6

 それから、少し経った頃の話だ。

 俺の悪癖は、高校生になってからも続いていた。騒ぐだけ騒いで、皆が思い思いの行動を取り始めたところで小さく身を引く。話の外側で、かといって完全に離れるでもなく。いかにも参加しているという顔をしながら、内心ではただただ行動を予測して。合っていては、またつまらないと嘆息する。

 ただ、唯一のめり込めるものができていた。それが台本───演劇である。予定調和しか起こらない現実を嫌った俺は、むしろ予定調和を行うそれに魅入られたのだ。ゴールは一つ。道筋も一つ。だが、その細部は役者たちに任せられる。台本から想像される人物像とは真逆の人間が演じてみたり、この役のために居るといっても過言でないほどぴったりとした役回りを配置してみたり。何が起こるかわかっているのに、それまでに何が起こるかわからない。そんな舞台に、俺は文字通り心を奪われてしまっていた。

 中学にも演劇部がある珍しい学校だったので、もちろん入部した。演劇が好きだと言ってもど素人だ、先輩に叱られたり励ましてもらったりしながら役を磨いていく。それさえ楽しくて、演じることがうまくなっていくのが嬉しくて。交友関係以外は、ほとんど問題のない生活だった。

 の、だが。

 ある日部活に行くと、見覚えのない男性が先輩たちと話していた。先輩たちもなんだか委縮しており、あまり仲が良くない…というより、よく知らないといった印象。……そういえば、今日は学校側がOBやOGを招待する日、だったか。それにしては、かなり昔の卒業生みたいだけど…?

 それからほどなくして、もう一人男性が入ってきた。その人なら先輩たちも知っていたらしく、お久しぶりです、なんて場の空気を緩めている。元からいた男性はいよいよ居場所が無くなるか…? なんて思ったとき、OBの先輩が彼を指し示した。

「すみません、遅れてしまって。みんな、紹介しよう。この人は俺の二個上の先輩…つまりは三年前の卒業生の、宇治野うじの秋良あきら先輩だ」

「ども、宇治野っス。面識は無いしここのOBでもないけど、まあすぐ出ていくんで! ちょっとだけ機材触らしといてくれな!」

 三年前の卒業生で、演劇部出身でもない…? 接点なんてほとんど無いように思えるが、どうしてここに…? それに機材? 俺が不思議がっているのに気付いたのか、元より説明するつもりだったのか。後者のような気もしたが、宇治野先輩とやらは口を開いた。

「いや、俺は昔どこの部活にも所属してなかったんだよ。その代わり、助っ人みたいな感じで色んな部活に出入りしててなー。もちろん演劇部にも来たことがある、裏方専門だったがな。んでその時、ついでに呼んだ知り合いが機材のボロさに愕然としてさ。むしろここまで来ると博物館に展示したい、それまで壊すわけにはいかないとか言い出して、年に一度メンテナンスに来るんだよ」

 ただあいつ一人だと演劇部に入れないから、毎年俺も駆り出されるってわけ、なんて。そういえば確かに予算が無いとかでうちの高校の設備はかなり古いが、そのレベルだったとは…。その人も演劇部所属ではなかったらしいが、OBはOB。学校側も無料でメンテナンスしてもらえると、許可を出しているのだろう。

 素性がわかって安心したのか、部内はまたいつもの雰囲気に戻ってきていた。宇治野先輩ももう特に話すことはないらしく、隅の方に移動している。邪魔にならないよう練習でも見学する予定なのだろう。呆けていたが、俺もさっさと準備しないと…。いつも通りロッカーにカバンを入れようとしたところで、宇治野先輩は俺に気付いたようだった。

「あれ? 去年いなかったよな? 一年?」

「あ、はい。路悠です」

「こいつ演劇部期待の新人なんですよー! 台本覚えるのめちゃくちゃ早いし、中学からやってたみたいだから基礎はできてるし! その上ほら、悔しいけど顔がいい!」

「ちょ、先輩、そんなことないですって!」

 横から颯爽と肩を組まれ、謙遜しつつ目を逸らす。……期待の新人、か。ただ人より台本を覚えるのが得意で、ただ人よりスタートが早かったから基礎ができているだけ。三年前だったら俺だって人並みだった。それがたった「早かった」という理由だけで期待の新人認定を受けてしまうのだから、本当につまらない。

 俺はただ───。

「………ふーん? なあ、今日の練習って普通の練習だよな?」

「え? まあ、大会も近くないんで…」

「おっけ、ちょっとこいつ借りるわ」

「………………はい?」

 言うが否や、さっそくと言わんばかりに手首を掴まれ引き摺られていく。えっちょ、何が起きてんだ今…!? 身長の関係上合わない歩幅をなんとか合わせようとする度、階段や段差が邪魔をして思うように前さえ見れない。俺どこに連れてかれてる!? ていうか何!?

