第11話 男女の声

 日曜日。昨日風見に言われた言葉を少なからず引きずってはいたものの、それでも立ち止まることを良しとしなかった。白鷺 佳奈と蒼桔 梗平にとって記憶に根深い場所。それはもうひとつある。今回ばかりはひとりの方がいいだろうと判断して、蒼桔は昼過ぎになってまた外へと繰り出した。


 さすがに上着なんてものは着ない。シャツ一枚のラフな姿で、自転車をこぎ続けること十数分。車通りの少ない河川敷の道が目的地だった。春になると満開の桜が見ることができ、時が過ぎれば道が桃色に舗装される。今は青い葉をつけているだけだが。


 反対側の方からは車の通る音がひっきりなしに聞こえてくる。この場所で車の音が聞こえると……心の隅で燻り続ける、当時の怒りや虚しさが込み上げてきた。


(……今更ここに来たって、なぁ)


 自転車を停めて、ガードパイプに腰を下ろす。道行く人は少ないが、平日の夕方はよく学生がこの道を通る。蒼桔も通学路として使っていた道だ。


 そして……二年前の夕方、ここで事故が起きた。なんてことはない、交通事故だ。居眠り運転をしていた車に跳ねられて、佳奈は記憶を失った。少しでも庇うことができたならと考えたこともあるが……人間というのは、咄嗟の事態に反応できることは少ない。


 三人まとめて跳ね飛ばされ、一番外側にいた蒼桔は骨折、風見は打撲と擦り傷。一番内側にいたはずの佳奈は比較的軽傷だったが……頭の打ちどころが悪かったのだろう。以来、彼女の記憶は消えたままだ。


 このガードレールも、事故が起きたから設置されたもの。日中の通交量が少ないからといって設置されていなかったが、さすがに学生がまとめて引かれたともなれば、自治体も看過できない。


(この場所に、佳奈が来れば何か思い出すか? 事故当時のショックもかなり大きいだろうし……いや、佳奈が今までこの道を通らないわけがない。二年だ。さすがにこの道を使うことだってあるだろう)


 本人に確認が取れないのでわからないが、おそらく白鷺はこの道を使うだろうと思っている。いや、通り過ぎただけでは意味がないのかもしれない。この場所で、当時のことを話してみれば……何かしら思い出せるんじゃないか。そんな淡い期待ばかりが蒼桔の脳内を掠めていく。


「……先輩」


 俯いて考え事をしていた蒼桔の耳に、声が届いてくる。右側を振り向くと、細く健康的な素足が目に入ってきた。ジーンズのハーフパンツと、白を基調としたシャツ。肩下げカバン。そして眼鏡。


 学生服とはまた違った印象を与える後輩の姿に、思わずこんな知人いたっけかと見違えていた。相変わらず長い髪の毛が暑そうではあるが、彼女はそれを気にする様子はない。


「……よう。休日に顔合わせるなんて、稀なこともあるもんだな。何やってんだ」


「ちょっとした、探しものです。先輩こそ、こんなところで何をしているんですか」


「……前に話したろ。佳奈が事故った場所、ここなんだよ」


 まぁ身体的に一番ダメージを負ったのは俺だけど、と苦笑する。座ったまま動く気配のない蒼桔の隣にまで音寺がやってくると、ひとり分くらいの隙間を空けて横に腰を下ろした。


 相変わらずと言えばいいのか、彼女が何を考えているのか測りかねる。ふと思い出したのは、一昨日の帰り道だろう。もう少し一緒にいられるから、と遠回りして帰ったのは未だに強く記憶に残っている。


(……綾の差し金か。コイツそこそこ連絡取り合ってるらしいしな)


 教室にまでやってきたりと、随分と甲斐甲斐しい。けれど自分には佳奈がいる。そんな移気な性格はしていない。くっついて一緒にいようだなんて思ってしまえば、今の佳奈に呪い殺されても文句は言えないだろう。


