都市伝説「赤いドア」
岳石祭人
都市伝説「赤いドア」
………赤いドア。
それはこの世のすべてに絶望し、消えてしまいたいと強く願う者の前に現れる
別世界への扉。
他愛のない、子どものおとぎ話だ…………
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
男は逃げていた。
人を刺してしまった。多分死んだだろう。
殺すつもりなど無かった。ただ、脅して、金を奪おうとしただけだ。
営業の終了した深夜のパチンコ店、金勘定をして最後に出てきた店長を脅して、その日の売上金をいただく、ナイフはそのぽちゃぽちゃ太ったおっさんを脅しつけるために用意してきただけだ。それなのに……
店の横手の従業員出入り口は表の国道から丸見えだ、出てきたところをそのまま中に押し込んで、脅して、……まあ2、3発殴って抵抗できないようにして、売上金を入れたバッグなり袋なりを奪って出ていく、たったそれだけのはずだった。ところが。
店にはまだ従業員が残っていやがった、いや、営業終了後の清掃員か。店長が一人きりのはずだった。計画が狂った。一人若い学生風の奴はビビって動かなかったが、もう一人、何をとち狂いやがったか中年のおっさんが奇声を発して飛びついて来やがった。
……俺は、金が欲しかっただけなんだ………。
野郎、気色悪く脚まで絡めて俺にしがみついて、執拗に俺の手からナイフを奪おうとしやがった。俺はもたもたしている場合じゃなく、つい勢いで…………。
俺はようやくおっさんを振り払い、逃げることが出来た。そう、俺は逃げるつもりだったんだ、計画が狂った時点で。なのに……、くそっ、あの親爺、やたら必死の形相でしがみつきやがって、なんだってんだ?たかが清掃員だろうが?わけ分かんねえよ。おかげで……、刺しちまったじゃねえか、くそお……、くそお……、俺のせいじゃねえぞ? あの親爺が悪いんだ、勘違いした正義の味方か何か知らねえが、くそお……………。
俺は表の国道ではなく裏の住宅地に走り込んだ。車もバイクもスクーターも自転車もありゃしねえ、ひたすら走るだけだ。後ろでパトカーのけたたましいサイレンが聞こえてきた。俺は必至で息せき切って路地を走り続けた。本当なら金の詰まった皮バッグを抱えて小躍りする気分でランニングしていただろうに、今は必死に、ハンターから逃げるキツネかバンビの気分だ。ちきしょう、手が震えやがる、か弱い女の子みたいによ、情けねえ、笑えもしねえぜ。
がむしゃらに走り続け、警察の手が回るまでにどれだけ遠くに逃げ切れるかが勝負だと思った。
狭い小路を抜け、住宅に四方を囲まれた小さな畑に出た。その時だ、思いがけず前方を左から右へ大きくサイレンの音が駆け抜けた。出し抜けに大きく聞こえたと思ったら、急速に小さくなって、しかし消えずにぐるーっと大きく旋回して……逃げてきた背後へ回り込んでいく……。どうやらこの先に大通りがあるようだ。
俺は思わずそこに立ち往生してしまった。いや、パトカーは行ってしまったはずだが、この先を抜けたところに別のヤツが待機して待ちかまえているような臆病な想像をして、全身にびっしょり汗が噴き出し、気持ち悪くはいずっていく。
思わず自首しようかと考えたが、「人殺し」という恐怖がブルルッと体を奮い立たせた。冗談じゃねえ、それに関しちゃ俺は無実だ、だが、死人に口無し、誰が信じる? 逃げろ、この場はなんとしても逃げ切るんだ!