 道中、やっと引き摺っていることに気付いたらしい宇治野先輩は少し歩を緩めた。その隙に駆け寄り、ようやく落ち着いて隣を歩く。

「えっと、宇治野先輩? 俺を借りるって…?」

「ちょっと会わせたい奴がいてな、多分お前も合うと思うし」

「会わせたい人……?」

 それにお前、も? 前例があるような言い方に、にっと宇治野先輩は笑う。演劇関係の人とか? いや、それだったら部員全員とか、部室に連れてくるとかするはず。どうして俺だけ? というか、なんで俺だった? 聞きたいことが一気に出たせいで黙った俺に、宇治野先輩は満足そうにまた笑って歩いていく。

 この方向は……体育館……? 相変わらず腕は掴まれたまま進んでいくうち、なんとなく目的地がわかってきた。今は部活動の時間帯だから、運動部とかしかいないぞ? それともそっちのOB? とりあえずついていった方が賢明だろう、なんて。特に逆らわないままついていくと、彼は体育館には入らずその裏手を目指し始めた。

「まさか……」

 体育館の裏手なんて、出入り口は一つしかない。その出入り口が主に利用されるのは───。行き先を理解したからだろうか、宇治野先輩が歩きながら指を差す。体育館のステージの横、体育準備室の二階。普通に過ごしていれば絶対に入ることのない、逆に言えば俺たちなら入る場所。

 体育館放送室、別名「音響室」。放送部や演劇部しか入らないそこへ、宇治野先輩は扉を開けた。

みどりー、終わったかー?」

「まだー……もうちょっと待って………」

 暗幕で外の光が一切入らないその奥で、蛍光灯に照らされ誰かが機材に向かって何かをしている。見ればその周りには部品や工具などが散乱しており、後ろ姿しか見えない彼もマスクや保護メガネで覆われている。ゴム手袋まできっちりとしている辺り、専門職…? ただ、そこまで考えてふと思い出した。

 ───知り合いが機材のボロさに愕然としてさ。むしろここまで来ると博物館に展示したい、それまで壊すわけにはいかないとか言い出して、年に一度メンテナンスに来るんだよ───。

「宇治野先輩の知り合いの人、………ですか?」

「ああ。知り合いっつーか、腐れ縁みたいなもんだけど」

「ん? 誰かいるの?」

 こちらは一切振り向かないまま、彼はずっと手元を操作している。かなり細かい作業なのだろう。メンテナンスって、そこまでするんだ…。そのおかげで今も自分たちが学校で上演できているのだから、ありがたいことこの上ないのだけれど。

「そ! 俺の後輩! 演劇部でな、路悠っていうらしい」

「路悠稀惺です、どうも」

「へー、ってお前何部でも無かったじゃん。まあいいや……僕は緑です、そこのと腐れ縁やってます」

 そこのとはなんだそこのとは、なんて反論する宇治野先輩を軽く流し、緑と名乗った彼は黙々と作業を続けている。この人が、宇治野先輩の会わせたい人…? 完全に機械系の人っぽいし、どうして俺に? ちらりと宇治野先輩を見やると、丁度目が合った。そのまま首を傾げれば、そうだったと言わんばかりに口を開く。

「演劇部期待の新人なんだってさ、中学からやってたんだってよ」

「………今部活やる時間帯じゃない? 連れてきていいの?」

「ちゃんと許可は取ってるって、なあ路悠」

「え、あ、はい」

 そのやりとりで諸々察したらしく、色んなものを飲み込んだような溜め息を吐いていた。なんというか、表情豊かな人、だな…? 顔が見えないのに何を考えているかわかりやすいというか…。今まで身近にいなかったタイプだ。皆わかりやすくはあったけれど、理解しやすい、というタイプのわかりやすさだったから。

 彼が工具に手を伸ばす。少し考えるようにペンチの上で空をかいたあと、銅線も手に取った。

「演劇、中学からやってるんだっけ?」

「はい、演劇部がある学校だったので…」

「すごいね、一つのことを好きで在り続けるって。大変だったでしょう?」

「…………え?」

 一気に思考が固まる。何を言われたのか理解できず、褒められた気がするのに意味がわからない。大変? 一つのことを好きで在り続ける? えっと、俺は今何を言われたんだ…?