(それで一緒にいられるなら、それはそれでアリか)


 なんて、親が聞いたら悲しむようなことを考えてしまう。もちろん蒼桔に死ぬ気はない。なんとかして佳奈を元に戻すのが最優先だ。


「お前、何か探してるんじゃないのか」


「なかなか見つからないものでして。少し、疲れました」


「外で歩いて探してるんなら、何か落としたのか」


「いや、そういうものじゃなくて……まぁ、人に言うものでもないですよ」


 話してくれないらしい。前に彼女の過去についても話してくれたが、そう多くはなかった。まだ出会ってそう日も経っていないから、仕方のないことではあるんだろう。


 お互いに二、三言話すと、しばらくの間沈黙の間が流れる。河川敷の下の方からは川のせせらぎが聞こえ、風が吹くと揺れる木々の音が遠くからの音を消してくれた。


 夏場に涼し気な風が吹く時の心地良さは格別だ。心に落ち着きを取り戻しつつあった蒼桔は、ゆっくりと深呼吸をしたあとで口を開く。


「なぁ、少し話をしてもいいか」


 蒼桔は正面を向いたまま、そう問いかける。彼女は視界の隅で半分ほどこちらに顔を向け、小さく頷いた。それを確認すると、つい昨日の出来事を手短に話し始める。


「昨日、綾に言われたんだ。今生きている人間を、偽物扱いするなって。俺にとっての白鷺 佳奈っていうのは、昔のアイツで、今の佳奈じゃない。だから俺は、本物を取り戻したかった。そしたら、お前にとって本物っていうのは、自分を好きな白鷺 佳奈だろって言われたんだ」


「……それで、どう答えたんですか?」


「……ぶん殴ってやりたい気持ちに駆られた。けど、実際……そうなのかもなぁって気もする。俺はきっと、佳奈が佐原を選んだら、認められない。認めたくない」


 だって、そうだろ。彼氏なんだから、と彼女に言う。頭に血が上っていたとはいえ、少し落ち着いてみれば彼の言葉にも理はある。当事者から少し離れた立場として発言する風見の言い分に、頷ける部分もあるのだ。


 だからといって、今さら謝る気にもなれないし、そもそも彼の言葉を否定しなければならない。そうしないと、自分が幽霊の佳奈にどう向き合うべきなのかわからなくなりそうだからだ。


 佳奈が本物だから、記憶を持っているから、蒼桔は彼女の味方でいる。生きている白鷺を、偽物だと糾弾する。それが当然の帰結だろうと、そう思っていた。


「俺の言い分と、綾の言い分。どっちだって間違っていないはずなんだ。お前なら、どうする」


「……先輩は、今の白鷺さんを偽物だと言うんですね」


「記憶を持った幽霊がいるなら、そっちを本物だと言うだろ」


「なら、今生きている白鷺さんは、一体誰なんでしょうか」


 それは……と言葉がつまる。偽物だからといって、存在しないわけじゃない。普通に生活して、勉強して、友人や彼氏と遊んでいる。その事実はどうあれ変わらないことだ。


「幽霊さんを肯定するために、今生きている人を否定する。それが先輩の道理ですよね。でも、普通は逆ですよ。彼女は、生きているんです。それを否定してはいけないんですよ。彼女もまた、ひとりの人間なんですから」


「……でも、俺はそう思えない」


「だとしても、ですよ。先輩の言うように、記憶がある方を本物だと言うのなら、それが元に戻った時……本物と偽物の記憶、両方を持った三人目の白鷺さんがいることになってしまいませんか」


 幽霊の佳奈を一人目として、今生きている白鷺を二人目にする。その二つが合わさった、元通りの佳奈は……果たして、本物と言えるのか。それはもう三人目といって差し支えないんじゃないか。彼女はそう言いたいんだろう。