けたたましいサイレンに起こされたのか周りの家の窓に灯りがつきだした。ガラガラッと窓の開く音がして、玄関の戸の開く音がして、人の話し声が聞こえた。俺は、ともかく畑を回って反対側に走った。その小路に入っていこうとすると、向こうからバタバタと数人の走ってくる足音が聞こえた。俺は全身に鳥肌が立ち、反対に走った。家々の向こうの空が赤く明滅している。俺は袋小路に追いつめられ、泣きたくなった。ちくしょう、ちくしょう、こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ…………。
他に行く道もなく、ヤケになって赤い空の大通りに抜けるだろう角の小路の入り口目指して走っていくと、その小路から女が一人出てきて、俺はギョッと立ち止まった。電柱の照明に照らし出されると、赤いワンピースの、若い女だった。俺はまだ街灯の明かりから外れた暗がりに立っていた。女は俺に気づくことなく、小路から続くブロック塀にある赤いドアを開き、入っていった。家の裏に出る勝手口だろう、玄関はこちら側には見当たらない。俺は、考えを変えた。逃げ回っても、どうやら警察の手配は回ってしまったようだ、ならば、この女の家に乗り込んで、女を人質に、警戒が解かれるまで居座ってやる、一戸建てだから家族がいるかも知れないが、若い女を人質にすれば言うことを聞かせられるだろう。
俺は、女が玄関に入り鍵を掛けてしまわない内に追いつこうと全力でダッシュし、ブロック塀の赤いドアを開け、飛び込んだ。
勢い込んで飛び込んだ俺は、はたと、そこに立ち尽くした。
ここは、どこなんだ?
夜目にもなんだか懐かしい感じのする、狭い道路のカーブする、こぢんまりした古い商店街のようだ。遅い時間で灯りのついている店は一軒もなく、薄暗い街灯だけが続いている。
パトカーなんて、影も形もない。警官も、誰もいない。
俺は、すっかりトワイライトゾーンにでも紛れ込んだような気がした。深夜放送の海外のファンタジーSFのテレビドラマで見たような、いわゆる平行世界の…誰もいない町だ。
まさかなと思いつつ出てきたドアを振り返ると、それはシャッターの下りた商店と商店の間の隙間をふさぐ木戸で、開けてみても壁に挟まれた狭い隙間があるだけで、その奥にも畑のぽっかりした空間などありそうもなかった。
俺はまったくキツネにつままれた気分で、ぶらぶら商店街を歩き、金網のくずかごから新聞紙を拾い上げ、児童公園を見つけると、タコの滑り台の中で新聞紙にくるまって、震えながら浅い睡眠をとった。
寒さに震えながら、犬の鳴き声で目を覚まし、自分の状況を思い出すと、ハッと起きあがり、誰かに見とがめられないように辺りを見回して素早く這い出すと、何事もなかったように歩き出した。
犬の散歩をする老人と行き交った。どうやらここは現実の世界らしい。
電柱の町名を見ると、パチンコ店のある町とは別の名前だった。まだ白い空気の中歩きながら、駅に行き着いた。まだ始発も通っていない時間、駅員が表を掃き掃除していた。そこに立つ町の案内板を見て、どうやらここが現場から5、6キロも離れた所らしいと分かった。
……一瞬で、テレポーテーションしたっていうのか?
……マンガやゲームじゃあるまいし、
しかし現実に………
俺は、この奇跡を喜んでいいのだと、笑いたい気分になった。
どこの神様だかワープポイントだか知らないが、捨てる神あれば拾う神ありだ、ありがてえ。
しかし、俺の現実は何も変わらなかった。
取りあえず警察の手からは逃れたものの、帰る家もなく、またどこかに強盗に入らなければならない状況は何も変わっちゃいない。
こちとら生きるか死ぬかのギリギリの状態なんだ、躊躇なんかしてる余裕はねえ、
とは言うものの……
人を刺したという現実は生々しく、重かった。怖くて、次の犯行をなかなか思い切れなかった。今夜にも、どこか襲ってある程度の金を手に入れなければ、本当に、飢え死にしてしまう。俺にとっちゃあ、生存のための正当防衛なのだ。他に方法があるなら教えてくれってんだ、ちきしょうめ。
刺した。死んだ。人を殺してしまった。
その事実に俺は怯え、極悪犯罪者であることにもはやなんの言い訳も立たないと思い込んでいた。
しかし、電光掲示板のニュースによると、どうやら俺が刺したおっさんは一命を取り留めたらしい。
助かった……………、と、全身から力が抜けきっていくような安堵感を覚えた。
しかしそうして冷静に振り返ってみると、あのおっさんの行動が腹立たしくてならなかった。あいつが余計なことさえしなければ、俺は刃物なんか実際に使うことはなかったのだ。おかげで俺は強盗致傷だ。強盗致死こそ免れたが、それでもただのちんぴらパチンコ強盗とは全然違うだろう。捕まって(当然)有罪になったら、刑期はどれくらいなのだろう? 刑務所の生活というのはどういうものなのだろう? 本当に人を殺した恐ろしい男どもがうようよいるのだろうか? リンチだとか、男同士のレイプだとか、身の毛のよだつ話をいくつも聞いたぞ…………ありゃあ外国のテレビドラマか?、それにしたって、俺は……、刑務所なんかに入れられるのは怖くて堪らない………、きっと、日本の刑務所なんて、物凄く厳しいに決まっている…………。
俺に与えられた奇跡の意味はなんなのだろう?
