自然公園

赤井夏

自然公園

 私はときおり、電車に乗って隣町の自然公園に訪れます。

 それは駅から少し離れたところに寝転ぶ山まるまる一つを公園としていているのですが、その大部分はサンクチュアリなので、私のような一般の来訪者が入れる面積はごくわずかしかありません。

 それでも山は山です。馴染みのコースを一周すれば優に1時間は越えますし、私自身はいまだ実践したことがありませんが、公園の隅から隅まで探索すれば、きっと半日は潰せることでしょう。

 というふうな具合の自然公園に赴くときは、決まってこのうえない孤独を感じたときです。公園の出入り口は数多くありますが、私はきまって一番目立たぬひっそりとしたコースから散歩を始めるのです。

 小高い木々の合間を縫うように設けられた木漏れ日差す道を歩んでいくと、やがて急な丸太階段が姿を見せます。足を目一杯上げないと登れないくらい高いくせに、奥行きがそれほどないので、ちょうどいい準備運動になります。

 ほど好い息切れをつきながら階段を登りきると、コンクリートに固められた緑道にたどり着きます。この緑道以外はほとんどが、立ち入り禁止のサンクチュアリとなっています。

 だからといって、決して通路としての機能だけに邁進するわけではなく、春には鮮やかな花を咲かせ、夏には生い茂った葉が鋭い日差しから守ってくれ、秋には一年の思い出と後悔を沸き立たせてくれる桜並木が見事なものですし、フェンス越しに覗く池に沈見つつある枯木立は、まるでアマゾンのマングローブを連想させる趣があります。

 その他にもすっかり寂れてしまったニュータウンを一望す展望広場や、団地脇の道路に面した公園らしく滑り台や砂場などの遊具のあるDコース入り口(私が勝手にそう名付けているだけです )や、のびのびとした広大な芝生スペースなど、実に多岐に渡った公園らしい公園なのです。

 つまり、その日の気分によって選択肢がいくつもあるということです。私はそんな懐深いこの公園が大好きです。

 そんな私はとうとう資本主義という化け物に食われたのか、もしくはこの世の業あるいは愚かな人類の父母の原罪を背負った結果なのか、代わり映えのない毎日がもたらした同じような憂鬱に苛まれ、あんなに緑に輝く公園がすっかり色褪せてしまったのが残念でなりません。

 それでも、もはや精神安定剤かそこらの作用しか持たなくなってしまった自然公園にわざわざ300円払っては、少しでも草木と戯れたいと思う私のこの気持ちは、きっと私が「そんなものに大金を使うなんてどうかしている」と蔑んでいる、キャバクラや風俗に金をつぎ込む醜い中年と大して変わらないのでしょう。

 自由や心地よさをかなぐり捨て、どうでもよい人間の視覚的幸福のためのシステムとして植えられた木々や草花は、同じように「生きる」という人類が600万年育んできた、根拠なき慣習のためにどうでもよい赤の他人に奉仕する彼女と同じようなものだと仮定するのは、きっと早急なのでしょう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自然公園 赤井夏 @bluenblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