熱砂の風

神光寺かをり

漢人の孟高、弟を諭さんとして羌土を訪うの事

 天空は果てしなく広がる。

 まなこけそうなその青空の中に、かりの群れが飛んでいた。

 大地は果てしなく広がる。

 眼が乾涸ひからびそうなその赤土の上に、わずかばかりの草がしがみつくように生えていた。

 天と地の間を、乾いた空気が熱風となって流れている。


 西の最果てのきようとの境のぎりぎりの地である。

 行く手をさえぎ物質ものは何もない。

 人の暮らしの影すらもない。

 彼はそこにやってきた。


 あざなもうこう年齢よわいは二十。


 従者を二人ばかり連れている。いくばくか地位か富かがある家の出ではあるらしい。

 良く学を修めていることは、青白い顔に漂う一種の気品から見て取れる。


 ここは彼のような、よく言えば育ちの良い、悪く言えば弱々しげな若者が、足を踏み入れるべき土地では、とうていない。

 

 確かに、地図の上ではかんの領土だった。皇帝の威光が及んでいる筈の土地である。

 もっともそれは、漢の地図の上では、の話だ。きょう族の王は、ここよりも更に十里ほど東までが己の領地である、と主張する。

 主張は対立している。平行線を辿る言葉は交わることが無い。

 両者の意見が一致を見ることは永遠にない。

 だからこの辺りでは「国境を侵犯おかした」ことが原因の小競り合いが絶えたことがなかった。

 

 孟高は溜息を一つ漏らした。

 彼は文で身を立てたいと思っている。知識と知恵を持って朝廷に侍ることが、彼の人生の目標だった。

 剣を佩いている。装飾品として、だ。抜いたことは無い。武術はたしなみ以下の腕前に過ぎない。そもそも血を見ることはまっぴらだ。戦乱などとは関わりたくない。

 だから、このような危険地帯に踏み入りたくなどなかった。


『父上の願いでなかったなら……』


 孟高はもう一つ息を吐きだした。

 

 正午をはんときばかり過ぎた。やる気無く進む一行の目にゆらりと揺れる陽炎かげろうが見えた。

 痩せた大地を割って出たほんの僅かな水気が太陽の熱気受けて蒸発し、大気を揺らしている。

 そのゆらぎの中に、数個の人影が見える。

 しみ出た水がまだ蒸発せずに溜まっているらしいその傍らに、屈強な若者達が五・六人たむろしていた。

 飯を喰らっていた。

 食べる、の文字では足りない。酒を浴び、肉を鷲掴みにしてむさぼる姿を「喰らう」という言葉以外で表す事が、孟高にはできなかった。

 陽に灼けた肌、不可思議な結髪、漢の都市では見慣れない服装。

 逞しい馬を伴ったその一団は、紛れもなく羌の民であろう。

 孟高はたじろいだ。

 だが、その中に、見覚えのある影が混じっているのが、遠目にも見て取れる。おずおずとその影に近づき、呼び掛けた。


たくよ、えいよ」


 呼ばれた影が振り向いた。


「おう、何処ぞで聞いたような声だと思わば、我が兄上ではないか! この地の果てに何ぞ用がおありかな!?」


 割れ鐘の様な声が乾いた空気を引き裂く。

 声の主は、座の中心で人一倍呑み喰いしていた若い男だった。四角い顔に、人なつこげな大きな笑みがたたえられている。奇妙に愛らしい相貌かおをしていた。

 すっくと立ち上がると、まるで巨木のように見えた。背の高い大丈夫だいじょうふだ。腕にも胸にも隆とした筋肉をよろうている。顔かたちの幼さと体つきの立派さとが、かみ合わない。

 そのたくましいにくよろいからは、人を威圧するがまき散らされていた。

 これが十六・七の少年こどもであるとは誰も信じないであろう。それほどにすさまじいばかりのであった。気の弱い者ならば視線を浴びただけで気を失いかねない。全身に暴力的な強さが満ちている。

 実兄である孟高ですら、弟のがいに押された。思わず一歩下がる。それでも彼はなんとか正気のはんちゅうに踏み留まった。


「この地になど用はない。お前に用があるのだ」


 父の代理として、そして兄として、げんを保たねばならない。孟高は声を張った。


「ではこのしようの弟に、いかなるご用か?」


 この穏やかな言葉は、孟高がほとんど必死の思いで出した大声を凌駕した大音声で、乾いた空気を揺さぶっていた。

 孟高が「卓」といういみなや「えい」というで呼んだこの若い男は、口では兄に対して丁寧に返答をしたものの、暑さのためにみだしている襟を直そうとはしなかった。

 ただにこやかに笑っている。

 孟高は固唾を呑み込んだ。膝が震えた。


「お前は一体ここで何をしているのだ。暴れ者のお前が仕官してくれたと、涙を流して歓ばれた父上に便りの一つもよこさずに……」


 孟高がようやく絞り出した声は、言葉の終わりに行くにつれ細くなり、最後には消え入った。


「俺が字を書くのを苦手としているのは、父上もご存じだろう。勿論、兄上も。」


 卓は笑った。周囲に座っていた連中が笑いをかみ殺している。それつまり、彼らが漢の言葉を知っていると言うことに他ならない。

 そのことに孟高は気付かなかった。気付いている暇が無かった。


「父上は心配の余り、この兄を遣わしたのだ。ところが、きようこうの本陣にお前を訊ねれば、一ヶ月前に『巡視に行く』と言って陣を出たきり、知らせもないと言われる始末!」