もう馬鹿なことは考えずに厳しくともまともな働き口にしがみついてまっとうな暮らしをしろと言うことか? やっていたさ、何年も、ずっと。で?、なんだったって言うんだよ? ただ、惨めに、生きている、ってだけじゃねえか? それももう……、嫌だ。
自首しろってことか? 幸いおっさんは生きていた。当人の証言があれば、俺が無理やり刺したんじゃないって証明できるだろう? ………そんなに甘くないだろうか? 俺は凶悪強盗犯として、徹底的に取り調べられて、虐められて、最低最悪のクズとして裁かれるのだ。
……いや、いや、このチャンスを自分からどぶに捨てるようなことはするな。俺は、いったい、どうしたいんだ? どうなりたい? どういう道がある? 考えろ、それも、時間はあんまりないぞ?……………
※ ※ ※ ※ ※
夜になった。
昼間警官の姿を見かけると俺は逃げた。俺は自首する決心を固められないまま、これまで同様無為に時だけ過ごし、こうしてまた夜の町をさまよっている。今日一日食べたのはスーパーで買った菓子パンとおにぎり、おやつに我慢できずにカップラーメンを買ってサービスコーナーでお湯を入れて、俺と似たようなじいさんがぼんやり座っている横で麺をすすり、スープを飲み干した。近頃ふっと時間が飛ぶ感覚がある。午前なのか午後なのか迷ってしまうことがある。栄養失調で脳が半分死んでるんだろう。
お先真っ暗だ。夜だってえのにサングラス掛けて当たり前だが、昼間だって視界が暗い。俺はもう駄目なんだと思う。人生なんか、もう終わっていくのをただ眺めているしかない。
とぼとぼと幹線道路沿いに歩いた。対向車のライトが眩しく、サングラスでちょうどいい。俺は……意気地のない心で、お巡りに見つかって、追いかけ回されて、無様に捕まるのを待っているのかも知れない。自分で決めることが出来ず、人任せだ。自首して早く楽になれ、こんなのがいつまでも続くわけないぞ?、少しでもいい条件を賢く選択しろ。理性では分かっていても、どうしても思い切れない。それが俺という人間の失敗人生だ。
牛丼のチェーン店がやっていた。
オレンジ色の灯りが漏れる窓に、ゴクリと喉が鳴り、腹が震えるように鳴り、痛んだ。
ニュースを思い出す。俺と同じような奴に深夜強盗に入られたのが、同じチェーン店じゃなかったか?
近づいていくと、客は一人もおらず、店員が一人でカウンターの中、何か下準備の作業をやっていた。
驚いたことに、若い女だった。
時刻はもう深夜に掛かっている、強盗に狙われやすい牛丼チェーン店で、女が一人で店番をやっているものか?