 もう一度宇治野先輩を見やっても、そっと目を逸らされるだけ。いや、え、会わせたいってこういうこと…? 言葉の意味がわからないということは、どう返答すればいいのかさえわからないということで。素直にそう言う? いやでも…? 迷っているうちも、彼の手は先ほどと同じように動いていて。

「自分のことをどうでもいい他人だと思う人間は六割で、好きだと思う人間は一割、って説知ってるかな」

「いや、……えっと、知らないです」

「うんじゃあ、その説には続きがあってさ。残りの三割はどういう人間かというと、何をしようと何を言おうと、取り付く島もないくらい自分を嫌う人間なんだよね」

「……………は、はあ」

「つまり、三割は君のことが大嫌いってわけだよ。何をしようと、演劇をしようとね。でも少なくとも三年間、そしてこれからの三年間、演劇を続けようと思ったんでしょ? 三割を退けて。それは、とてもすごいと思う」

「………………………………」

 何も言えないし、思考が真っ白に塗り潰されていくとはこのことだろうか。何を…何の話を、されているんだろう。三割は俺のことが嫌い? そんなことわかっている。すれ違う人全員に好かれようとなんて思っていないし、好かれるとも思っていない。ただ、それを常に考えながら行動するか普通…?

 論点がズレている? いや、ズレてはいない。だってこの人は最終的に、「路悠という人間はすごい」と言っているのだから。でもなんだろう、この違和感は。しかもこれを適切に表せる言葉も例えも、俺は知らない。

「運も実力のうち、って言うでしょう? 君はその言葉の通りだと思う。これは個人的な意見だけど…この言葉はね、運を実力で引き付けるんじゃなくて、実力が運によって引き付けられるから運も実力のうちに入る、って意味だと思うんだよ。ああ、お前の実力はただ運が良かっただけだ! 大したことないんだ! とか、そういうことじゃないよ? 運が引き付けた実力を自分のものにできるって、それがすごいって言いたいんだけど」

「…………………………え、と」

「「君の周りに演劇を否定する人はいなかった」、「いたとしても跳ね除けられる気質が君にあった」、「演劇を好きで在り続けられた」、「これからもそうだという意志を持っている」。これら全ての運と実力を、すごいね、って言いたいんだけど」

 馬鹿にされている…わけでは、無いのだろう。説明されてもいるし、何より口調が世間話のそれだ。この人は思ったことを、率直に、言葉を選びながら話してるだけ。それなのにどうしてここまで違和感が付きまとうのだろう。言いようのない気味悪さと、それをどう見たって普通の人間が話している現状。いきなり喋りだした人形に言ってもらう方がまだ受け入れられたかもしれない。会話しているはずなのに、どうしたらいいのかがわからない。

 そもそもこの人は、俺と会話しているのだろうか。

「だから、これからも頑張ってね。路悠くん」

 徐に彼がゴム手袋を外す。作業が終わったのだろうか、続けてマスクや保護メガネも外し始めた。……なんというか、話した感じがしない。目隠ししたままスライムに触ったような気分だ。わかっているのにわからない。妙なものに触れてしまったような、あとから思い返して寒気を覚えるような。

 ふうと一息吐くと、ゆっくりと振り返る。保護メガネや後ろ姿でわかりにくかったが、かなり癖の強い黒髪だ。アホ毛も動きに合わせて揺れているし、それなのにかなりガタイがいい。身長だってかなり高いだろう。……なんというか、なんと言えばいいのか。やっと顔を合わせたというのに何も言わないでいると、彼は小さく声を上げた。

「本物の金髪だ、初めて見た」

「本物…?」

「うちの大学、なんか染めてる奴多いんだよ。金とか青とか赤とか。だから、地毛が金髪の人は初めて見た。ハーフとか?」

「あー、はい。父親がフランス人で」

「そうなんだ、世界って狭いねえ」

「で、ですね」

 ……は、初めて普通の会話をした…。思わず息を吐き、慌てて何事も無かったフリをする。幸い気付かれなかったようで、片付けるためだろうか、また機材の方へ向き直ってしまっていた。……なんだか、どっと疲れた気がする。できるなら部室に戻りたいけど、なんて宇治野先輩を見やれば、同時に肩を持たれ扉の方に押された。