 精一杯の厳しい口調で孟高が言うと、


「一ヶ月! そうか、もう一月ひとつきになるか。いやはや、月日のつのは早いものよ!!」


 卓は目を大きく見開いてわめいた。

 まるきり他人事のような、あるいは、むしろ楽しげですらある口ぶりだった。

 大人しい孟高もさすがに立腹した。更に声を荒げる。


「父上も私もお前の身を案じて居るのだぞ! ……父上は我ら兄弟に期待をかけておられる。お前にだって、こんな辺境のざつなどで終わって欲しくないのだ。父上はお前を見込んでいる」


 語尾に苦々しさが含まれていた。


 学問では弟に引けを取ることのないと自負する孟高だが、りよりよくでは到底かなわない。それ故、父親は跡継ぎである彼ではなく、弟に家名を上げる望みを掛けている。

 そのことが、孟高にはくちしかった。弟が愛されていることがねたましくてならなかった。己の体の細さが忌々いまいましくてならなかった。

 腹の中で渦巻くそねみが、語気を更に強めた。


「父上はお前の立身出世を望まれておられる! それをお前ときたら、与えられた役務を投げ出し、こんなばんぞくどもと遊ぶばかりで!」


 細い指先で弟の取り巻き達を指した。無礼な仕草である。男達の屈強な体が、僅かに動いた。


 それよりも早く、


「蛮族!? はっ!!」


 卓の日にけた顔が、ぬっと、兄の青白い顔にせまった。

 そう思ったのは孟高だけである。卓はその場から一歩も動いていない。

 孟高にだけ見えているしやくどういろをした巨大な顔は、怒っているようでもあり、わらっているようでもある。


 孟高の脚は、彼の脳がそうするように命ずる前に動いた。体が勝手に後ずさる。弟との距離が開いた。だがあの顔はまだ追いかけてくる。


「こいつらきようぞくぞくばんじんならば兄上などは何だと言うのだ!? 他人を蹴落として出世するために、学問とやらにすがりつく兄上等は、一体何だ!!」


 孟高は答えられなかった。答える間はなかった。

 卓は兄の返答を待っていない。彼は足元の友人に何か声をかけた。孟高の知らない言語だった。

 友人がうなずくのを見て取ると、卓は横目で兄をにらみ、


「兄上が羌・胡を蛮族と呼ぶならば、俺は役人・官吏を蛮族と呼ぼう!! 兄上がそのに学問で成ろうというのなら、俺はコレでと成ってやる!!」


 孟高の耳元で大気が鳴った。

 弓の弦が弾ける音と気付いたのは、後方で地面を叩く軽い音がしたときだった。

 振り向いた。十歩ばかり後方の大地の上で、一羽の雁が翼をばたつかせている。

 雁の胴には朱を塗ったが深々と突き刺さっていた。やじりは背へと突き抜けている。

 今一度振り返った孟高の鼻先に、弟の顔があった。

 笑顔だった。

 右手には、強弓が握られている。

 孟高は目を見開いて弟の顔を見た。……いや、見たのではない。ほんの一瞬も瞼を閉じること許されず見開かされた瞳のその中に、弟の姿が入り込んできているだけであった。


 卓は笑っていた。人懐こい笑顔だった。誰もが魅了される、愛される笑顔だった。


「兄上、父上によろしゅうお伝え下され。卓はごく真面目に働いておると。その内にてんがいの付いた馬車でお迎えに上がる、と!」


 呆然と立ち尽くす孟高の眼前を、熱い一陣の風が通り抜けた。

 は、繋いであった彼等の馬の、くらもない裸の背にまたがり、ごうしようを残して遥か西の地平の果てへと駆けて行った。


 立ち昇り、やがて消えて行くじんを、孟高はただ見送った。やがて乾ききったその唇から、なげきにも似た呟きが漏れ出た。


「確かに、確かには武によって身を立てるに違いない。だが、あの眼光は……あの逆巻く火炎は……」


 孟高の口元にも、弟のそれに似た笑みが浮かんでいた。

 

 これよりおよそ二十有余年の後――。

 とうてきもうこうの実弟・とうたくちゆうえいは、自身の言葉どおり武によって身を立て、それにより董家は栄華を極め尽くした。

 しかしその手段の程を、そしてその結果の如何いかんを、兄が見る事はなかった。

 

 史書にはただ、「董擢孟高は、若死にした」とのみ記されている。


【了】

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熱砂の風 神光寺かをり @syufutosousaku

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