近づいていくに従い、作業も終わったようで暇そうに突っ立つ女は、かなりの美人だった。
俺は、堪らずにドアを開け、店に入った。
「いらっしゃいませ。こんばんは」
女が愛想良くマニュアル通りの挨拶をする。俺は店内の監視カメラを気にしつつ、カウンターの席に着き、メニューを見た。手持ちの金で食える物なんて決まっていたが、俺はうつむきメニューを見ながら、パチンコ店に強盗に入る前と同じ激しい胸の鼓動を感じていた。ありがたいことにここは後払いだ。食って……、逃げよう……、食い逃げだ。逃げ切れれば良し、俺にまだ運が味方してるってことだ、捕まるなら……それもまた良し、食い逃げで捕まって、パチンコ店強盗で自首しよう、食い逃げは捕まるためにわざとしたってことで。
腹を決め、俺は今まで一度も注文したことない一番豪勢なセットメニューを注文した。
「ありがとうございます」
女店員は嬉しそうな明るい声で注文を繰り返し、「少々お待ちください」とお辞儀して奥へ入っていった。手の込んだ物だから時間が掛かるだろうが……待つ間俺はじっとり手のひらに汗をかいた。まさかと思うが、奥に入った女が110番通報して俺のことを…………
「お待たせいたしました」
プレートに載って注文の品が湯気を立てながら目の前に置かれ、更に入りきらない汁碗が運ばれてきた。
「ごゆっくりお召し上がりください」
女は笑顔でお辞儀し、カウンターの奥に下がり、ニコニコと、立っている。
俺は、割り箸を取り、食い始めた。
美味かった。たかが牛丼チェーン店の飯が、こんなに美味い物とは知らなかった。
俺はあまりの美味さに不覚にも涙をこぼしそうになりながら空腹で痛む腹にかっ込んでいった。
しかし食っている間も俺は疑って、観察していた。本当にこの店はこの女店員一人きりなのか? 俺がこうして食っている間に通報を受けたパトカーが、サイレンもなしに、ひっそりと急行しているのではないか?と。
女は正面を向いて、やっぱり退屈そうに、俺の視線を感じて顔を向けると、二人切りの気まずさに困ったような愛想笑いを浮かべた。年は25、6くらいだろうか? 俺と同じフリーターか? いや、こんな深夜に女一人で店をやってるんだから正社員か? どっちにしても、俺の人生には縁のない一級の美人だ。
食い終わり、湯飲みのお茶をすすりながら、俺は胸をドキドキさせてそのタイミングを計った。女は一人だ、店を出るのは、たやすい。
俺は、茶を飲み終え、立ち上がった。女が当然お会計だろうと、俺の言葉を待つ。俺は、女の愛想笑いを裏切り、出口へ…………
自動ドアが開き、ギョッと振り向いた俺は、凝然と目を剥いた。
警官が二人、入ってきた。
「いらっしゃいませ」の言葉に敬礼を切り、
「パトロール中です。お店はあなた一人でやってるんですか?」
「はい。あいにく他は皆都合が付かないもので、わたし一人で」
「いけませんね。今深夜店員が一人のコンビニや外食店を狙った強盗が多発してます。女性が一人というのはいけませんね」
「はあ…、申し訳ありません」
「しょうがないですねえ、十分気をつけていただくとして、何か変わったようなことは…………」
俺は警官のじっとりした視線を感じつつ、焦りまくった。どうする? どっちにするんだ?
