。


 苛立ちをこめて返事を書こうとすると、三枝に先手を打たれた。


三枝『仕事しろよ。続きは【ジャンボ】で』


 そのメッセージを最後に、三枝の顔の下にある在籍状態を示す丸いマークが「退席中」のオレンジ色に変わった。




「あいつ、いつかぶっ飛ばす!」俺はそう叫ぶと、こんがりと焼かれたハンバーグの中心に勢いよくフォークを突き立てた。


 会社から角三つ曲がった路地にあるレストラン【ジャンボ】。ランチタイムの店内は周囲のビルからやって来る大人たちで混雑していた。


「出た、武智の『叶わない願い』シリーズ。月ハゲがそのリストに入るの何回目?」


 俺と三枝、そして同じ建物だが別の部署にいる同僚ふたりの合わせて四人は、いつものように、レストランの壁際にあるテーブルのひとつに収まっていた。


 ジャンボは俺が入社してからずっと、欠かさず昼に通っている店だった。ランチが最高に旨いのと居心地の良さが決め手だ。同期たちと気兼ねなく会話できる空気がある。社食では悪口の対象に近すぎて気が抜けないだろう? まあ、この店にも我が社の社員がいないわけじゃあないけれど。


 そして今日も、店一番のおすすめランチ『ジャンボ・ハバリ!』のグレイビーソースの香りを嗅ぎながら、俺たちはたわいない社内の愚痴やゴシップに花を咲かせていた。


「パワハラが服着て歩いてるってのはアイツの事だ。今日は言うに事欠いて『お前には文章の才能がない』とか言いやがった!」俺は再びグサグサと肉をあやめ始めた。

「勿体ない。ハンバーグがミンチに戻る前に食えよ」三枝がトマトを器にしたサラダを上品に食べながら、茶化す。「あー、そういやお前、趣味で変な小説書いてたっけ? 作家になるとか吠えてたよーな」

「変って言うな。大真面目だ。異世界で最弱だったモンスターが美少女に転生して世界を救う話だって、前に言ったろ」

「『処女作がどっかの賞にかすった!』って大騒ぎしてたもんな」

「そのとおり! 『国語が苦手』? ざけんなっつーの。作家の卵様に対して言う台詞じゃねーぞっ」

「無精卵たけどな(笑)」

「……今度はお前を刺してやろうか?」


 仲間たちとの他愛もない会話がすごく気晴らしになる。この時間があるから、月ハゲに文句を言われ続けても、へこたれずにやっていけるんだと俺は信じていた。まあ、聞く一方の仲間にはいつも申し訳なく思っているよ。


 今日の昼時間も俺は飯粒と文句を撒き散らし、お腹を満足で満たした。おかげでようやく気分が落ち着いてきた。


 伸びをした俺は背もたれに寄りかかると、眠い目で客の減ってきた店内を何の気なしに見渡した。


「あれ……」にじんだ視界の奥で、やけに明るく輝いているものを見た。最初は店の照明の瞬きだと思ったが違った。


 ジャンボの窓際の席の奥、目立たない端っこに二人がけのテーブルがある。そこに一人の女性が座っていた。光は彼女の手もとあたりで不規則に明滅を繰り返していた。


 毎日ここに来ているが、記憶をたどっても初めて見る顔だ。


「トイレ」俺は何気なく席を立つと、そのまま光に吸い寄せられるように歩き出した。便所とは真逆の方向だってことは、仲間の誰も突っ込まなかった。 


 窓の方に近づくにつれ、姿がどんどんハッキリとしてくる。俺はいつのまにか眠気を忘れていた。


 そのひとは、最初から俺たちと違う世界の人だった。

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