「わっちょ、」

「じゃあ、当初の予定通り演劇部の部室前で待ち合わせな! 声かけてくれ!」

「りょーかーい」

 言葉尻こそ軽いものの、彼は振り返らない。その後ろ姿を最後に、追いやられるようにして体育館を出た。来た時と違い、今度は腕を掴まれていない。解放されたかのような気分にまた息を吐けば、ごめんと小さく謝られた。

「普段はもう少し顔を合わせて会話する奴なんだけど、今はメンテしてたからぶっきらぼうなってたわ。ごめんな」

「いや、そこは、そこはいいんですけど……」

「───ああ、はっきり言っていいぞ。むしろそれが目的だったし。どう思った?」

 にやりと宇治野先輩は笑う。それは連れてきたときと同じ笑みで、算段がうまくいったという顔で。………会わせたい人って、やっぱりこれが目的か。考えようと、少し目を伏せる。そう、あの人との邂逅は。

「……正直言って、よくわかりませんでした。言われた言葉がっていうか、あの人、自身が…? なんていうのかな、たぶんきっと理解しようと思えばできるんですよ。できるんですけど、なんというか………」

「気味が悪い。そんな感じ?」

「…………まあ、有り体に言ってしまえば」

 というかそれ以外に当てはまる言葉が思いつかない。気味が悪い……わからない。使う言語は同じはずなのに意味が全く異なっているような、そんな感覚。どう返答するのが正解だったのか、落ち着いた今でもわからない。

 しかし、宇治野先輩的にはそれでよかったらしい。そうかと小さく頷き、軽く背中を叩いてきた。勢いで前につんのめったものの、それをきっかけにして先輩が歩き出したので、自分も倣うことにする。

「でもまあ、あいつ的にはめちゃくちゃ褒めてるつもりだから! そこだけは保証するから! ……………いや、な。俺とお前、割かし似てると思って。だから俺みたいに、あいつと会ったら何か変わるんじゃないかって思ってさ」

「俺と宇治野先輩が?」

「緑と会う前の俺と、な」

 俺からすると全くそうは思えないのだが…。それとも、そんなに激しい変化があったのだろうか。それこそ今とまるっきり変わってしまうような。根本からひっくり返ってしまうような。

「知らないことを知らないだけだと思ってさ。それ自体は悪いことじゃないけど、勿体ないじゃん? それに、知らない分だけ反動がデカい。お前だって緑に気圧されただろ?」

「……そうですね」

「知らない世界はかなり広いぞー? それを知らずにいるのは、つまらないからな」

 それは。

 ずっと、あの時から思い続けてきたことで。

「………………そうですね。ええ、そう思います。とても、つまらなかった」

「だろ? だから似てるなって思ったんだ。何も知らなくて、一つに固執していた俺と」

 ああ───本当に、俺は何も知らないだけだったのだ。知っている気になっていただけだった。世の中には色々な人間がいて、色々なことがあって、色々な物語がある。狭い世界に一人閉じこもって、曇ったメガネで外を見る。そんなの、面白くなくて当然だろう。

 今思えば、見えていた世界さえ小さかったのだ。同じレベルの人間、たった三十名程度しかいないクラス。そこで起こる化学反応なんてたかが知れている。それで全て知った気になって、井の中の蛙もいいところである。俺は何も知らなかった。知っていたけれど、ごく一部にすぎないことさえ知らなかった。つまらないのは当たり前だった。

「宇治野先輩」

「うん?」

「あの人、緑先輩って呼んでも構いませんかね」

「別に気にするような奴じゃないし、別に大丈夫だと思うけど?」

「よかった。いやあ、目標にでもしようと思いまして」

「目標? あいつを?」

「だって、面白そうじゃないですか」

 差し当たって宇治野先輩を真似して、にっと笑ってみる。自分じゃないような気分だ、これだけでなんだか面白い。今はただの目標だが、完璧に再現しようとも思わない。ただ、あの人を理解しようとしても、ほとんど理解できないような気がするから。

 思惑が伝わったのかわからないが、宇治野先輩は息を吐いて歩を進めていく。肯定の意、かな? 好きにすればいいなんて意味かもしれないし、また別かもしれない。けれども、否定しているわけではないだろう。されたとしても、こればっかりはやめるわけにもいかない。

 いつかでいいから、現実は面白いと、笑いながら言ってみたいから。





【懐古疑録】Fin.

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懐古疑録 意舞 由那 @Yoshina_Imai

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