「おかんじょ…」
俺は財布を出すふりで、ジャンパーの内側を探り………
刑事ドラマのようにカウンターを乗り越え、あっと驚く顔をする女の首に腕を回し、背後に回ると、
「動くなあっ!!」
大声でわめき、女の首に当てたナイフで警官たちを牽制した。
「きさまあ……」
警官たちが怒りの表情でじりじり動くのを、
「動くなって言ってんだろうが、てめ、女刺すぞおっ!!」
裏返った声でわめき散らした。それで警察官も危険と判断して動くのをやめた。
「落ち着け。冷静になれ。この状況で、逃げられると思うのか?」
説得を試みる警察官を、俺はあざ笑った。
「うるっせえんだよ!、どうせ俺はもうおしまいなんだよお!、もう刺しちまってんだよお、パチンコで男をよお!!」
警察官の顔に驚きが走った。
「それじゃあおまえ、昨日のパチンコ店強盗犯か?」
俺はカラカラ笑ってやった。
「そうだよお、良かったなあ?お手柄だぜ? でもよお、こっちも必死なんだ、分かっただろう?」
俺はぐいと女を突きだし、ナイフを振って見せた。警官の驚く顔が面白くて笑っちまった。可笑しくて、自分がなんだってこんなことやってんのか?まるっきりコメディー映画の間抜け野郎みたいに思った。
「待てっ! 捨て鉢になるな! …おまえの刺した人は幸い命は取り留めた。おまえはまだ人を殺してはいないんだ! だから、な? 落ち着け。落ち着いて、考えろ、どうするのが一番自分のためか?、よおく、考えてみろ?」
警官たちは俺に時間を与えるように両手を下げて力を抜いた姿勢で見守るようにした。俺は…………、迷った…………
「死ぬわよ」
「………え?」
どうせ助けてとか許してとか言ったんだろうと思った俺はしばらくしてから女に問い直した。
「なんだって?」
「死ぬわよ、あんたが刺した男。今は幸い命をつなぎ止めたみたいだけど、すぐに感染症で臓器が駄目になって、2、3日中には死ぬわよ」
「なんでそんなことが分かる?」
「分かるのよ。わたし、病院のことは詳しいの」
「でたらめ言うな!」
「なんで? 普通なら逆のこと言うでしょう?きっと助かるからヤケにならないで、って」
ふふっと女は笑ったようだった。
「なんなんだ、てめえ? じゃあなんでそんなこと言うんだよ?……」
「クズ野郎」
女は先ほどまでの愛想笑いとはまったく違う………いや、愛想は愛想で、どうせ俺のことなんか薄汚れたゴミ野郎と思っていたんだろう……、馬鹿にしきった声で言った。
「そうよね? あなた、刺すつもりなんか全然なかったのよね? ナイフなんて、ただの脅しの道具で? 今だってそう。ほら、手も脚もガクガク震えている。ああ、震える手でうっかりわたしの喉に傷つけてしまわないよう気をつけてよね?」
女の声には怯えなどひとかけらもなく、どうせ何もできない俺を心から馬鹿にしきっていた。
俺は、怒りを感じた。
「なめんじゃねえぞ、ねえちゃん! おまえなんかに俺の何が分かるってんだ?」
「分かんないわよ、バーカ。あんたみたいなクズの気持ちなんてね」
「てっめえ〜〜……」
腕の筋肉がギリギリ締まり、手がブルブル震えた。俺の腕に顎を反らされ、喉にナイフの刃を当てられ、女はその姿勢に怒っているように言った。
「ほら、危ない。だから気をつけろって言ってるんじゃない、クズ」
「なんなんだよ、てめえ? そんなに死にてえのかよ?」
女がゾッとする冷たい声で言った。
「そうよ。死にたかったのよ、あの男は。あいつもあんたと同じクズ。この世の、負け犬よ」
死にたかった……………
そうだったのか、あの男、わざと俺に刺されるようし向けたのか…………
それじゃあ、俺は……
「まんまと罠にはめられたってわけ。ご愁傷様。あの男は死ぬ。あんたは殺人犯。一生惨めな獄中生活。ふっふっふっふっふっ、良かったわね?これで一生ご飯の心配しなくて済むわよ?」
女の馬鹿にしきった笑いに俺の神経がぶち切れた。
女が、体をよじって振り向いた。顔がくっ付きそうで俺の方が思わず身を退いてしまった。女は男をうっとりさせる甘酸っぱい匂いをさせて言った。
「いつまでも生き恥さらして、安穏と暮らしてなさい、負け犬君」
ハッと、頭にひらめいた。こいつ!、そうだこの女、昨日、赤いドアに入っていった、赤いワンピースの女だ!
俺は、何もかもこの女に踊らされているように感じた。
「うわあああああっ」
俺は、あの時俺に躍りかかってきた中年オヤジのようにわめき声を上げ、馬鹿にしきった笑いを浮かべる女の脇腹に、
ナイフを突き刺した。
鋭い切っ先が滑り込んでいき、なま暖かい感触に、俺は、
ざまあみろと、
愉悦に浸り、次の瞬間、
全身がゾッと冷たくなった。
何やってんだ、俺?