「そして先輩は、それを否定しないといけない。先輩にとって、偽物はいて欲しくないから。純粋な本物が欲しいから。例え三人目が先輩を、それか佐原さんを選んだとしても、否定する。それが、道理ってものじゃないですか?」


「……それは、違うだろ」


「筋は通ってる気はしますよ。先輩がすべきなのは、彼女を認めることだと思うんです。本物とか、偽物とかじゃなくて。区別をつけちゃいけないと思います」


 区別するな。そう言われても、どうしようもない。蒼桔には明確な本物が見えているのだから。今更記憶のない白鷺のことを、ひとりの人間として見ろと、扱えと言われても……素直に頷くことは難しい。


 今まで散々、心の中で悪態をついてきたのだから。顔で選んだだの、あんな奴と付き合うなんて、と。


「先輩は、今の白鷺さんがどんな目にあってもいいと思っていますか?」


「……別に、どうなろうが知ったこっちゃねぇって綾には言ったよ」


「なら、怪我をしても? 目が見えなくなってしまっても? それか……死んでしまっても?」


「死ぬって……」


 別に俺はそこまで、と言いかけて気づく。それでは自分の言葉と矛盾するじゃないかと。


「先輩は否定してるんじゃなくて、否定したがっているんです。心のどこかでは、認めてしまっているんじゃないですか?」


 否定したがっている。どうとは言えない。ただ……蒼桔には、わからなくなってきていた。本物とはなんなのか。偽物はいるのか。佳奈が本物なら、今の白鷺は誰なのか。


 偽物ならどうなってもいいだなんて、それは結局誤りだったのではないか。目の前で彼女に何か起きたら、どうする。また車に跳ねられそうになったら、彼女のために身を挺することができるのか。


「……んな事言ったって、わからねぇよ」


「否定するのは簡単ですけど、認めるのは難しいことですから。今はじっくりと考えてみるべきじゃないでしょうか」


「………」


 額に右手を添えて俯く。肺の中身を一気に吐き出していき、ごちゃごちゃとしている頭の中を整理する。それでも、今の白鷺についてどう思うべきなのかという問いかけに対しての答えは出てこない。


 本物と偽物という区別をつけるな、という言葉を額面通りに受け取って反映できるのなら、こんなに苦労しない。


「……そうだ、先輩。この前送ってくれたお礼をしたいので、ちょっと家まで来てくれませんか」


「彼女持ちを家に誘うか、普通」


「何もしませんよ。ただちょっと、渡したいものがあるので」


 彼女は立ち上がると、そのまま彼女の家の方向に向かって歩き出してしまう。なんだかやましい気持ちもあるが、仕方なく蒼桔は後ろをついていくことにした。


 前に通った道とはまた別の道を通り、彼女の案内に従って十数分ほど歩いただろうか。つい先日見たばかりの、彼女の家が見えてきた。住宅街にある二階建ての家は、周りの家と比べても変わり映えしない。普通の家のように思える。


 フェンスを開けて敷地の中に入り、彼女は躊躇いなく玄関の戸を開けて「ただいま」と言う。すると「おかえり」「いらっしゃい」と中から男女の声が返ってきた。おそらく親がいるんだろう。その事実に蒼桔は家の外で待ってようとしたが……音寺に「入っていいですよ」と言われてしまうと、そうもいかない。意を決して、挨拶してから家の中へと入っていった。


 彼女の後ろを歩いていくと、リビングに辿り着く。ソファではまだ若そうな男性が座りながらテレビを見ていて、思わず萎縮してしまう。頭を下げて「お邪魔します」と言えば、彼も表情を柔らかくして「いらっしゃい」と言ってくれる。


「先輩、ちょっと待っててください。取ってきますので。あっ、椅子に座ってていいですよ」


「えっ、いやちょっ……」


 置いてくの、この状況で。待ってくれと言いたいが、彼女はそそくさとリビングから出ていってしまう。


 女の子の父親と一緒にいろなんて、軽い拷問か何かだろう。どうしたものかと視線を動かしていると、座っていた男性が立ち上がって、椅子に座るよう促してくる。座ると、食卓を挟んで対面に座った彼の方から話しかけてきた。


