四 僕は不在
――存在することの証明に比べて、存在しないことの証明は軽視されがちである。しかし、考えてもみてほしい。人類滅亡の要因が、初めから人類が存在しなかったことであったとしたら……。良くも悪くも、存在しないことは、非常に重要な意味を持つのである。(第百二回現代哲学総会会報『非存在について』冒頭より)
僕の不在が確定したのは、随分と前の話になる。その頃僕はいるのかいないのか、当の本人にさえはっきりとはわからないほど曖昧な状態に陥っていたから、「僕不在論」と銘打たれたその論文の発表には少なからず心を引かれた記憶がある。いようがいまいがどちらでもいい。重要なのは、どちらかに確定することだったのだ。
こんなことを言うと、姉は決まって
「でもあんたはいるじゃない」
と口にする。そういうことではないのだ。僕がここにいるかいないかではない。そもそもの僕が、存在するのか否か――僕はひょっとすると、はじめからいなかったのかもしれないのだ。こうして記している文章もまた、存在しないのかもしれないのである。
「独我論て知ってる? 自分以外の存在には疑いの余地があるという考え方」
姉はこくりと頷く。ポニーテールが、サイクロイド曲線を描いてふわりと揺れる。
「この発展系であり、現代哲学の終着点として唱えられたのが『僕他二元論』なんだ」
姉はふーん、とつまらなそうに相づちを打つと、「つまらない」といってそっぽを向いた。ポニーテールは、カージオイド曲線を描く。
僕はやれやれとため息をつくと、パソコンに向き直った。自室。本棚と机。姉はなぜか頻繁に僕の部屋に侵入しては本を漁る。今も漁っている。姉の探索能力は全くたいしたもので、時々僕の持っていないアラビア語か何かで書かれたポルノ小説を発見したりする。けれどもここで重要なのはポルノ小説ではなく、あくまで彼女が姉であるという点だ。実を言うと、姉はポルノ小説なのである。
僕はブラウザを起動し、論文のデジタルアーカイブに入った。『僕不在論』は、無数に陳列された数値の一つとして、変わることなくそこにある。僕の実在についての研究は、どちらかといえばマイナーな部類に属するらしい。それでも「僕不在論」は一時期ニュースになったくらいなのだ。この論文がいかに凄まじいものか、想像はつくだろう。
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ディスプレイが青く染まる。そこに白い枠組みが現れ、間髪入れず文字がそれを覆い尽くした。文字はくねくねと動き回り、ともすれば画面からはみ出してしまいそうになる。
僕は黙って目を通した。もう、何度目だろうか。そろそろ暗記してしまってもおかしくはないのだけれど、読む内容はいつだって新しい。自ら増殖、論理の穴を修復し、更新を繰り返す生物のような文章――それが、僕の存在について言及した中で最高峰の論文『僕不在論』なのである。
「――ここでいう「僕」が、果たして一般名詞なのか固有名詞なのか、固有名詞だとしてもそれが一つの人格であるのか複数の人格の総称であるのかは定かではない。これを定めることは必ずしも僕の全貌を明らかにすることとイコールではないし、余計な定義を加えてしまうことで出力される結果にノイズが混じってしまうことも考えられる。――」
論文の序章はお決まりの文句から始まり、徐々に見覚えのないものへと変化していく。その変化の過程において、僕は僕ではなくなり時々僕へと回帰する。その不規則な規則性の中にこそ僕の本質が隠されているのかもしれず、あるいは隠されてなどいないのかもしれない。そもそも本質など存在しないのだ。この論文は、僕の非実在を証明しているのだから。
僕は読み進めていく。読み進めていくことで論文は変化し、増殖し、あっという間に文意が通らなくなる。その都度僕は、最初からやり直さなければならない。
最新鋭の量子コンピュータによって定人格aと置かれた僕は、観測され、解析され、こうして論文に変換される。読まれることで論文は観測者を記録し、それに応じて変質する。読まれることで進化する文章。そこに著者はおらず、また意味も存在しない。それは入力に応じて変化を出力するマシンであり、何らかの情報を伝達しようとするそこら辺の論文とは一線を画している。