なんで女なんか刺してんだよ? 人質殺しちまってどうすんだよ?……
……殺して………、殺して……………
女が口から血の泡を吹きながら、笑った。
「人殺し」
「きさまあっ!!」
いきり立った警官たちが警棒を構えて突進してきた。物凄く怖い、鬼の形相で。
俺は、一瞬で、心が
泣いた。
違う、違う、刺すつもりなんてなかった。殺すつもりなんてなかった。ちきしょう、みんなして俺をはめやがって。陰謀だ。俺はこいつらに利用されただけなんだ。俺は、殺すつもりなんかなかったんだよお!!
嫌だ、
こんな人生、こんな終わり方、
俺はいったい、なんのために生きてきて、なんのために生まれてきたんだ?
こんなものなら、最初から無かった方が良かった!
目の前が赤く光り、スローモーションのように迫る警官たちの前に、
赤いドアが現れた。
ドアが開き、
赤い光の中で女が立っていた。赤いワンピースの女が。
俺は腕にぐったりもたれかかっている物を見た。
「ほら、死んだ」
俺の腕にもたれかかって、俺に刺されたのは、あの、昨日の男だった。
男の顔は土気色で、男は、屍となっていた。
「うわああ」
俺は男の死体を放り出した。握っていたナイフを放り出した。しかし手はべっとり血で濡れ、ありありと、人の皮膚と脂肪と肉を刺し貫いた感触が残っていた。
俺は顔をゆがめ、子どものように泣きじゃくった。
意地悪な女は、聖母のような笑みを浮かべ、俺に腕を開いた。
「いらっしゃい。痛くしないから。それどころか、今まで生きていてよかったって、今までの苦しみすべてにお釣りの来る、最高の快感を味わわせてあげるわ」
俺は女の誘いに、泣き笑いを浮かべ、差し出される腕の間に入っていき、ドアの内部の赤い光に包まれた。女のいい匂いがいっぱいにして、どくんどくんと、大きな肉の柔らかな律動に全身が包み込まれた。
女の言う通りだ。
生きててよかったと、俺は生涯初めて、心から思えた。
このまま消えていけるなら、俺は、幸せだ………………………
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
深夜の牛丼チェーン店で、一人きりの客がぽかんとした鈍い驚きを浮かべて、カウンターの向こうの自動ドアの入り口を眺めていた。
疲れたサラリーマンを絵に描いたような中年の客は、カウンターの中で面白くもなさそうな顔で突っ立っている若いアルバイトだろう男性店員に声を掛けた。
「あのさあ、今、そこの自動ドア、赤く光らなかった? そんで、入ってこようとしたサングラスの背の高いあんちゃんが…………」
アルバイト店員は、この酔っぱらい何言ってんだ?と怪訝な顔をしている。
「……ああ、いいよ、どうせ俺の目の錯覚だ。ハハハ…、近頃多くてね。ちょっと…、疲れが溜まっちゃってるかな?」
バイト店員は何も言わずに胡散臭そうな顔をしている。サラリーマンは、なんだよ、バーガー屋なら¥0でスマイルくれるのによおと、ちょっと不満に思いながら立ち上がった。
「お勘定」
「ありがとうございました」
注文票を受け取って慣れた手つきで会計をする。どうせ、一番安い並一丁きりだ。
小銭で支払い、レシートも受け取らずに出口に向かった。
「ありがとうございました」
なんの感情もこもらない声に送られて、サラリーマンはさっき赤く光ったように見えた自動ドアの前に立った。
あの兄ちゃん、このドアを通って…………
開いた自動ドアをくぐって、サラリーマンは夜の冷たい空気の中に出た。
んなわけねえか……。と、がっかりしながら思う。
あーあ…、うち帰りたくねえなあ……、ま、帰るうちがあるだけいいか………。
とぼとぼと車のライトの行き交う隣を歩きながら、若い連中が今噂になってるとか話していた都市伝説を思い出していた。
赤いドア………。
いいよなあ、そんな物が本当にありゃ。
俺も、どっかに連れてってほしいものだぜ…、と。
終わり
都市伝説「赤いドア」 岳石祭人 @take-stone
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