「君が、娘の言ってた蒼桔くんで合ってる?」


「あっ、はい。そうですけど……」


「そっか。最近いろいろと君の話をしてくるんだ。なんでも、幼馴染の幽霊が見えるとか。それにこの前、家まで送ってくれたらしいじゃないか」


「あぁ、まぁ……頼まれてって、感じっすけど」


「確かに……あの日はいたからねぇ」


 いた、とはなんだろうか。てかなんで幽霊のことまで話してるんだ。いや待て、そもそも何を話すべきだ。娘さんについて知ってることなんてほとんどないのに。渾名のことなんて話すべきではないだろう。そうなると本当に話すネタがない。


 とりあえずなんとか場をもたせないと。そう考えて、蒼桔は足りない頭で言葉をひねりだす。


「えっと……そういえば、音寺さんのお母さん、いますよね。一応挨拶した方がいいかなぁ……と」


「……ん?」


「えっ、いやさっき女の人の声が聞こえたもんですから……」


「……ウチは、今は一人しかいないはずだよ」


 変なこともあるものだね、と父親は笑っている。聞き間違いだろうか。いやでも確かに、女の人の声が聞こえたような気がする。いらっしゃいと言ってくれたはずだ。


 疲れているんだろうか。あははと軽く笑いながら、聞き間違いですかねぇと父親に言葉を返した。


「……君は娘から何か聞いてるかい?」


「何かって言うと……」


「例えば、家族のこととか、体質とか」


「……姉が、亡くなっているとは聞きました」


 それもつい先日聞いたばかりのことだが。しかしそれを聞いた父親は「そうか……」と小さく呟くと、肘を机に乗せて、両手を組むようにしながら蒼桔のことを見据えてくる。


 真面目な顔で睨むように見てくるものだから、何かしてしまったのかと更に萎縮してしまう。部屋の中は涼しいはずなのに、頬をツーっと汗が垂れてしまった。


「娘はいろいろと訳ありでね。できれば友だちとかもちゃんといてくれると有難いんだけど……君はどうかな?」


「えっ、いやその……け、健全な関係を築きたいと」


「じゃあ、幽霊が見えるってのは本当のことなのかな?」


「………」


 どう答えたらいいのかわからない。真面目に答えても笑われるだけだろう。かといって冗談ですよなんて言えば、それはそれで何を言われるのかわからない。


 頼むから早く戻ってきてくれ。部屋の外に行ってしまった後輩を心の中で呼ぶも、帰ってくる気配はなかった。


「実を言うとね……娘もそうなんだよ」


「……はい?」


「そういうのが見えてしまうんだ。多分君と同じようにね」


 そう言う父親の顔は、ふざけているようには見えない。真っ直ぐに睨むように見てくる眼光から目を逸らしたかったが、できなかった。


 しかし、見えているというのは本当なのだろうか。だとしたら佳奈が見えていてもおかしくはない。そう思ったが……音寺と会う時、今まで一度も佳奈が一緒にいたことはなかった。見えていたら、何かしら言っていたのだろうか。


「娘が言うには、見えているのは幽霊なんかじゃなく……怪異、だっけな。害を及ぼすモノが見えるらしいんだよ」


「……怪異、ですか」


「そう。だから君の言うことが本当なら、羨ましいと言っていたよ。見えるのなら、母や姉の幽霊に会えるのにって」


 母や姉、と彼は言う。この家には一人しかいないはずなのに、先程男女の声が聞こえてきた。だとしたらさっきの声は……まさか、そういうことなんだろうか。


 見えもしない誰かがいるというのは、こんな感覚なのか。風見の立場になった気がして、背中に嫌な寒気が駆け抜けていった。

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あの日の君につかれていた 柳野 守利 @Syuri-Yanagino

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