つまりは、そういうことなのである。計算によってのみ観測される僕。原理的に観測不可能な僕。僕はここにいるし、いないともいえる。それを、この論文は否定している。
「――なぜなら、僕はここにいないからである」
論文の最後に、僕はいつだってそう記している。僕は、ここにはいないのだから。
姉の子供が八歳になる頃、僕はようやく循環する世界の構造を一周した。僕は僕を裏返したのだ。これは僕にとっての大きな一歩であるような気がするし、かといって何が変わったのかと問われれば、結局以前の状態に戻っただけであるともいえる。僕は進歩したが、同時に退化したのだ。姉はそんな考察を「うるさい」と一蹴して、僕に子供を押しつけた。危うく子供までを内包しようとする僕の内宇宙ないし外宇宙を見て、僕は随分と留め金が緩くなったものだと苦笑せざるを得ない。
子供はそんな僕の内宇宙あるいは外宇宙を小さな手でもてあそび、ケタケタと笑う。それを眺めながら、僕はなんとなしに「ああ、きっとこの子もまた僕なのだ」と実感した。何のことはない。この子もまた、僕であったというだけの話である。
「新しい本棚がほしいわ」
姉はいう。二人で過ごすにはいささか広すぎる一軒家には、既に本棚がこれでもかというほど詰め込まれていたのだけれど、本棚が増殖するよりもずっと早いペースで、本もまた増殖していく。床から天井まで四方の壁に隙間なく設置された本棚たちを眺めていると、僕は時折「バベルの図書館」という古い小説のことを思い出した。
この家に住んでいるのは当然ながら姉と子供と姉の弟――つまり僕で、では子供の父親つまり姉の相手はどこへ行ったのかと聞かれても、残念ながら僕はそれを知る立場にない。何も全ての子供に父親が必要なわけではあるまいと思う。桃から生まれることだってあるわけだから。無論、その桃こそが父親であるという可能性も、なくはないのだけれど。
そういうわけで、僕たちは本棚を購入した。本棚は収まるべきところに収まると、本を食い、生み出し始める。一冊から二冊を生み、二冊から三冊を生む。当然元となる一冊に比べてその内容は薄くなり、代わりにやたらと面倒くさい言い回しが増える。読めたものではない。読めたものではないのだが、読めないわけでもない。こういった生産活動はいわば劣化コピーの量産である訳なのだが、劣化コピーが果たして本当に劣化しているのかと問われるとこれはちょっと難しい問題になってしまう。劣化することでより完成される何かがあったとしても、僕は決して驚かないだろうから。だから、僕は彼ら彼女らの生産活動を温かい目で見守ってやる。そうして、何かが生まれるのを密かに待ち望んでいる訳なのだ。
「邪魔」
姉が掃除を始めると、僕と姉の子供は外へ追い出される。子供の面倒を見るのは僕の役目であり、そういうとき僕は黙って「僕不在論」を放ってやる。子供は黙ってそれを読み始め、決して読み終わることがない。そうして読み終わらないまましばらく時間が過ぎると、子供はおもむろに論文から目を離し、大体このようなことをいうのだ。
「最初から僕がいないのであれば、結局、この論文も存在しないのではありませんか?」
子供であるからして、実際のところはもう少し幼稚ないい方である。「はなmるあhs」というような。
僕が大げさに頷いてやると、子供はうれしそうに微笑み、スタスタと歩き去る。僕はただ一人残されて、何もなくなる。僕はいないのである。
こんな毎日だから、僕は子供とあまり話すことがない。名前すら知らない。便宜上「子供」と呼んではいるが、あるいは子供ではないのかもしれず、かといって子供でないとも言い切れない。一番確実なのは「僕」であるが、僕は既に存在しない。
そんな毎日の中で、子供はすくすくと成長していった。
僕が子供とまともに話すことができたのは、それからしばらくして――キャシーと名付けたうちの本棚が人格を持つようになってからのことである。
駅前の喫茶店で、僕は子供と向き合っている。
そうして、謎かけを始める。
本棚がいかにして人格を獲得したか――長い間忘れていた不確かな記憶を総動員して、子供に向かって話している――。
そうして僕は、循環するこの宇宙を、あるいはこの途方もなく巨大な円環を旅し続けている。
僕不在論 亜済公 @hiro1205
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